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五の段 顔 短い秋 (七)
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「なにをおっしゃいます。おやかたさまともあろうお方が。」
あやめは引きつった笑いを浮かべる。
「どうあってもよいではないか、蝦夷島のことも、蠣崎のことも。」
「どうでもよい……とおっしゃいました?」
「そうじゃ。親父どのたちは、何の成算も立たぬのに、よくやるものじゃと思う。やれるものならやれ、できはせぬが。だが、儂はもうよい。」
「……。」
「儂には、お前がいる。あやめがいてくれる。」
「わたくしは箱館に奔ってしまうのではありませんでした?」
「地の果てまでいくわけでもなかろう。覚悟せよ、必ず引き戻すぞ。……いずれ、また会える。毎日でも会える日が来よう。」
「わたくしは……」
新三郎は、あやめを抱きしめた。包み込むように抱きなおし、首のあたりの肌の匂いを嗅ぐ。あんなに汗まみれになっていたのに、あやめからは汗以外の良い匂いがすると思った。
「なにもせぬ。もう何もしたくなくなった。先ほどは勇ましいことをいうたがな、もう今からは全て、成行きにまかせる。何も起きぬがよい。何も起こさぬ。指折り数えて、親爺どのがみまかるのを待ってやろう。そのあと志摩守が継げなくてもいい。安東侍従の目の黒いうちは無理だろう。蝦夷代官のままでも構わぬ。」
「おやかたさま、なにを仰るのです。何もしない? それでも安東様のご命令は聞かれるので?」
「蝦夷代官でいるために、それくらいはな。」
「蠣崎家のご自立は? 蝦夷島は?」
「お前がいればいい。あやめをこうやって、抱いていられればいい。」
(かわいいお前を……)
新三郎はあやめをさらに強く抱こうとした。
「お放しくださいませ、」
あやめは冷たい声を出した。
「あやめ、情けない男と思ったか。」
「……思いました。」
「嫌われたか。」
「今のように泣き言をおっしゃるおやかたさまは、……はい、嫌いでございます。」
「そうであろう。ついていても、何の得にもならぬ男だからな。」
「損得だといわれまするか。」
「では訊くが、なぜ儂に添って参った? 憎い儂に? 官位でも持って来れば、十四郎の赦免がかなうとの計算があったからだろう? それはいったん潰れてしもうた。だから、見切りをつけて箱館へ行く。」
(拗ねたことをいうものだ、このおれが。)
新三郎は本気ではないのをあやめに示したいので、苦笑いする。
そのあやめは、すました顔のままだが、よくみると、細かく震えている。
(あやめ、怒りおったな?)
「そう思って下さって結構ですが、もう忘れられていますよ。先ほども申しあげました。……わたくしは、まことに、あなたさまのものになってしまったのだ。憎い憎いおやかたさまが、いまはいとおしくて仕方がない。あれほど厭だったのに、つらかったのに、いまは、あなた様とお床をともにできて、よろこんでいるのでございます。お話を伺うのも、面白くて、楽しうてならぬ。よくお笑いで、たわぶれがお好きな方だったと知って、うれしくて仕方がないのだ。」
あやめは喋りながら、大きくしゃくりあげるように肩を震わせはじめた。それをなだめるように撫でながら、新三郎は前から訊いてみたいことを思い出した。
「……あやめ。訊き忘れていた、なぜだ、なぜそんな風に変わった? 殺したいほど憎いおれの、なにがよくなったのだ?」
「え……?」
震えていた丸い肩が止まった。あやめは吹きだした。唖然とする新三郎の腕の中で、身を揉んで笑う。
「ご兄弟じゃねえ。十四郎様と、同じことを訊かれるわ。」
「そんなにおかしいか。」
「同じお答えをいたしますよ。といって、あのときは」
「?」
「……あのときは、そんなことをいまさらのように訊かれて、わたくしは情けなくて、泣きだして答えられなかったのだが、いまは、おかしくてなりませぬ。まことに、よく似ていらっしゃること。……」
「あいつと似てなどおるまい。」
「お顔はね。……ようございますか、なぜ、などと訊かれても困る。なんの損得勘定もたたないのです。こればかりは、どうしても計算が立たなかった。わからない。まったく、帳がとじないではないか。けれども、け、けれども……」
「あやめ、やはり、泣いておる。」
「泣いておりません。おかしくて、笑いすぎて涙が出た。……わたくしは、似たような方しか、お慕いできない女だったのでございますかね。」
「それでいいではないか。あやめ、損得ではない、というのはたしかだ。すまぬ。また、お前を辱めたな。」
「こちらこそ、ご無礼申し訳ございませぬ。ただ、わたくしは腹をたてました。おやかたさま、新三郎さま。」
「おう。」
少し、お放しくださいますか、とあやめはゆっくりと新三郎の腕を離れた。躰を起こし、やや離れて、横になったままの新三郎をみつめる。
「あやめは、あなた様のものでございますね。」
「そうだ。お前はおれのものだ、あやめ。おれの、宝だ。」
その言葉に、あやめはきつく目を閉じた。
「……では、あなた様もわたくしのもの。宝でございまする。あやめの一生の宝。……であれば、わたくしは怒っていいはず。わたくしのおやかたさまは、さきほどのようなことはいわれない。あんなことを口に出されるのは、おやかたさまではない。決して、わたくしなどに泣きごとを漏らされない。このまま無為にずるずる流されていくだけではないはず。かならず、自分でお決めになる。怖いこと、恐ろしいこと、おつらいことでも、ただおひとりで考えて決められてきた。すべてをご自分で決め、立ち向かってこられた。お若いころから左様でいらしたと、わたくしはお方さまからうかがいました。どんなことになっても、すべてご自分ひとりで引き受けられる、それができる方なのだと。……おやかたさま、このたびも、左様なさってくださいませ。」
あやめは深々と低頭した。
新三郎は黙っている。やがて、息を吐いた。体を起こしたようだ。
「あやめ、礼をいう。」
(涙?)
泣いているようなその声に驚いて顔をあげると、あやめは新三郎の表情を読む間もなく、抱きすくめられていた。 新三郎は無言だ。
太い腕に締め付けられ、温かい胸の中で、あやめは目を閉じた。
あやめは引きつった笑いを浮かべる。
「どうあってもよいではないか、蝦夷島のことも、蠣崎のことも。」
「どうでもよい……とおっしゃいました?」
「そうじゃ。親父どのたちは、何の成算も立たぬのに、よくやるものじゃと思う。やれるものならやれ、できはせぬが。だが、儂はもうよい。」
「……。」
「儂には、お前がいる。あやめがいてくれる。」
「わたくしは箱館に奔ってしまうのではありませんでした?」
「地の果てまでいくわけでもなかろう。覚悟せよ、必ず引き戻すぞ。……いずれ、また会える。毎日でも会える日が来よう。」
「わたくしは……」
新三郎は、あやめを抱きしめた。包み込むように抱きなおし、首のあたりの肌の匂いを嗅ぐ。あんなに汗まみれになっていたのに、あやめからは汗以外の良い匂いがすると思った。
「なにもせぬ。もう何もしたくなくなった。先ほどは勇ましいことをいうたがな、もう今からは全て、成行きにまかせる。何も起きぬがよい。何も起こさぬ。指折り数えて、親爺どのがみまかるのを待ってやろう。そのあと志摩守が継げなくてもいい。安東侍従の目の黒いうちは無理だろう。蝦夷代官のままでも構わぬ。」
「おやかたさま、なにを仰るのです。何もしない? それでも安東様のご命令は聞かれるので?」
「蝦夷代官でいるために、それくらいはな。」
「蠣崎家のご自立は? 蝦夷島は?」
「お前がいればいい。あやめをこうやって、抱いていられればいい。」
(かわいいお前を……)
新三郎はあやめをさらに強く抱こうとした。
「お放しくださいませ、」
あやめは冷たい声を出した。
「あやめ、情けない男と思ったか。」
「……思いました。」
「嫌われたか。」
「今のように泣き言をおっしゃるおやかたさまは、……はい、嫌いでございます。」
「そうであろう。ついていても、何の得にもならぬ男だからな。」
「損得だといわれまするか。」
「では訊くが、なぜ儂に添って参った? 憎い儂に? 官位でも持って来れば、十四郎の赦免がかなうとの計算があったからだろう? それはいったん潰れてしもうた。だから、見切りをつけて箱館へ行く。」
(拗ねたことをいうものだ、このおれが。)
新三郎は本気ではないのをあやめに示したいので、苦笑いする。
そのあやめは、すました顔のままだが、よくみると、細かく震えている。
(あやめ、怒りおったな?)
「そう思って下さって結構ですが、もう忘れられていますよ。先ほども申しあげました。……わたくしは、まことに、あなたさまのものになってしまったのだ。憎い憎いおやかたさまが、いまはいとおしくて仕方がない。あれほど厭だったのに、つらかったのに、いまは、あなた様とお床をともにできて、よろこんでいるのでございます。お話を伺うのも、面白くて、楽しうてならぬ。よくお笑いで、たわぶれがお好きな方だったと知って、うれしくて仕方がないのだ。」
あやめは喋りながら、大きくしゃくりあげるように肩を震わせはじめた。それをなだめるように撫でながら、新三郎は前から訊いてみたいことを思い出した。
「……あやめ。訊き忘れていた、なぜだ、なぜそんな風に変わった? 殺したいほど憎いおれの、なにがよくなったのだ?」
「え……?」
震えていた丸い肩が止まった。あやめは吹きだした。唖然とする新三郎の腕の中で、身を揉んで笑う。
「ご兄弟じゃねえ。十四郎様と、同じことを訊かれるわ。」
「そんなにおかしいか。」
「同じお答えをいたしますよ。といって、あのときは」
「?」
「……あのときは、そんなことをいまさらのように訊かれて、わたくしは情けなくて、泣きだして答えられなかったのだが、いまは、おかしくてなりませぬ。まことに、よく似ていらっしゃること。……」
「あいつと似てなどおるまい。」
「お顔はね。……ようございますか、なぜ、などと訊かれても困る。なんの損得勘定もたたないのです。こればかりは、どうしても計算が立たなかった。わからない。まったく、帳がとじないではないか。けれども、け、けれども……」
「あやめ、やはり、泣いておる。」
「泣いておりません。おかしくて、笑いすぎて涙が出た。……わたくしは、似たような方しか、お慕いできない女だったのでございますかね。」
「それでいいではないか。あやめ、損得ではない、というのはたしかだ。すまぬ。また、お前を辱めたな。」
「こちらこそ、ご無礼申し訳ございませぬ。ただ、わたくしは腹をたてました。おやかたさま、新三郎さま。」
「おう。」
少し、お放しくださいますか、とあやめはゆっくりと新三郎の腕を離れた。躰を起こし、やや離れて、横になったままの新三郎をみつめる。
「あやめは、あなた様のものでございますね。」
「そうだ。お前はおれのものだ、あやめ。おれの、宝だ。」
その言葉に、あやめはきつく目を閉じた。
「……では、あなた様もわたくしのもの。宝でございまする。あやめの一生の宝。……であれば、わたくしは怒っていいはず。わたくしのおやかたさまは、さきほどのようなことはいわれない。あんなことを口に出されるのは、おやかたさまではない。決して、わたくしなどに泣きごとを漏らされない。このまま無為にずるずる流されていくだけではないはず。かならず、自分でお決めになる。怖いこと、恐ろしいこと、おつらいことでも、ただおひとりで考えて決められてきた。すべてをご自分で決め、立ち向かってこられた。お若いころから左様でいらしたと、わたくしはお方さまからうかがいました。どんなことになっても、すべてご自分ひとりで引き受けられる、それができる方なのだと。……おやかたさま、このたびも、左様なさってくださいませ。」
あやめは深々と低頭した。
新三郎は黙っている。やがて、息を吐いた。体を起こしたようだ。
「あやめ、礼をいう。」
(涙?)
泣いているようなその声に驚いて顔をあげると、あやめは新三郎の表情を読む間もなく、抱きすくめられていた。 新三郎は無言だ。
太い腕に締め付けられ、温かい胸の中で、あやめは目を閉じた。
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