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五の段 顔 啼泣(一)
しおりを挟む「あやめっ。これはいかなることじゃっ?」
新三郎は「堺の方」の居室に足音高く踏み入ったが、そこにあやめだけではなく、北の方も控えていたのをみて、やや驚いたようであった。
「奥が、なぜここにいる。政事の話じゃ。出よ。」
「おや、それならばご書院に、『納屋の御寮人』をお召しなさいませ。ここは奥向きにございますれば。」
相手が「堺の方」であれば、まずは自分の家来であり、親方様がそれと話をしに奥にいるのであれば、自分が同席するのは当然だというのであろう。
「急ぐのだ。」
新三郎は困った顔になったが、おぬしも聞いておけ、とそこに座り込んだ。
「あやめ……いや、堺か。このたび、叙官のことが成った。勿体なくも、ご勅使より、正式に綸旨を賜る。」
「まことにおめでとうございまする。」
女ふたりがあらためて低頭した。
「めでたい、めでたいか。たしかにそのようでもある。だが、堺は知っておろう。奥、おぬしも聞いたか。」
「さあ……」
北の方は首をかしげてみせたが、あやめは無言で平伏したままである。
「堺。一体どうした仕儀の誤りか?」
「……」
「志摩守任官となったのは、蠣崎彦九郎季広だという。儂、蠣崎若州にではない。前若狭守、つまりご隠居、父上ではないか。子に家督を譲った隠居に官位のご沙汰があったのか? どういうことだ?」
あやめは無言で平伏したままで、やや荒い呼吸とともに肩が小さく上下している。
「まことに、申し訳もござりませぬ。」
伏せた頭の下から、かすれた小さな声が漏れた。
「どういうことか、知らぬのか。まさか、菊亭某殿への心づけが足りぬが故の、この仕打ちか?」
「お伽衆某に……」
「宗久殿がなにを?」
「火急に尋ねまする。」
「それだけか。……無論、そうせよ。」
あやめは肩を震わせながら、さらに深く平伏する。そのまま沈黙した。
「あやめ、黙っていては……」
「おやかたさま、よろしいではございませぬか。」お方さまが声をかけた。「なにも怒られることではございますまい。」
「怒ってはおらぬ。」
「ご官位をめでたくも賜ったのは、お父上様でございましょう。つまり、ご家督をおつぎになられたおやかたさまが、ご官位もいずれお譲りを受けるのではございませぬか。なにも怒られ……急いでお尋ねになられるほどのこともござりますまい。」
「そう簡単にいけばよいのだが、さもいくまい。」
「左様でございますかの?」
どうなのか、と新三郎はあやめに尋ねたげに目をやったが、平伏をつづける背中が、さらに大きく震えだしているだけだ。その様子を見ていると、内心に失望と落胆が広がっていき、急いでそれを打ち払った。
(泣くな、あやめ。泣いてくれても困るのだ。)
「とく、調べよ。」
そう言い捨てて、部屋を出た。背中に、漏れ始めたあやめの歔欷の声を聞く。
(また、泣きよる。泣かないでくれ。)
「堺。……あやめ。そう泣かずともよいのではないか。」
あやめはお方さまの言葉に答えられず、顔を伏せて、泣き続ける。
「そちがまた、ぶたれてはならぬと思い、ここに来ていたが、なにもなくてよかったではないか。」
「お心配りを下さり、申し訳ござりませぬ。」
かろうじて涙まじりの声を出す。
「おやかたさまは、まことにお慌てにならずともいいのではないか。違うのか。」
あやめは黙って声を忍ぶように泣き続けている。
「何か間違いがあったにせよ、そもそもご主上や天下様のお決めになることであろう。そちの科ではない。それはおやかたさまもお分かりの御様子じゃ。安堵せよ。」
「……」
あやめは顔をあげられないでいる。
(ひどい目にあうのが怖くて泣く女ごでもあるまい。悔しいのだろう。思わぬ行き違いが、口惜しくてならぬのだろう。)
(おやかたさまのご落胆をもたしかに思い、それを嘆いておる。自分を責めておる。)
(あのご様子では、あの方の打擲も、まあ、あらぬか。)
またあやめのすすり泣く声を背にして、部屋を出ていくことになる。
あやめはそれにも気づかず、顔を伏せて涙を流し続けた。
(おや、わたくしはなぜ泣いている?)
(泣き真似などせずともよいのに。)
(あやつの青くなった顔を眺めてやれたものを、惜しいこと。泣いてしまった。)
(誓いがあったではないか。わたくしは、あの方の前でのみ泣くのだと。それを……)
(そう、これは、嬉し泣きだ。『図』の首尾は上々。)
(……だから、涙の止め方がわからぬ。)
(嬉し涙よ。)
何ものかに弁解するように、あたまのなかで繰り返している。
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