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五の段 顔 老人(一)
しおりを挟む蠣崎志摩守季広の夜は早い。齢のせいばかりではなく、長年の習慣による。若いものたちのように、油を費やして灯火を長くともしておくことがない。無駄な夜更かしをしない。
今日はしかし、寝つきがよくない。昼間に、つまらぬ諍いが息子たちの間であった。おとこ兄弟のそうした衝突には自分自身もそうしてきたから慣れていたが、やはり自分の叙任以来、新三郎と上のほうの息子たちとの仲の悪さが、座視できない。
さして広くもない大舘のなかで、蝦夷代官のもとからの仕事場とこの隠居所の「政庁」が共存しているから、互いに無視し合おうとしても、できるものではない。
また、「志州さま」が何をいい出すかに、おやかたの新三郎本人以上に、本来の蝦夷代官の取り巻きだった者たちが神経を尖らせているのがわかった。
(あれは、正広たちが悪い。むしろ、おやかたがよく耐えた。)
供を連れて隠居所に父・志摩守を訪ねてきた新三郎に対して、侍っていた五男以下の弟たちが、まるで斬りこみに来られたかのように血相を変えたのである。
その態度に新三郎は憤激したが、父の面前では弟たちを言葉少なく叱るだけで済ませた。
それに、さらに定広たちがからんだ形となってしまい、一時は騒然とした。
新三郎は、父に京から届いたという茶の粉を届けにきただけだったのである。父は笑って受け取って息子の厚意に礼をいい、その場はなんとかとりなされた。
だが、新三郎が立ち去った後、定広たちが口々に用心を説き、そんなものを絶対に口にしてはならないといいたてたのには、閉口した。
(毒を疑ったなどというのが、お屋形の耳に入らないとでも思っているのか。)
(新三郎がいま、儂に毒を盛って得をすることが何かあるか、あの者たちは考えもできぬのか。)
(おそらく、あの茶の粉は、納屋の御寮人が持ってきてくれたものだろう。それを捨てるの捨てないのという話を大声でしおって。かならず新三郎は気を悪くするではないか。)
(儂らにとっても、新三郎を怒らせることになんの得があるか?)
すでに蝦夷代官家ではない「自分たち」という感覚を持ち始めている老人は、うつらうつらしはじめた。
寝所にひとり寝である。女を入れなくなって、随分たつ。最後に夜伽に入ったのが十四郎の母親ではないが、ややそれに近いのではないか。
(新三郎は、納屋の御寮人をいたぶるのをやめたらしいな。あの女も気の毒だったが、ようやく、おさまるべくしておさまりおったか。)
(十四郎は、生きておったのか。約束通りでも、まだ五年はたたぬか。帰れぬ。そもそも松前には二度と帰れぬ。)
(呼び戻してやってもよいが、新三郎が許すまい。)
(やはり、新三郎は惜しい。あの器量は惜しい。)
(十四郎のなにものかを見ぬけるのも、家中で新三郎くらいであった。十四郎にとっては、それがかえって不運であったな。)
(新三郎はああみえて、納屋の御寮人のことを、ひどく好きなのだ。十四郎を許せぬのは、それもあろうよ。)
(あの女は、十四郎が生きていることを知ったであろうが……)
老人は枕元で囁くように呼びかけている女の声にようやく気づいた。その声があるから、あやめのことを夢うつつに考えていたのだ。
「志州さま、失礼いたしまする。」
あやめは商人の袴姿でも、いつもの堺の方のおよそ気の入らぬ衣装でもない。かなり流行おくれの打掛をわざわざ選んでいた。
(この格好で、亡霊に無理矢理にも降りてきて貰うしかない。)
震えを抑えねばならなかった。月明かりのほかはなく、表情こそ読めぬだろうが、怯えは躰の線でわかるものだ、とコハルはいっていた。
「おう、やはり、納屋の御寮人ではないか。いや、奥では堺の方か。このような夜に、年寄りの寝所に何の急用じゃ?」
起き直って、枕元に控える女の影に身体を傾ける。
「急なお願いとお察しくださり、まことに恐縮に存じます。今すぐに、お発ち下さいますよう、お願いに参りました。」
「発て、と? なぜ? どこへ?」
「ごもっともに存じますが、ご説明の暇すらございませぬ。」
「それでは動けぬよ、御寮人。」
季広老人は、人の好い笑いを浮かべたようである。いつもの声でわかる。
(この、アイノからも「よきひと」と呼ばれている方が……?)
あやめはあらためて肌に粟するものを感じたが、いまはそれではないと思い直し、
「お耳を頂戴します。……お命にかかわります。まずは、納屋をお信じくださいませぬでしょうか。お頼み申します。」
老人が瞬時に決断し、立ちあがったのは見事で、さすがだと思った。いろいろな要素をすべて計算し、ここはあやめの言に従う以外にはないのだと気づいたのであろう。
命が狙われている、というのも、いくら相手が新三郎とはいえ、まったくありえないことではない。それ以前に、ここにこうして納屋の御寮人がいるのは、決して堺の方の部屋から忍び込んできただけではないのだろう。殿居の者すら相手にならないよう、今井家がこの大舘の内部に脱出路を確保しているのは、明らかであった。抵抗しても無駄である、というのもわかる。
半刻もたたぬうちに、老人の躰は、松前湊につながれた、納屋今井の大船のなかにあった。店には寄らず、直接、船に乗せてしまう。夜明けとともに出帆するつもりなのだ。
「夜に茶はよくないからな、助かった。馳走になったわ……さて、どこへ?」
供された白湯をうまそうに飲むと、尋ねた。あやめも船室にいる。
(さあ、ここからだ……)
あやめは緊張している。コハルが船上で海風に吹かれているから、身の危険はないはずだが、おそろしいのだ。
あやめは祈るような気持ちで、蝋燭の灯を吹き消した。月光を受けた水の照り返しが漏れ差しこんでくる以外は、闇となった。
「これは、どういうことか?」
「……父上。」
(いかぬ。とてもあの者の声ではない。)
「父上、おひさしうございます。」
「御寮人。なんの俄かな、これは? たしかにおぬしは、我が息子新三郎によく仕え、十四郎も大変世話になった。だが、上方の風は知らぬが、おぬしに父と呼ばれることはあるまい。」
「お気づきになりませぬか。……あやめにござります。」
「なんの俄か、と聞いた。……ああ、あやめ。あのあやめか。納屋の御寮人が我が家の恥を聞き知っておったとは、赤面するしかない。だが、なんのおつもりじゃな?」
「畏れ入りまする。ご無礼をいたしました。」
あやめは闇の中で低頭した。
「亡きあやめさま、……南条のお方さまが直接にお語りなさるのを待っておりましたが、かなわぬようでございます。」
「わけがわからぬの。御寮人から、これほどわけのわからぬ話を聞こうとは。」
「手前には、お方さまの迷われている魂が、憑りついておりました。」
老人はさすがにたじろぐ。
「迷うておるはずはない、あれは長泉寺に懇ろに葬ってやった。」
「左様にうかがっております。ただ、無念は残られましょう。手前にも、それはお伝えでした。」
「なんの無念かっ? ……いや、そもそも馬鹿げておるぞ、御寮人。哀れな。そなたにお気の迷いがあるのだ。やはり、新三郎を、いや、蠣崎家をお恨みなのであろう。無理もない。無理もないが、……聡明な御寮人の口から、憑りついたの、魂だのとの言葉が軽々に出ようとはな。」
「濡れ衣を着せられたままでは、お恨みも残りましょう。」
「あやめのことか?」
「はい。ごきょうだい毒殺の汚名をひとり着せられたままでは、たとえ志州さまが丁寧にお祀りなさろうと、長泉寺の川に鮭が上りますまい。永禄五年以来、いまだに、と聞き及んでおります。」
「汚名だと。鮭が川を上らなくなった祟りが、無き名(冤罪)の証しというか。」
「左様は申しませぬ。無き名ともいいにくい。お方さまが、なにもご存じなかったわけでもありますまい。真の下手人をお庇いになられたのでございますから。」
「まことの下手人とは、たれか。わが嫡男と次男に鴆毒を盛った者が、あやめ―娘と、近習の丸山以外におったというのか。南条越中(広継)か? 南条越中はたしかに無き名らしかったのだ。気の毒だが、あやめの亭主じゃ。連座はやむを得なかった。」
南条越中広継こそは蠣崎家長女あやめの夫であり、妻の策謀には全く関与せず、無実を訴えながらも切腹となった。
「おそれながら、志州さまが秘かにご命じになられたかと。」
老人の顔色は変わらないが、まだ残っていたひと良さげな様子が消えた。
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