えぞのあやめ

とりみ ししょう

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五の段 顔  あやめのいる家(三)

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「そう、いわれた。よくおぼえているぞ。」
 あやめは茫然としている。
(さほど隠すつもりもなかったが、すべて大舘に知られていたのか。)
(そして、おやかたさまのお考えが……。)
(「女の真心」、そういわれたのか……?)
「それだけに、許せなかった。おやかたさまは、激怒されたのだ。」
「なにを、でございましょうか?」
(堺に逃がそうという、わたくしのたくらみをか?)
「わからぬのか。……そちらの仲が、もろく崩れてしまったのが。十四郎殿が、みすみす故郷の村などというものに心囚われて、そちを捨てたのを。」
「それを、お怒りとは?」
「あやめ、そちなら考えていたのだろう? 遠流も同然に蝦夷地に放たれるのなら、十四郎殿を連れて堺に帰ろうと。そこで夫婦になろうと。それが十四郎殿は、なんであったか、ポなにやらという赤蝦夷の村などに本当に飛びこんでいきおった。そんなところで身を捨てるために、そちらの間にあったはずの二世の誓いを破りおった。なんという不徳義。裏切り者。納屋の御寮人に対してだけではない、儂らに対しても背信じゃ、と仰せられた。」

 北の方は、十四郎がほんとうにポモールの村に行くつもりらしいと知ったときの、夫のみたこともないほどの激昂ぶりを思い出している。この部屋で、歩き回って怒った。
(昂奮して部屋を歩く。らしくもないこの癖は、お義父上ゆずりか。)
「わしらが目をつぶってやっていたのが、無駄になったではないか?」
 夫はやはり自分とだけ、この話をしていたのだな、周囲の者にも一切隠していたのだな、と北の方は思った。
 夫婦だけであの二人をひそかに大事に見守っていたのが、台無しにされた。そう気づくと、自分たちが愚弄されたかのような怒りも、北の方には新たに湧いてきた。
「まことに、十四郎殿はいつまで母君の影を追うのでございますか。」
「いや、それはな。無理もないが……」
 新三郎は妻の怒気に少しあてられたように、座った。
「男の方は、いつまでも母君でございますか?」
「……なんにせよ、あまりに馬鹿げておる。たとえあと兵を何十人つけてやれようと、勝てるものではない。お家をあげて遠征でもすればなんとかなろう。だが、そんなことはできぬ。」
 だから蝦夷代官名義の停戦命令をまず出せ、といってやった。その文まで書いて、父代官の花押まで貰ってやったという。だが効きはせぬだろう、といい添えたが、北の方の気持ちはそこにはいかない。十四郎の身勝手が、ただ腹立たしくてならない。
「……十四郎殿、恩知らずな。せっかく助けられた命を。」
「そうよ。腹を切った与三郎は、まるで犬死じゃ。……儂も、逃がしてやろうとしたのに。松前など捨てよ、雪が溶ければさっさと逃げよ、納屋の御寮人と道行でもしてしまえ、と左様にいってやったつもりであったのに。役にたちそうもない部屋住みの三人しか付けないなどという仕打ちの意味が、あやつにわからぬ筈はないのに。」
「もう一度、いい聞かせてやっては如何でしょうか。」
「そうする。気づかせる。……女を泣かせおって! そも、この松前で蠣崎家の裏をかこうとするは不埒。たとえ今井の娘でも露見すればただでは済まぬとは、さすがにあの女も知っておったろう。さすれば、決死の思いに相違ない。その約束を、簡単に反古にしおって!」
「納屋の御寮人は、どうしているのでしょうか。……嘆いておるでしょう。」
 新三郎はそれを聞くと瞬時考え込んだが、やがて吐き捨てるようにいった。
「……愚かな女だ!」
 十四郎はしかし翻意もなく、行ってしまったらしい。納屋の御寮人にも、なすすべはなかったようだ。
 やがて十四郎がどうやら戦で死んだらしいという報が噂として伝わったとき、夫は、今度はなにもいわなかった。自業自得だ、という意味の地の言葉を言い捨てた時の暗い表情から、自分を責めているのがわかった。
(このひとに、このような顔をさせおって!)
 義弟を哀れに思うよりも先に、思慮の浅かった若者への怒りが、また込み上げてきた。

「そのあと、怒りをそちに向けてしまった。そちは、今度はおやかたさまにむごい思いをさせられた末に、ここに召されたとは聞いていたのだが、……ただ、おやかたさまが十四郎殿にお怒りになる理由の底に、そちをまことにご心配になられる気持ち、あえていえば、……いってしまおう、やはり、そちを想われる気持ちがあるのを、おそばで知っていたのでな。湯殿で無理矢理、など、あろうことかと思った。そちも商人。あるいはなにか、そちの方からも、と。」
 あやめは、お方さまへの挨拶で冷たくされたときのように、からだを思わず固くした。
「すまぬ。あやめ、すまぬよ。……あのおやかたさまがお前を打つと知って、はじめて、納屋の御寮人を見誤っていたとわかった。そちは、決して心をお渡ししなかったのだな。だから、おやかたさまはお悲しみのあまり、あんなにむごい行いを続けられた。……それでようやくわかった。」
(「悲しみ」……)
「あやめ、おやかたさまを、許してさしあげてくれぬか。」
「はい、わたくしはもう、……もう、忘れたいと存じております。」
「忘れぬでもよい。忘れられまい。だが、いつか、きっと、な?」
「はい。お方さま、お伝えしてよいのかどうか。こっそり申しますが、おやかたさまも、わたくしなどに、詫びてくださいましたのです。」
 あやめの目は真っ赤だが、笑い顔をつくっている。
「それはよかった。……わらわといえば、ずっとおやかたさまのやさしさばかりをいただいていたので、そちの身も心も苛んだ、あのお方の恐ろしさに目をつぶってしまっていた。許せよ。」

 あやめは目を閉じて首を振った。一条、涙がほおに流れた。
「なにをおっしゃいますやら。お方さまにお詫びなど頂戴しては、ばちがあたりまする。それに、あやめが、結句、お馬を乗りかえたのは、まことにございましょう。何よりの証拠に、ここに、こうしております。」
「ちがうな、あやめ。それは、ちがおう。」
「……はい、手前は、初色の十四郎さまをずっと忘れておりませぬ。」
「いや、あやめよ、それだけではないはず。」
 北の方は、聡明そうな瞳で、じっとあやめを見つめている。
(あっ、このお方は、……見ぬかれている。)
「いうてくれぬか? そちは、十四郎殿とまだ繋がっておろう? どうやってかなどはわからぬが、蝦夷地の十四郎殿との仲は切れておらぬのではないか? 縁や想いの話ばかりではない。」
「……」
「十四郎殿は、じつは蝦夷地でたいそうな威勢を張っているらしいな。箱館にお味方されるのやもしれぬ。そちも、なにか手を貸しているのではないか?」
 北の方は実家の村上家を通じて、新三郎以上に正確に事態をつかんでいるようだった。あやめは顔から血の気が引くのをおぼえた。
「あやめ、話したくなければ、よい。わらわが聞いても仕方がない。それに、そちの望みは、ただ十四郎殿と添うだけだとは、わかっている。邪魔はせぬ。おやかたさまにもご相談はせぬ。女同士の話じゃ、殿方には立ち入らせぬ。……それにな。むろん、おやかたさまはたれよりも大切。だが、村上と蠣崎の家のあいだで、わらわも悪くならねばならぬのよ。」
 北の方はまた薄く笑ったが、
「……ただ、ひとつだけ約束してくれぬか。」
「……」
 あやめは震えあがる思いに、諾否も答えられない。穏やかな口調のお方さまの前で、身動きもとれなくなっている。
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