えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
上 下
128 / 210

五の段  顔  病臥(四)

しおりを挟む
 あやめが床をはらったのはそれから数日もたってからだった。
 
 まだ、店に帰りたい気分が起きない。夕餉を運んで貰い、下女にも給仕させず、ひとりで柔らかい粥など食べている。
「御寮人さま。」
 呼びかけられて、はっとした。夕闇の中に、誰の人影もない。
「おぬしの声には聞きおぼえがある。」
「堺の方」としての最初の屈辱の夜に、囁いてきた声だ。今井の、コハルの手の者だと気づき、あやめは抑えた声を出す。無表情な顔つきに、緊張の線が一本通った。
「何事か。」
「そのお声、そのお顔でございますよ。よろしうござる。それが、納屋の御寮人さまじゃ。」
 余計なことをぬかす、とあやめは少し腹を立てた。図星を突かれた気分だからだ。自分は、たしかに病の床だからと言って、呆けていた。
「はやく用件を申せ。」
「ご無礼申し上げました。……今のが、あたしからの御用にございました。」
「なんじゃと。」
「おかしら……コハルがやや気を揉んでおりましたので、わが頭目になり代わりまして、御寮人さまのご様子をお尋ね申し上げました。心配にはおよばぬと申しておきます。」
「当たり前のことじゃ。ただの風邪……いや、そうそう半月やそこら風邪で寝込んだくらいで、惚けたりはせぬわ。」
「二度とお店にお帰りにならないのではないかと。」
「なにを申すか。」
「……お帰りになりたくないのでございませぬか?」
「ありえぬ。無礼であろう。ここにいれば、わたくしは蝦夷代官風情の妾よ。世の評判もすこぶる悪い淫蕩強欲の悪女、堺の方でいたい筈があるか。」
(風情、ね……。)
 闇に潜んだ女は、齢の近い主人がむきになって怒るのを、複雑な気持ちで受け止めている。
「世の評判など気にされる御寮人さまではございますまいが?」
「おぬし、重ね重ね、なにを……。」あやめは、皮肉の色の混じった女の声に絶句するほどの腹立ちを覚えたが、まあこのような連中は、と思い直した。そうした者にしか絶対に聞こえないであろう小さな声で呟いた。
「そうよ。悪謀をしきりにめぐらし、蝦夷島はじまって以来の大謀叛人として悪名を残すつもりでおるのだからな。」
 どうじゃ、といわんばかりのあやめの顔つきをみて、女は内心で深く溜息をついた。最初にこの部屋にあやめが召された日以来の、心からのいたわしさをおぼえている。
(納屋にお戻りになれば、その悪謀を進めねばならない。それがお厭なのさ。)
(ここにいれば、堺の方として、ひたすらにおやかたさまに愛され(可愛がられ)ていればよい。お方さまになつき、津軽の方さまのお喋りにつきあってやればよい。武蔵丸さまの子守りにいそしんでおればよい。それがわかっているから、帰りたくなくなってしまったのじゃ。)
(ままならぬ。哀れな、御寮人さま……。)

 女は気づいている。この豪商の娘は、母親に死に別れて以来、堺の家のなかでも孤独だったのだ。そこにはなかった自分の居場所を求めて、蝦夷島まで流れ着いた。店を構えはしたが、主人になどなってしまえば、また一人だ。男にめぐりあいはしたが、裏切られ、不幸になった。
 それが、仇の家で、こんなところで、とうとう自分の居場所を見つけてしまったのではないか。赤の他人どもが、家族に思えてきたのではないか。
(しかし、……)

「コハルの思い違い、正しておきまする。御寮人さまはご本復も近く、お元気と。」
「左様せよ。コハルに、明日、……いや二日もすれば戻ると伝えよ。」
 それが三日か四日になるだろうというのを、あやめではなく、女のほうが知っている。

 すっかり癒えたと知った宵、新三郎がやってきた。
 夕陽の暗い橙色が薄れていく頃、灯をともしたところに、大きな影がゆっくりと入ってくる。
 それを部屋に迎えたとき、あやめは、自分の胸が高鳴るのを感じ、これはどういうことだと訝しい。
 この夜の新三郎は、しかし、無理強いはしない。無言で、目で問うた。
「はい、……お陰様にて、もう平気にございまする。よろしうございまする。」
 あやめが答えて低頭すると、肩を柔らかく抱いてきた。
 あやめは息を呑む。抱きしめられたので、おずおずと抱き返した。怯えているのは、相手に対してではない。自分の心持に対してだ。
(どうしたことじゃ。わたくしは、この胸に抱かれたがっている!)

 そのことの途中、新三郎はあやめの躰を労わりながら、全身を撫でさすり、口づけた。あやめは泣かんばかりになって、それに応えた。思わず、頭にのぼせてやまない快感を口にし、それを聞いた新三郎は奮い立つ。
 ともに極まろうとする刹那、
「おやかたさま……!」
 と自然に口をついた。震えながら、躰の内部に熱い衝撃を受けとめた。
 やがて、男の温かい手と、快く低い声が降ってきて、自分を呼び戻される。やすらかに、満ち足りた気分だけに包まれた。この温かさが、貴重なものに思えて仕方がなかった。壊れて欲しくない、とはっきり思った。
(それなのに……!)

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

白雉の微睡

葛西秋
歴史・時代
中大兄皇子と中臣鎌足による古代律令制度への政治改革、大化の改新。乙巳の変前夜から近江大津宮遷都までを辿る古代飛鳥の物語。 ――馬が足りない。兵が足りない。なにもかも、戦のためのものが全て足りない。 飛鳥の宮廷で中臣鎌子が受け取った葛城王の木簡にはただそれだけが書かれていた。唐と新羅の連合軍によって滅亡が目前に迫る百済。その百済からの援軍要請を満たすための数千騎が揃わない。百済が完全に滅亡すれば唐は一気に倭国に攻めてくるだろう。だがその唐の軍勢を迎え撃つだけの戦力を倭国は未だ備えていなかった。古代に起きた国家存亡の危機がどのように回避されたのか、中大兄皇子と中臣鎌足の視点から描く古代飛鳥の歴史物語。 主要な登場人物: 葛城王(かつらぎおう)……中大兄皇子。のちの天智天皇、中臣鎌子(なかとみ かまこ)……中臣鎌足。藤原氏の始祖。王族の祭祀を司る中臣連を出自とする

夢のまた夢~豊臣秀吉回顧録~

恩地玖
歴史・時代
位人臣を極めた豊臣秀吉も病には勝てず、只々豊臣家の行く末を案じるばかりだった。 一体、これまで成してきたことは何だったのか。 医師、施薬院との対話を通じて、己の人生を振り返る豊臣秀吉がそこにいた。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

江戸時代改装計画 

華研えねこ
歴史・時代
皇紀2603年7月4日、大和甲板にて。皮肉にもアメリカが独立したとされる日にアメリカ史上最も屈辱的である条約は結ばれることになった。 「では大統領、この降伏文書にサインして貰いたい。まさかペリーを派遣した君等が嫌とは言うまいね?」  頭髪を全て刈り取った男が日本代表として流暢なキングズ・イングリッシュで話していた。後に「白人から世界を解放した男」として讃えられる有名人、石原莞爾だ。  ここはトラック、言うまでも無く日本の内南洋であり、停泊しているのは軍艦大和。その後部甲板でルーズベルトは憤死せんがばかりに震えていた。  (何故だ、どうしてこうなった……!!)  自問自答するも答えは出ず、一年以内には火刑に処される彼はその人生最期の一年を巧妙に憤死しないように体調を管理されながら過ごすことになる。  トラック講和条約と称される講和条約の内容は以下の通り。  ・アメリカ合衆国は満州国を承認  ・アメリカ合衆国は、ウェーキ島、グアム島、アリューシャン島、ハワイ諸島、ライン諸島を大日本帝国へ割譲  ・アメリカ合衆国はフィリピンの国際連盟委任独立準備政府設立の承認  ・アメリカ合衆国は大日本帝国に戦費賠償金300億ドルの支払い  ・アメリカ合衆国の軍備縮小  ・アメリカ合衆国の関税自主権の撤廃  ・アメリカ合衆国の移民法の撤廃  ・アメリカ合衆国首脳部及び戦争煽動者は国際裁判の判決に従うこと  確かに、多少は苛酷な内容であったが、「最も屈辱」とは少々大げさであろう。何せ、彼らの我々の世界に於ける悪行三昧に比べたら、この程度で済んだことに感謝するべきなのだから……。

日本が危機に?第二次日露戦争

歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。 なろう、カクヨムでも連載しています。

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

処理中です...