えぞのあやめ

とりみ ししょう

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五の段 顔  病臥(三)

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 熱はなかなか下がらず、結局あやめは半月近くも大舘にいつづけることになった。
 たしかに納屋に戻れば、女主人はいつもと変わらず毅然としたところを見せねばならない。熱臭い躰をふらふらと横たえているわけにはいかない。
「帰るに帰れませぬ。」
「帰らなければよい。」
 見舞ってくれたお方さまは、笑った。伝染っては、と遠慮するあやめに、気にするな、幸い診立ては労咳でもないのであろう、と武蔵丸まで連れて来てくれる。
「ここもおぬしの部屋ではないか。」
(ここが……?)
 つらいこと、おそろしいことばかりの一室ではないかと思ったが、たしかに自分も毎日この部屋の天井と壁を眺めてうつらうつらするばかりのうちに、自分の部屋だという気にはなってきていた。
「おぬしは、この大舘の者であろう?」
「わたくしは……」あやめは許されて臥せたままの首をあげて、はい、と呟いた。
「さきほどお前が寝ているのを目にして、昔のことを思い出した。二十年も前、ここは、大舘にしか居場所のないの子どもの部屋だったよ。」
「あっ、それは……?」
 あやめは目を見開いた。そんなことは初めて知った。
「そういう子は、十四郎殿だけではない。母の実家のさほどでもない子、つまり、家の者におやかたさま―いまの御隠居様のお情けあって生まれた子らは他にもおって、皆、ここでころころと寝ておったのだ。村上から嫁いで間が無しの頃には、小さな十四郎殿がその中にたしかにおったよ。」
「ああ……そうでございましたか。」
「不思議じゃな。おぬしと十四郎は、長患いに臥せっている姿がどこか似ている。そんなはずはないのにの。」
「堺は子どもにございませぬが……。なにかうれしく存じます。」
「夫婦も同然の契りがあった仲じゃからかの。」
「ああ……!」
 そんなことを、新三郎の夫人にいって貰えるとは思ってもいなかった。
「縁というものじゃな。……おやかたさまは、この部屋のことなど、申されなかったであろうな。」
「どういうおつもりだったのでしょうか。」
「……さあ。そうじゃ、きっと、ここならば、十四郎殿の霊魂が帰って来て、おぬしを守るとでも思われたのではないか。」
 そんなことはあるまい、とあやめは思ったが、霊魂といわれたのが気になって、それをいいかけた。ご存じなかったか?
「でございますが、御曹司さまは……。」
「うむ、十四郎殿は死んでおらなかったな。うれしいことだの。」
「はい。」
 うれしいといって下さるのか、とあやめは感激する。考えてみれば、お方さまにとっても、十四郎は謀反人になる前は、子どもの頃から知る義理の弟であった。
「十四郎殿、生きておるなら生きておるで、なにかいってくるべきであろうに。帰ってこぬどころか、便りもないからわからぬのだ。心配をかけさせおって。叱ってさしあげたいぞ。」
「……お叱りになられる日を、わたくしは、楽しみに待っております。」
 あやめの目に、自然に涙が浮いていた。
 
 あやめは静かにあやされた気持ちになったが、やはりどこか昂奮したのか、その晩、かえって熱が上がった。
 二六時中、うつらうつらしながら、いろいろな夢をみた。

 小さい十四郎と風邪の床を並べている夢は、夢とすぐわかって、それでもうれしかった。金色の髪の子どもは眠りこけていて、声をかけても起きてくれない。ゆさぶる手をみると、自分も子どもの姿なのだろう。そこに、ひどく若い新三郎と、まだ少女を抜けていないかにみえるお方さまが幼い夫婦づれでやってきて、小さな子どもたちをやさしく見舞ってくれたときには、うれし涙が流れた。目覚めてからも、泣いた。

 与平の亡霊にも、夢のなかで会った。
「来たのかえ?」と寝床からあやめは、部屋の片隅に黙って控えている与平に声をかけた。不思議に恐ろしくはなかった。むしろ、会えてうれしい気がした。
「やはり、わたくしに一言いいたかったのじゃな? さもあらんよ。」
 与平は無言でにじりよってきた。
「……ああ、化けて出たとは、祟るのかえ? よいぞ、祟ってくれや。地獄にでも引き込んでくれればよい。」
「御寮人さま、残念じゃが、あんた様はまだ、そう簡単にお楽にはなれますまいよ。」
 与平は、生きていたときと変わらぬ、やや偉そうな調子でいった。
「そうかえ。当分は死ねぬわけか、」
「ああ。祟るつもりなぞも、あらぁしません。……ただ、お顔をもう一度みたかった。」
「左様か。会いに来てくれたか、与平さん、痛かったじゃろう。まことに、すまぬことをした。許しはできぬだろうが、詫びさせてくれ。この通りじゃ。」
 あやめが寝床に半身を起こし、少し揺れる頭を低くすると、与平は黙って首を振った。
「もう、済んでしもうたことじゃ。御寮人さま、しかし、最初に御曹司さまがお店にやってきたころから、儂のご忠言を聞いてくれれば、あんた様も儂も、こうはならんでよかったでございましょうな。」
「与平さん、あんた、何かいうておったか?」
「申しましたよ。ご用心召され、あの御曹司さまはああみえてお店には疫病神にござろう、と。」
 あやめは思いだせぬし、いくら口の悪い与平とはいえ手代が主人の客をそう直截に悪しざまにいうはずもないだろうが、そのとおりであったかもしれぬな、と頷いてみせた。
「まあ、いまとなっては全てが遅うござんす。それに、御寮人さまのお身は御寮人さまのもの、お店も松前に限れば御寮人さまのものだ。どないにもなさるがよい、もう、儂にはかかわりのない話じゃ。」
 与平はさびしげに笑った。わたくしの前では、なぜ男どもはこう誰も彼も寂しげになるのだろう、とあやめは切なくなった。
「あんたのようなお店大事の者に、左様にいわせてしもうて、すまぬな。」
「まだおわかりでなかったか。お店なんざ、儂には本当はどうでもよかったんじゃ。あんた様と、これくらいの時から……」
 はっとすると、目の前には丁稚の少年がいた。自分の躰もひどく小さくなっているのがなぜかわかる。なるほど、幽霊にでもなれば、こんなことができるのかと感心した。
「……仲良うできておったらな。こないにふくぞうもなく、話せでもしておったらな。それで儂は、よかったのよ。」
「あんたらから声をかけてくれれば! わたくしはさびしくしておったのに。」
「分際が違うのよ。丁稚風情では無理じゃ。」
「あんたはずっと店に残ったぞ。堺のお店でも、手代になれたであろう。わたくしが、もっと大人しい娘であればな。あんたが御出世と見込んで、嫁にでもあてがわれたかもしれんな。あんたは、それでもよかったかい?」
 目の前の少年が、すこし大人の骨格に変わった。青年といっていい、与平だ。
「なにを当たり前のことを。若衆の頃からの、それが夢じゃった。」
「前も聞いたが、ほんとうかい? 悪い場所ばかりいきおって。それをわたくしの耳に入るように、大声で喋りおって。」
「御寮人さまのくせに、店で遊んでいたから悪い。あんなところに、店の偉いひとたちが引き揚げてからも、ひとりでごそごそしておったからじゃ。」
「大福帳をみておったのよ。あれはわたくしの商いの手習いで、稽古じゃ。稽古を邪魔しおって。」
「なんの、聞き耳たてておられるのをわかって喋った。現に、御曹司さまとの間で、役にはたったでござりましょう?」
 与平は笑い、あやめは赤面して黙り込んだ。
 死ぬ前の与平の姿に戻っている。
「御寮人さま、最後にひとつ忠言いたしますがね。」
「最後なのかえ?」
 ああ、と頷いて与平は真面目な顔になった。
「あんた様も、御思慮が足らぬ。えろう気前よく、男の吐いた子種をお受けだが、もしいま身籠ったら、どうされるおつもりじゃ?」
「……主人になにを申すか。男というのは厚かましい。一度肌を知ったからというて、すぐ慎みのないことを申すようになるか。」
「儂もこのありさまで、もうご遠慮したって仕方がありますまい。どうにもあんた様がやられるはチグハグで、心配でならぬ。」
「……そうよな。まったくそうじゃ。」あやめは首を振った。「だが、あれは、されてしまうのじゃから、それこそ仕方がなかろうが。昔から、こちらがどう厭がっておっても、なさるのだから。……それに、心配するな。わたくしはどうも石女らしい。孕むものなら、とっくに孕んでおろう。……万が一のときには、どうにかして流してしまうわ。」
 いってしまって、あやめは自分の言葉に躰が冷えるのを覚えた。与平はずっと黙って聞いていたが、溜息をついたようだ。あやめはなにか慌てたような気分になって、いった。
「与平さん。幽霊とならば、孕むことはないじゃろうな?」
「御寮人さま。」
「お詫びになるやはしれぬが、せっかく来てくれたのだ、よければ、この躰、抱くがよい。おぬしの思いを遂げておくれ。」
 与平は首を振った。
「そうしたいはやまやまじゃが、……御寮人さま、死人と交われば穢れる。儂はもう、あんたに触れてはならぬ。」
「与平?」
「来世の楽しみにとっておこう。」
「生まれ変わって、また会えるかえ?」
「ああ、ここで我慢したのは、亡霊にしては功徳を積んだ。きっとまたひとに生まれるじゃろう。そうしたら、今度はあいつら人殺しどもには、儂のあやめ様を決して渡さぬ。あやめ様、次は、もっと物堅い商いを一緒にやりましょうぞ。」
「ああ、それはよいの。」あやめは微笑んだが、やがて内心で冷え冷えとした思いが広がるのがわかる。
(だが、わたくしも、人殺しなのじゃ。与平、おぬしの舌を噛んだだけではないぞ。これから、わたくしの考えで山ほどのひとが死ぬのじゃ。おぬしのようにひとに生まれ変われるものか?)
 朝日の中に消えていくらしい与平は、あやめの考えがわかるのだろう、悲しい顔になった。
 枕の上にあやめの頭はあったが、夢かと思った瞬間に、気づいた。部屋の匂いが、いつもと違う。あのとき嗅がされた、新三郎とは別の男の肌の匂いが思い出されてしまった。与平、やはりまことに来たのかえ、とあやめは熱っぽい瞼を閉じて呟いた。

 
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