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五の段 顔 短い秋(四)
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「あやめ? つい十四郎のことをいったのは、悪かったな。思い出させてしまった。」
「左様ではございませぬ。……ご縁は、あったのでございます。そうでなければ、こんなことになっていたりはしますまい。前世よりの深い、強い因縁が、わたくしどもには……。」
あやめは、十四郎のことも思いだしている。新三郎に通じているかどうかはわからないが、「わたくしども」というのは三人のことだ。
「うむ。……おい、あやめ、大丈夫か? また躰が悪くはないか?」
「大過ございませぬ。少し高ぶってしまいました。」
「そうであろうな。」
「……おやかたさま。おやかたさまとわたくしのご縁のお話を聞いてくださいますでしょうか。このままの恰好で、恐縮でございますが……」
新三郎は頷いた。あやめは囁くような低い声で、つづけた。
「おやかたさま。おやかたさまが出会いのときからわたくしにお目をかけてくださったと聞いて有り難く存じますが、おやかたさまとわたくしは、やはり、あの湯殿からはじまりました。」
「さようか。……さようよの。お前には、ほかにはあるまいな。」
新三郎は苦い思いをかみしめるように、目を閉じた。
(おれは、あわれな女を弄んだ。)
「わたくしは、弟君の十四郎さまとの初色(初恋)やぶれ、十四郎さまは北に去られましたけれど、まだその恋を大切に抱きしめておりました。……それを、おやかたさまは、……」
あやめは息を吸った。
「おやかたさまは、無理無体にわたくしを犯されました。まずお力で、弟君に捧げたはずの貞操を奪われ、あとはお薬とご巧言にかかって、手もなく弄ばれたとおぼえております。」
「あやめ、……詫びる。しかし、あのときは、あれしかなかったのじゃ。……だが、」新三郎は、頭を起こし、あやめの目を覗きこむようにした。「おれはむごかった。愚かでもあった。十四郎は死んだと思い込んでいた。……詫びたい。むごい真似をして、まことにすまなかった。」
あやめは新三郎の言葉の途中から、震えはじめていた。固く目をつぶる。
「……詫びてくださった。とうとう、詫びてくださった。ああ……でも、許せませぬ。あのとき、あのような目に遭わされたのは、お許しできるものではございませぬ。許したくても、とても……許したいのに、許せない……」
あやめの閉じた目から涙が噴き出した。
「あやめ……それがいいたかったのか。長い間、腹膨れる思いだったな。おれのほうがつい忘れようとしていた。……すまなかった。すまぬ、あやめ。許せとはいわぬが……」
新三郎はあやめの躰をそっと横にすると、ふと離れ、小さく低頭した。あやめは息を呑み、起き上がった。おやめくださいませ、という言葉も出ずに、ぶるぶると泣き顔を振った。新三郎は頭を下げたまま、なかなか動こうとしない。
「おやかたさま……!」
あやめは新三郎の肩に飛びつくようにして、お顔をあげてくださいませ、と頼んだ。抱きついた。新三郎がようやくその肩を抱く。
「おやかたさま……ああ、おやかたさま。」
「責めてよい。そうせよ。」
「さような真似はいたしませぬ。ああ……さにはございませぬ。ご縁のお話です。……そのあと、わたくしはここに召された。おやかたさまは、とてもやさしくはございませんでしたね。」
「ああ。それは、……」
「わかっております。申し訳ございませぬ。お聞きくださいませ。……わたくしは、ぶたれたり、辱められたり、どんなに泣き叫んでもあの湯殿へ連れていかれたり、あ、思い出した、お薬はつらかった。あれはほんとうにあちらこちら腫れて、顔が戻らないのではないかと、心配でなりませんでしたよ!」
あやめは涙を流しながら、なにか楽しい思い出話のように明るい声を出した。
「そればかりではないぞ、あやめ。……おれに殺されかけただろう。首を絞めたのと、お前が舌を噛むまでいじめて、追い込んでやったときのことだ。」
新三郎は沈鬱な表情で、しかし、いわなければならぬと思ってつけくわえる。
「皆の思うていたとおりだ。おれは狂った。おまえの心は、どうしてもおれのものにならぬとわかってしまって、狂っていた。その相手は死人だと思うと、なにやらお前が、……お前に腹が立って仕方がなかったのだ。それもまた、おれの考えが至らぬところだった。すまなかった。どう詫びても足りぬ。」
聞きながらあやめは、わかりようのないことでございましたよ、と目を閉じて首をゆるゆると振ったが、ことさらに暢気そうな声を出そうとした。
「それにしても、首。あれは、つろうございましたねえ。でも、首の件、おかげさまでお方さまのおやさしさに気づけました。あんなことがなければ、いまほどよくしていただけなかったやもしれません。舌は……あっ。」
あやめは硬直した。
(忘れていた……なんてことだ、与平! この男との幸せに、忘れはてていた!)
(やはり、わたくしは、冷酷!)
(無慈悲な人殺し!)
新三郎は気づいて、あやめの躰を抱きしめた。
「思い出すな、あやめ! あれはおれのやったことだ。おれが襲わせた。とどめを刺したのも、おれ。お前のやったのは、その身と誇りを守るためだけのこと。だから、思い出すな!」
(いいえ、ちがう、ちがう。あれはわたくしがやったこと……)
(与平のあんな仕業を仕組んだのはおやかたさまだが、殺すところまで行ったのはわたくしのせい。『図』などを守ろうとして、殺した。殺してしまった。)
「最後は、おれが、あいつを許せるわけがなかっただろう。お前が何もしなくても、おれがあとで殺してしまっておった。だから気にするな。」
「与平、すまぬ、すまぬ、忘れていたとは……っ?」
あやめの思いが声になってほとばしり出た。それを抑え込むように、新三郎があやめの耳にいいきかせる。
「忘れたわけではない。だが、忘れてやっていいのだ、あやめ。与平とやらも、ほんとうにお前に懸想しておったのなら、それを望むだろう。お前に死ぬまで震えて暮らしてほしくはないだろう。」
「……。」
「わしらの縁の話を続けぬか? まだ終わりではないだろう?」
「……。」
「ああ、あやめ、すまぬ。また、忘れろなどと命じたな、儂は。さようなことは、してはならぬ。お前も、できぬのに。」
「……。」
「うむ、なにやら与平が羨ましいぞ、おれは。お前の心に、残ってしまえたようだしな。」
「おやかたさまっ?」
新三郎は微笑んだ。どうやらあやめの気をそらすことはできたようだし、口にしたのは本当のことだ。
「左様ではございませぬ。……ご縁は、あったのでございます。そうでなければ、こんなことになっていたりはしますまい。前世よりの深い、強い因縁が、わたくしどもには……。」
あやめは、十四郎のことも思いだしている。新三郎に通じているかどうかはわからないが、「わたくしども」というのは三人のことだ。
「うむ。……おい、あやめ、大丈夫か? また躰が悪くはないか?」
「大過ございませぬ。少し高ぶってしまいました。」
「そうであろうな。」
「……おやかたさま。おやかたさまとわたくしのご縁のお話を聞いてくださいますでしょうか。このままの恰好で、恐縮でございますが……」
新三郎は頷いた。あやめは囁くような低い声で、つづけた。
「おやかたさま。おやかたさまが出会いのときからわたくしにお目をかけてくださったと聞いて有り難く存じますが、おやかたさまとわたくしは、やはり、あの湯殿からはじまりました。」
「さようか。……さようよの。お前には、ほかにはあるまいな。」
新三郎は苦い思いをかみしめるように、目を閉じた。
(おれは、あわれな女を弄んだ。)
「わたくしは、弟君の十四郎さまとの初色(初恋)やぶれ、十四郎さまは北に去られましたけれど、まだその恋を大切に抱きしめておりました。……それを、おやかたさまは、……」
あやめは息を吸った。
「おやかたさまは、無理無体にわたくしを犯されました。まずお力で、弟君に捧げたはずの貞操を奪われ、あとはお薬とご巧言にかかって、手もなく弄ばれたとおぼえております。」
「あやめ、……詫びる。しかし、あのときは、あれしかなかったのじゃ。……だが、」新三郎は、頭を起こし、あやめの目を覗きこむようにした。「おれはむごかった。愚かでもあった。十四郎は死んだと思い込んでいた。……詫びたい。むごい真似をして、まことにすまなかった。」
あやめは新三郎の言葉の途中から、震えはじめていた。固く目をつぶる。
「……詫びてくださった。とうとう、詫びてくださった。ああ……でも、許せませぬ。あのとき、あのような目に遭わされたのは、お許しできるものではございませぬ。許したくても、とても……許したいのに、許せない……」
あやめの閉じた目から涙が噴き出した。
「あやめ……それがいいたかったのか。長い間、腹膨れる思いだったな。おれのほうがつい忘れようとしていた。……すまなかった。すまぬ、あやめ。許せとはいわぬが……」
新三郎はあやめの躰をそっと横にすると、ふと離れ、小さく低頭した。あやめは息を呑み、起き上がった。おやめくださいませ、という言葉も出ずに、ぶるぶると泣き顔を振った。新三郎は頭を下げたまま、なかなか動こうとしない。
「おやかたさま……!」
あやめは新三郎の肩に飛びつくようにして、お顔をあげてくださいませ、と頼んだ。抱きついた。新三郎がようやくその肩を抱く。
「おやかたさま……ああ、おやかたさま。」
「責めてよい。そうせよ。」
「さような真似はいたしませぬ。ああ……さにはございませぬ。ご縁のお話です。……そのあと、わたくしはここに召された。おやかたさまは、とてもやさしくはございませんでしたね。」
「ああ。それは、……」
「わかっております。申し訳ございませぬ。お聞きくださいませ。……わたくしは、ぶたれたり、辱められたり、どんなに泣き叫んでもあの湯殿へ連れていかれたり、あ、思い出した、お薬はつらかった。あれはほんとうにあちらこちら腫れて、顔が戻らないのではないかと、心配でなりませんでしたよ!」
あやめは涙を流しながら、なにか楽しい思い出話のように明るい声を出した。
「そればかりではないぞ、あやめ。……おれに殺されかけただろう。首を絞めたのと、お前が舌を噛むまでいじめて、追い込んでやったときのことだ。」
新三郎は沈鬱な表情で、しかし、いわなければならぬと思ってつけくわえる。
「皆の思うていたとおりだ。おれは狂った。おまえの心は、どうしてもおれのものにならぬとわかってしまって、狂っていた。その相手は死人だと思うと、なにやらお前が、……お前に腹が立って仕方がなかったのだ。それもまた、おれの考えが至らぬところだった。すまなかった。どう詫びても足りぬ。」
聞きながらあやめは、わかりようのないことでございましたよ、と目を閉じて首をゆるゆると振ったが、ことさらに暢気そうな声を出そうとした。
「それにしても、首。あれは、つろうございましたねえ。でも、首の件、おかげさまでお方さまのおやさしさに気づけました。あんなことがなければ、いまほどよくしていただけなかったやもしれません。舌は……あっ。」
あやめは硬直した。
(忘れていた……なんてことだ、与平! この男との幸せに、忘れはてていた!)
(やはり、わたくしは、冷酷!)
(無慈悲な人殺し!)
新三郎は気づいて、あやめの躰を抱きしめた。
「思い出すな、あやめ! あれはおれのやったことだ。おれが襲わせた。とどめを刺したのも、おれ。お前のやったのは、その身と誇りを守るためだけのこと。だから、思い出すな!」
(いいえ、ちがう、ちがう。あれはわたくしがやったこと……)
(与平のあんな仕業を仕組んだのはおやかたさまだが、殺すところまで行ったのはわたくしのせい。『図』などを守ろうとして、殺した。殺してしまった。)
「最後は、おれが、あいつを許せるわけがなかっただろう。お前が何もしなくても、おれがあとで殺してしまっておった。だから気にするな。」
「与平、すまぬ、すまぬ、忘れていたとは……っ?」
あやめの思いが声になってほとばしり出た。それを抑え込むように、新三郎があやめの耳にいいきかせる。
「忘れたわけではない。だが、忘れてやっていいのだ、あやめ。与平とやらも、ほんとうにお前に懸想しておったのなら、それを望むだろう。お前に死ぬまで震えて暮らしてほしくはないだろう。」
「……。」
「わしらの縁の話を続けぬか? まだ終わりではないだろう?」
「……。」
「ああ、あやめ、すまぬ。また、忘れろなどと命じたな、儂は。さようなことは、してはならぬ。お前も、できぬのに。」
「……。」
「うむ、なにやら与平が羨ましいぞ、おれは。お前の心に、残ってしまえたようだしな。」
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