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五の段 顔 おやかたさま(一)
しおりを挟む夏の戻りの船は、例年よりも早く出した。これで松前納屋の倉はいったん、空に近くなる。春に上方から下ってきた品は、手早く、箱館やエサシに作った倉に移してしまったのである。
(準備が一つ、すすんだ。)
湊で船を見送りながら、あやめは去っていく人たちのことを思い出している。
ミツは、上方に帰るという。店をやめて実家に戻ったという、かつての丁稚頭が待っているのだろうか。それは聞かないことにした。
「徳兵衛さんによろしうお伝えください。」
そういったときの表情に、それ以上をあやめにも訊かれたくないという気配があった。
(トクはあの子よりも随分小さかったように思ったが、……むずかしいものだな。)
(トクは、あの子の気持ちなど、何も気づかなかったのだろうな。)
そのミツにあやめがこっそり頼んだのは、与平の骨の一部を持って帰ることだった。
(あいつは、この蝦夷島では眠りたくないだろう。)
「なにもいえぬが、この金で、このお骨を堺に葬ってやってくれぬか。」
ミツもなにも訊かず、ごく小さな包みを受けとって、頷いてくれた。
(与平さん。もし万が一、お前がまだわたくしと一緒にいたいというのなら、また夢枕にでも立ってくれ。)
(気が向けば、化けて出るがよい。こんなわたくしでよければ、今度こそ抱かれてやるよ。穢れなんぞ、気にしてくれんでよい。)
(わたくしは、もう躰中、血にまみれておるも同然よ。)
松前湊には、今井の船がもう一艘浮かんでいる。堺の本店から借りた形になっているが、あやめの船として使えるだろう。使うつもりでいる。
夏の戻り船を出すまで、あやめは「志州さま」をむしろ避けるようにしていた。志摩守季広は、そう呼ばれるようになっている。任官の祝宴が張られた時も、あやめは堺の方として文字通り末席に連なっただけで、通り一遍のお祝い以外には言葉を交わしたりしていない。もちろん、にわかに「政庁」じみた隠居所や茶室にも、顔を出したりしなかった。茶の席も絶やした。
もちろん、新三郎に疑念を持たせたくないからであったが、いろいろ気づくうちに、季広老人の昔話を以前のように楽しく聴くのも難しくなってきたこともある。
「図」は動き出しており、あやめはそれに必要な上書きを施していったが、そうしながら、ようやくわかったことがある。気づいていたのに、自分でその考えを無意識の底に沈めていたのかもしれない。それが、急に浮き上がって姿をあらわにした。
そこで、季広老人に会うのが、にわかに恐ろしくなった。
だが、いよいよ明日明後日にも、志州さまこと季広老人に会わねばならないだろう。そのときこそ、
(あの怨霊に出てきてもらいたいものだ。)
あの夜以来、亡霊に憑りつかれることもなく、そして、新三郎のいったとおり―ということには本当はならないのだろうが―あの震えも起きなくなっていた。あやめは新三郎にたやすく抱かれている。
(あの震えと、亡霊とは関係がないのだ。)
(新三郎相手に、あの震えにはもう出てきてもらいたくない。)
性交を拒絶する激しい震えの理由として、あやめの理屈がたたないからである。
(あの瘧のような震えは、この心を捧げた十四郎さま相手にしか出ないはずなのだが、どうしたことなのか……)
それはともかく、
(亡霊には、……)しばらく前に、その出現を湯殿で願った時とは違う意味で、待望する気持ちがある。
(あの亡霊の口から、確証を得られるものなら、得たい。)
あやめはあの怨霊は自分の気の迷いが出ているだけだとなかば疑い、なかばはたしかに亡霊の実在もあるのかと思っている。
(死んだ者なら、嘘はいわないだろう。)
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