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五の段 顔 除霊(三)
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「あやめ……もう大過ないか?」
あやめは茫然としているが、小さく頷いた。ひゅう、と咽喉が鳴る。
「……申し訳ございませぬ。」
「礼をいうてもらいたいぞ。」
新三郎は安堵して、微笑する。
「安心せよ。お前に憑いていた怨霊は、儂が払うてやった。」
「あ、……」
あやめは虚を突かれたような表情になる。
「あのような震えも、祟りであったろうが、もう起こらぬ。」
「それは、」違うのです、といいかけたが、あやめは口ごもって目を伏せる。
「お前は……」新三郎は問いかけたがやめ、少し考えると、「あれが喋ったことは、聴こえたか?」
「遠くで、おやかたさまがたれか、何者かと何かをお話になられるのが聴こえました。わたくしが喋っているようでもございましたが、だとしても、なにをしゃべったのか、おぼえておりませぬ。」
知らぬ誰か、ということ以外は、ほんとうのことであった。
(そうであろうな。)
「あのように死ぬほどの震えがとまらず、とても、……できなくなったことが、以前にもあったのだな。」
「はい。」
あやめは、嘘をつく気にならない。素直にうなずいた。
十四郎と、いつのことだ、と訊こうとして、新三郎は思いとどまった。
(もはや詮無い。どうせ、十四郎に捨てられたときのことであろう。あやつが蝦夷地に行ってしまう前の、いつかだ。)
(あやめ、不憫だった。十四郎ならば、想い女のためにすべてを振り捨てて逃げよるかとも思ったのに、簡単に女のほうを捨てていきよったものだな。)
「もう心配はいらぬ。あのようなことになることはないぞ。」
新三郎は、また漲るものを感じ、そのままあやめの中に入っていこうかと考えたが、肌の温かみを増したものの、心身の疲労がただごとではなさげな女の様子に、あきらめた。
「おれは、あいつとはちがう。」お前を無造作に捨てたりはしない。
「えっ?」
地の言葉がききとれず、あやめは新三郎の顔を仰いで、聞き返した。
「あやめ、寝よう。」
新三郎は答えない。あやめの躰を拭いてやろうとする。あやめは驚き慌てて、断ったが、かまわず肩や背中の汗を拭ってやった。躰の前に手を延ばしかけると、
「そこは、そこだけは結構でございます。」
あやめが恥じらって必死の形相で止めるので、それはそうだろうと布を離した。あやめは急いで、布と懐紙を使う。
着衣を戻させると、あやめは深々と低頭したが、その躰を手で招くと、胸に抱き寄せてともに臥した。女は前よりもまた痩せて、小さく感じられる。
「えっ、武家の習いでは……?」
まずは起きて見張り、眠る主人を守るのではなかったか。ことをおえた最初から一緒に臥してねむるなど、この前にもそうはなってしまったが、本来はありえぬ。
「元気がないくせに、いうことはいう。」
新三郎は笑った。
「そなたを武家の女に仕込むのは、じっくりとしてやるわ。」
「はい。」
「実は、それもだんだん気が進まなくなってきた。あやめはあやめが一番よい。これ以上、武家女になられてもつまらぬ。」
「……なにを、仰せでございますやら。」
「起きさせておくのが、まずつまらぬ。そなたの寝顔はよい。また。みたいのでな。」
「……」
「あやめ。もう安心して眠れ。憑き物は落ちた。あのようにつらい震えは二度と起きぬ。」
あやめの目から涙が溢れた。
「あやめ、なにを泣く。怖がらずともよい、といったぞ。……そうか、思い出して、悲しいのか?」
(また十四郎のことを思い出してしまったのだな?)
「いいえ。これは、嬉し泣きにございます。おやかたさまには、あやめなどをこれほどに大切に思って下さり、ありがたくて、申し訳なくて、涙がとまりませぬ。」
嘘ではないが、本当でもなかった。嬉し泣きかどうか、涙の理由は自分でもわからない。
(ああ、この男は何もわかっていない。何もわからないでいる!)
口惜しさに似た思いだけが、形になって突きあがり、それ以外は混乱するばかりであった。
「そうか。眠れ、あやめ。」
新三郎は、あやめの頬に流れる涙を吸った。
「もう、泣かなくてよい。」
あやめは悲し気に呻くと、かえって涙をまたあふれさせた。
あやめは茫然としているが、小さく頷いた。ひゅう、と咽喉が鳴る。
「……申し訳ございませぬ。」
「礼をいうてもらいたいぞ。」
新三郎は安堵して、微笑する。
「安心せよ。お前に憑いていた怨霊は、儂が払うてやった。」
「あ、……」
あやめは虚を突かれたような表情になる。
「あのような震えも、祟りであったろうが、もう起こらぬ。」
「それは、」違うのです、といいかけたが、あやめは口ごもって目を伏せる。
「お前は……」新三郎は問いかけたがやめ、少し考えると、「あれが喋ったことは、聴こえたか?」
「遠くで、おやかたさまがたれか、何者かと何かをお話になられるのが聴こえました。わたくしが喋っているようでもございましたが、だとしても、なにをしゃべったのか、おぼえておりませぬ。」
知らぬ誰か、ということ以外は、ほんとうのことであった。
(そうであろうな。)
「あのように死ぬほどの震えがとまらず、とても、……できなくなったことが、以前にもあったのだな。」
「はい。」
あやめは、嘘をつく気にならない。素直にうなずいた。
十四郎と、いつのことだ、と訊こうとして、新三郎は思いとどまった。
(もはや詮無い。どうせ、十四郎に捨てられたときのことであろう。あやつが蝦夷地に行ってしまう前の、いつかだ。)
(あやめ、不憫だった。十四郎ならば、想い女のためにすべてを振り捨てて逃げよるかとも思ったのに、簡単に女のほうを捨てていきよったものだな。)
「もう心配はいらぬ。あのようなことになることはないぞ。」
新三郎は、また漲るものを感じ、そのままあやめの中に入っていこうかと考えたが、肌の温かみを増したものの、心身の疲労がただごとではなさげな女の様子に、あきらめた。
「おれは、あいつとはちがう。」お前を無造作に捨てたりはしない。
「えっ?」
地の言葉がききとれず、あやめは新三郎の顔を仰いで、聞き返した。
「あやめ、寝よう。」
新三郎は答えない。あやめの躰を拭いてやろうとする。あやめは驚き慌てて、断ったが、かまわず肩や背中の汗を拭ってやった。躰の前に手を延ばしかけると、
「そこは、そこだけは結構でございます。」
あやめが恥じらって必死の形相で止めるので、それはそうだろうと布を離した。あやめは急いで、布と懐紙を使う。
着衣を戻させると、あやめは深々と低頭したが、その躰を手で招くと、胸に抱き寄せてともに臥した。女は前よりもまた痩せて、小さく感じられる。
「えっ、武家の習いでは……?」
まずは起きて見張り、眠る主人を守るのではなかったか。ことをおえた最初から一緒に臥してねむるなど、この前にもそうはなってしまったが、本来はありえぬ。
「元気がないくせに、いうことはいう。」
新三郎は笑った。
「そなたを武家の女に仕込むのは、じっくりとしてやるわ。」
「はい。」
「実は、それもだんだん気が進まなくなってきた。あやめはあやめが一番よい。これ以上、武家女になられてもつまらぬ。」
「……なにを、仰せでございますやら。」
「起きさせておくのが、まずつまらぬ。そなたの寝顔はよい。また。みたいのでな。」
「……」
「あやめ。もう安心して眠れ。憑き物は落ちた。あのようにつらい震えは二度と起きぬ。」
あやめの目から涙が溢れた。
「あやめ、なにを泣く。怖がらずともよい、といったぞ。……そうか、思い出して、悲しいのか?」
(また十四郎のことを思い出してしまったのだな?)
「いいえ。これは、嬉し泣きにございます。おやかたさまには、あやめなどをこれほどに大切に思って下さり、ありがたくて、申し訳なくて、涙がとまりませぬ。」
嘘ではないが、本当でもなかった。嬉し泣きかどうか、涙の理由は自分でもわからない。
(ああ、この男は何もわかっていない。何もわからないでいる!)
口惜しさに似た思いだけが、形になって突きあがり、それ以外は混乱するばかりであった。
「そうか。眠れ、あやめ。」
新三郎は、あやめの頬に流れる涙を吸った。
「もう、泣かなくてよい。」
あやめは悲し気に呻くと、かえって涙をまたあふれさせた。
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