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五の段 顔 短い秋(一)
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志摩守の大舘からの突然の失踪は、もちろん家中に恐慌をもたらした。
新三郎はいつになく目に見えて蒼ざめ、諍いがあったばかりの弟たちを詰問したが、互いに何も知らず、互いを疑うばかりである。不審をいいたてるうちに、配下の者たちのあいだであやうく、大舘の中で斬り合いが生じかける騒ぎとなる。
やがて急使が到着し、志摩守の箱館入りがあきらかになる。新三郎にあてた文面は穏やかなもので、大舘の隠居所は手狭になったので移った、とのみあった。
新三郎は、老人の気まぐれかと、安堵の一方で舌打ちする思いにならざるを得ない。
「箱館?」
当惑したのは、元の舘主であった河野家に代わり、箱館をあてがわれていた村上家を実家とする北の方であった。 家督を継いでいる弟たちから、そうした話は一切伝わってこなかった。
ところが村上家は、居候を追いだせぬ気の弱い大家のようになっているのではない。あきらかに志州さま取り巻きの一員として振る舞おうとしているようである。
(どうやら、分家の兵衛門の意図が働いているようだ。あのひとが、えらく力を持ったらしい。)
意外であった。育ちのよいお方さまには、銭の力というものがもうひとつ理解できない。村上兵衛門は、山丹交易の一端にとりつき、その分け前にあずかるようになっていた。徳兵衛がうまくそうしてやったのである。その金をうまく使えば、一族の中でのしていくことができたし、村上家の今後の行く道も、かれが決められるようになる。
志州さまの安否に問題がないことがわかり、一安心ができた家中だったが、やがて慌ただしいひとの移動とそれに伴う軋轢が松前に生じたのはいうまでもない。
家中の少なからぬ者が、箱館の「政庁」をめざしだしたのである。蠣崎家の兄弟たちが最もはっきりと割れた。
二重政府の状態が、驚くべき短い日数で蝦夷島の南部に出現した。
志摩守は、「知行地」の侍と主だった商人たちを召集するかたちで、一斉に帰還を促した。
蝦夷島の唯一の合法的な政府を任じる蝦夷代官所が、慌てふためいてこれを押しとどめる。これで、それぞれの知行地の混乱は高まった。すでに刃傷沙汰も起きている。
新三郎は父親の暴走としか思えぬ行動に愕然としているが、それ以上に安東家の反応が気になる。
安東家は運上金の上納に支障がないかどうかを気にしてきたが、いよいよ危機が迫っていると感じているようだ。
もしも志摩守支配が確立すれば、対等の立場にある安東家が蝦夷島から運上金のあがりをかすめ取る根拠は、自動的に消滅するであろう。
安東家が蝦夷代官に、志摩守の「箱館政庁」の打倒を密かに命じる事態が、近づいてきたのである。
(おれがやろうとしたことを、父上がやる。しかも、もっと乱暴に、性急に。)
(おれならば、運上金上納は、まずは続けてやるという素振りはみせた。そこから、期限や額の話あいだろう。やがて内府―秀吉の奥州仕置がくれば、事態はこちらに好転する。それで済ませるつもりだった。)
(いつ来るともしれぬ好機を耐えて、待ちに待つ。それこそは、父上の政からおれが教わったものだったはず。それなのに……。)
(らしからぬ。あの父上が、まるで秋田をないがしろにして、蝦夷島の支配者のようにふるまうとは。)
(おれのやったことを潰すつもりなのか。そんなことが本当にできると思っているのか? 箱舘てもちの兵で、秋田どころか、この蝦夷代官の兵にも対抗できるわけもないのに?)
秋田の安東愛季も、それがわかっているから、暗に強硬策を示唆してくる。
(おれに父を討て、というのか。いや、父であれ、討つことはやむをえない。だが、蠣崎の家が朝臣の位を得たことを、このおれが否定するのか?)
箱館と秋田の狭間で、松前はどうすればいいのか。新三郎は炙り建てられるような思いになる。
何が起こるかわからぬという前途の不分明へのおそれと、そうでなければにわかに増えた種種の雑事に抱く、これが本当に自分のすべきことかという疑いと気の重さ、そうしたものばかりであった。
あろうことか、この大変な時期に、下女のひとりにまで新たに手をつけてみたのも、迷いの果てだったのだろう。平静を保とうとするためにか、ふと生じた生理的欲求の赴くままに行動してしまった。
無口な台所女だったが、ふとしたことから目に留まり、手続きも何もなく、邸内で通りすがりのように交わってみた。煤を落とすと、意外にも目鼻立ちがひどくよい。それでいて、ごく温和な性格のためか、せずともよいとんでもない苦労の末にこの松前に流れ着いたようだ。ひどく憐みの心が起きた。それに、粗末な風体に隠されていたのびやかで柔らかい躰が気に入って、そばに近づけるようになっている。
それが「隙が生じている」ことなのだと、裏で女を操っているコハルなどは思っているのを、新三郎は勿論気づかない。
あやめも知らない。お手付きが増えたと口の軽い侍女に聞かされて、ひどく不愉快な思いになっただけである。
あやめ付きのその侍女於うらは、あとで仲間内でこっそりと笑った。
「あの堺さまが、みるみる不機嫌になられてのう。」
「面白いことだ。おやかたさまのお通いがあれほど繁くとも、まだ足らぬと申されるか。」
みなが爆笑すると、年若の侍女が、首をかしげた。
「堺さまは、おやかたさまに色々酷い目に遭わされておられたのではなかったのか? お嫌いじゃろう? おつとめが減れば、うれしかろうに?」
年増の侍女たちは、これを聞いて、一斉に笑った。
新三郎はいつになく目に見えて蒼ざめ、諍いがあったばかりの弟たちを詰問したが、互いに何も知らず、互いを疑うばかりである。不審をいいたてるうちに、配下の者たちのあいだであやうく、大舘の中で斬り合いが生じかける騒ぎとなる。
やがて急使が到着し、志摩守の箱館入りがあきらかになる。新三郎にあてた文面は穏やかなもので、大舘の隠居所は手狭になったので移った、とのみあった。
新三郎は、老人の気まぐれかと、安堵の一方で舌打ちする思いにならざるを得ない。
「箱館?」
当惑したのは、元の舘主であった河野家に代わり、箱館をあてがわれていた村上家を実家とする北の方であった。 家督を継いでいる弟たちから、そうした話は一切伝わってこなかった。
ところが村上家は、居候を追いだせぬ気の弱い大家のようになっているのではない。あきらかに志州さま取り巻きの一員として振る舞おうとしているようである。
(どうやら、分家の兵衛門の意図が働いているようだ。あのひとが、えらく力を持ったらしい。)
意外であった。育ちのよいお方さまには、銭の力というものがもうひとつ理解できない。村上兵衛門は、山丹交易の一端にとりつき、その分け前にあずかるようになっていた。徳兵衛がうまくそうしてやったのである。その金をうまく使えば、一族の中でのしていくことができたし、村上家の今後の行く道も、かれが決められるようになる。
志州さまの安否に問題がないことがわかり、一安心ができた家中だったが、やがて慌ただしいひとの移動とそれに伴う軋轢が松前に生じたのはいうまでもない。
家中の少なからぬ者が、箱館の「政庁」をめざしだしたのである。蠣崎家の兄弟たちが最もはっきりと割れた。
二重政府の状態が、驚くべき短い日数で蝦夷島の南部に出現した。
志摩守は、「知行地」の侍と主だった商人たちを召集するかたちで、一斉に帰還を促した。
蝦夷島の唯一の合法的な政府を任じる蝦夷代官所が、慌てふためいてこれを押しとどめる。これで、それぞれの知行地の混乱は高まった。すでに刃傷沙汰も起きている。
新三郎は父親の暴走としか思えぬ行動に愕然としているが、それ以上に安東家の反応が気になる。
安東家は運上金の上納に支障がないかどうかを気にしてきたが、いよいよ危機が迫っていると感じているようだ。
もしも志摩守支配が確立すれば、対等の立場にある安東家が蝦夷島から運上金のあがりをかすめ取る根拠は、自動的に消滅するであろう。
安東家が蝦夷代官に、志摩守の「箱館政庁」の打倒を密かに命じる事態が、近づいてきたのである。
(おれがやろうとしたことを、父上がやる。しかも、もっと乱暴に、性急に。)
(おれならば、運上金上納は、まずは続けてやるという素振りはみせた。そこから、期限や額の話あいだろう。やがて内府―秀吉の奥州仕置がくれば、事態はこちらに好転する。それで済ませるつもりだった。)
(いつ来るともしれぬ好機を耐えて、待ちに待つ。それこそは、父上の政からおれが教わったものだったはず。それなのに……。)
(らしからぬ。あの父上が、まるで秋田をないがしろにして、蝦夷島の支配者のようにふるまうとは。)
(おれのやったことを潰すつもりなのか。そんなことが本当にできると思っているのか? 箱舘てもちの兵で、秋田どころか、この蝦夷代官の兵にも対抗できるわけもないのに?)
秋田の安東愛季も、それがわかっているから、暗に強硬策を示唆してくる。
(おれに父を討て、というのか。いや、父であれ、討つことはやむをえない。だが、蠣崎の家が朝臣の位を得たことを、このおれが否定するのか?)
箱館と秋田の狭間で、松前はどうすればいいのか。新三郎は炙り建てられるような思いになる。
何が起こるかわからぬという前途の不分明へのおそれと、そうでなければにわかに増えた種種の雑事に抱く、これが本当に自分のすべきことかという疑いと気の重さ、そうしたものばかりであった。
あろうことか、この大変な時期に、下女のひとりにまで新たに手をつけてみたのも、迷いの果てだったのだろう。平静を保とうとするためにか、ふと生じた生理的欲求の赴くままに行動してしまった。
無口な台所女だったが、ふとしたことから目に留まり、手続きも何もなく、邸内で通りすがりのように交わってみた。煤を落とすと、意外にも目鼻立ちがひどくよい。それでいて、ごく温和な性格のためか、せずともよいとんでもない苦労の末にこの松前に流れ着いたようだ。ひどく憐みの心が起きた。それに、粗末な風体に隠されていたのびやかで柔らかい躰が気に入って、そばに近づけるようになっている。
それが「隙が生じている」ことなのだと、裏で女を操っているコハルなどは思っているのを、新三郎は勿論気づかない。
あやめも知らない。お手付きが増えたと口の軽い侍女に聞かされて、ひどく不愉快な思いになっただけである。
あやめ付きのその侍女於うらは、あとで仲間内でこっそりと笑った。
「あの堺さまが、みるみる不機嫌になられてのう。」
「面白いことだ。おやかたさまのお通いがあれほど繁くとも、まだ足らぬと申されるか。」
みなが爆笑すると、年若の侍女が、首をかしげた。
「堺さまは、おやかたさまに色々酷い目に遭わされておられたのではなかったのか? お嫌いじゃろう? おつとめが減れば、うれしかろうに?」
年増の侍女たちは、これを聞いて、一斉に笑った。
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