えぞのあやめ

とりみ ししょう

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五の段 顔  短い秋(二)

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 新三郎にとっても、あやめだけが、やはり特別なのであった。堺の方としてながく馴染んだわりに子も産まず、いい加減に飽きてもいいはずの女は、あらためて新鮮な驚きと痺れるような自足を与えてくれる存在になっていた。
 
 このごろあやめの話を聴くのが増えた。官位の一件以来、生臭い政事の話を皆の前で喋らせる機会はほぼ絶えている。そのかわり、ときに奥にふらりと入って、北の方などとあやめが交わしている他愛もない笑い話に、ふと入ってみたりするようになっていた。女たちは驚くが、そのまま、といって少しだけ邪魔をする。堺や上方の話、遠い異国の噂を聴くのが、ひどく面白い。
 そんなときのあやめの目はきれいに光り、声も明るく澄んでいて、話の内容以上に惹きつけられた。
 むろん長居はせずさっさと表に戻るが、あらためて閨で二人きりのとき、いつぞやの昼の、といって話の続きを促してみたりもした。あやめは驚いたようだが、また面白く話し出す。つい聴き入ってしまうときもある。
 
 話をするばかりでは終わらぬ夜の方が、無論多い。ふと目があって、新三郎の手があやめの肌に伸びると、あやめの唇の動きがとまり、微笑みの形をつくる。新三郎は、それに己の唇を押し当てていくとき、
(おれは、この女のためであれば、命が惜しいとも思っていない。)
 そう気づかされる。それほど大切な女、ただ一人の女というものがこの自分にいる、

(まことに、この世に、そんなものが……)
 新三郎は遠い昔をつい思い出した。少年の頃ならいざ知らず、四十というこの齢になって、たかだかひとりの女にすべてを賭けられる気になっている。そんな自分が信じられない気がした。
(おれは、そんな男だったか?)
(武家として仕上がって以来、おれは、色恋沙汰などもう、なんのこともないと思っていたはずだ。)
(奥は……真汐は、違う。あれは、色恋とはもう関係のない、おれの妻だ。)
(だが、あやめは、あやめという女は、おれにとって……。)

 あやめが、苦し気だが、どこか甘い息をもらす。そこで新三郎は一瞬の放心から醒めた。ただ、躰の下にいる女を、もっと快くしてやりたいと思うばかりだ。
 ここまでにあやめに夢中になったのは、いつからであろうか、と自問するが、いまの新三郎には、大舘でその姿を見た最初からだとしか思えない。
 何度もむごい目に遭わせたことすら、新三郎のなかでは、ただひたすらにあやめへの想いから自分が狂ったのだとしか思えず、そして、その狂いも含めて、恋だったのだと思っている。
 どうしても心を傾けてくれない女への怒り、己を棄てて死んでしまった者への詮無い恋情を手放さない、哀れな頑固さへのもどかしい気持ち、肉体を奪ったのにますます遠ざかるような手の届かない存在への渇望、……そうした感情に囚われて、その女を傷つけてしまった。
 いまの新三郎は、そのときの己の途方もない愚かさに、打ちのめされる。官位のことで蹉跌があり、そしてあやめのあの震えに至る苦しみを知ったとき、ようやく完全に目が覚めたような気がする。

 もう一つある。これはあやめにもいっていない。
(十四郎が生きていると知ったとき、おれは安堵した。肩を押さえつけていたなにかが、すっと抜けた。)
(あやめは、あいつの女だった。いまでも、もし会ってしまえば、そうなるだろう。)
(あいつが生きのびているとあやめに伝えたとき、忘れろ、とはいった。だが、その時、そんなことはさせられないとすぐにわかった。)
それで仕方がないと、十四郎は、不思議に自然にそう思えていたのである。あやめを独占したいという思いは変わらずあるのに、それを上回る気持ちができていた。
(十四郎は殺さぬ、といったとたんに、あやめは、泣いて喜んだ。安堵しきっておった。その顔を見て、おれはまことにうれしかった。)
(おれは、前にかわらず、あやめに執着している。それなのに、もう、十四郎を想い続けているあやめをみても、あぶりたてられるような苦しみがない。)
(あやつが、まことに生きていたからだ。)
(おれは、十四郎を死に追いやらずに済んでいた。弟の過ちを、死で償わせはしていなかった。)
(そして、あやめの想いは死人への詮無いものではない。無駄でも、愚かでもないとわかった。)
(あやめが喜ぶなら、それでいい。それだけでいい。)

 また、あやめとの宵がきた。

 
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