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五の段 顔 傾斜(三)
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「新三郎の話の相手をしてやっておられましたよ。一晩、結句そればかりだ。」
「そのときだけは、納屋の御寮人さまだったのだろう。書院が臥所に変わっただけだ。」
「そうでもない。」
コハルが大舘に潜らせている女は、ちょっと厭な笑いを浮かべて、首をひねった。
「他愛もないお話ばかりだ。奥州や蝦夷島にはこんなうまいものがあるが食べたか、とか、堺や京ではこれこれというものがあって、知らぬがうまいのか、いえお話の種にはなりまするが、お味はとてもとても……といったような。覚えるのも馬鹿らしい気がしましたな。それにしても、男女が食い物の話をされるというのはね、容易なりませぬよ。」
「ご計略よ。相手を油断させておるのよ。おぬしの技ではないか。」
「左様ですかね。……あ、風流の話もあった。おかしら、新三郎はああみえて、なかなか嗜みが深い。御寮人さまのほうが歌のことなど教わって、つい感服しておられた。」
「つい、もなにも、そんなふりをなされていたのだろう。」
「あのおひとはお育ちがよろしいから、素直に感心してしまわれるのではないでしょうかね。」
「そんなはずがあるか。あれの首をとろうとされているのだ。あやつのせいで、もうお手を血で汚された。お迷いはないはずだ。」
「お迷い?」
「……ないといった。あろうはずもない。いま少しのご辛抱じゃ。」
「しかしねえ、いくらか軽い悪戯があっただけで、あとは寄り添って寝られたよ。新三郎はさすがに未練ありげだったが、御寮人さまがお無邪気に寝入ってしまわれたので、お眠りのお顔を長々とうれし気に眺めるや、こちらもおとなしく寝てしもうた。」
「あやつのほうは、ああみえて、まことに御寮人さまに惚れておるのじゃ。」
コハルは吐き捨てた。
(御寮人さまを苦しめぬいた鬼の所業も、そこから来たのよ。)
「馬鹿め。」
「……なにを考えているのやら。」
「それを探るが、ぬしの仕事ではないか。」
「新三郎だけではない。御寮人さまも、なにをお考えですかね。」
「消えよ。」
コハルは静かな怒りの籠った声で命じた。調子に乗っていた女は、胴震いする。
「いずれ、新三郎を落とせ。」
「あたしはただの台所女でございますよ。」
「おぬしなら、なんとかできよう。それほど新三郎が気になるなら、自分で閨で探ってみるがよい。」
「……承知いたしました。」
まさか、仇に篭絡されてしまったわけではないのだろうが、あやめにとって新三郎は徹底的に嫌悪し、骨の髄から憎むだけの相手ではなくなってしまっているのは、たしかのようだった。だとすれば、
(その分、お悩みは深まるではないか。)
「女も年寄りも、わたくしの本当の苦しみがわかって同情してくれるわけではない、憐れんでおるだけで、何もしてくれぬ。そうかと思うと、天下の今井宗久の息女に、子守りなどさせよってのう? は、ははは。」
「……御寮人さま、乱世の習いとお考えあれ。」
「……そうだな。わたくしが取り乱してはならんな。山ほどのひとが、わたくしのために動いてくれる。」
「御寮人さまもまた、それ以上に山ほどのひとの為に、これまでお命を削られてきたのです。」
「わたくしは、それほど偉くないよ。ただ、十四郎様にお会いしたいだけの、哀れな女なのだ。」
「哀れな女は、これからの蝦夷島には無数にできる。増え続ける。もう何人、女郎屋に売られております? 何人奴婢に落された? アイノ同士でも争いの勝ち負けで奴婢の売り買いがある。和人を見習ったか、戦が荒く荒くなっていると聞きましたぞ。それもお止めになるのでございます。」
「御曹司さまがそれをなさって下さる。」
「御寮人さまあってこその蠣崎十四郎様なのでございますよ。蝦夷地ご宰領様の蝦夷島平定は、御寮人さまがそれをさせるのじゃ。」
「……」
「よろしいか、これは正義だ。天道だ。コハルはこれまでの仕事で決してこうした句を口にしたことはなかったが、いまだけは、はっきりそう申し上げる。哀れでもなんでもかまわぬが、正義をなすのに、お疲れで、どうされます?」
「正義だと……?」
「もうすぐ、もうすぐでございます。」
コハルはなだめるようにいった。
「お悩みの間もなく、上方からお使いがやって来る。すべてが、南蛮時計のからくりのように動きだすのでございますよ。そこまでのことを、すでに御寮人さまは成しとげられた。あとはお心をしずめて、成り行きをみているだけでよろしかろう。」
「……」
やがてあやめは下をむいて、首を力なく振りながら、
「そうであればいいのだが……」
数日後の昼間、大舘の湯殿の中にあやめはひとりでいた。
主人はまたしても短い征旅にあり、釜の火などは落としてある。無人の、がらんとした板の間と土間である。あやめはもちろん着衣のまま、ぼんやりと立って、周囲を眺めていた。窓から、明るい陽光がさしこむのをはじめてみた。
(まったく、松前には分不相応な湯殿よ。)
新三郎は、またしても上ノ国に兵を出した。小規模な叛乱が続いており、知行地の放棄が絶えない。もう一度、征討のやり直しに近い軍事行動をおこなわなければならなくなった。実際の戦闘行動は少なく、あってもごく軽いはずだが、進軍そのものに徒労感が深いだろう。
(戻れば、また、あのような血みどろの恰好で抱きにくるのか……?)
あやめは怖気をふるったが、同時に、新三郎のあの日の声も思いだす。
「お前を武家の女にしたかったのじゃ。」「おぬしもこれで、武家の女じゃと。まことに儂の女じゃと。」
(埒もないことを。わたくしは商人だ。女なりといえど、松前納屋の主人だよ。)
(ここで、それを乱離(めちゃくちゃ)に扱いおったのだ。納屋今井宗久の娘、小なりといえども店の主という誇りを奪ったのだ。)
(弟の心妻の貞操を踏みにじり、自分の妾にしてしまいおった。何度もなんども恥をかかせ、むごい仕打ちを大舘の者どもにみせつけおった。店の者に心配をかけさせおった。)
(その店の者にも穢された。しかも、あやつの目の前で。)
(挙句、わたくしはひとを殺める羽目になった。幼いころからの知り合いで、店の者で、わたくしなどに惚れていた男を、むごい殺しざまに……)
(すべて、すべて、あやつのせいではないか。)
(あやつは、それなのに、わたくしが蠣崎の家のために働いていると思うておる。あげくは、大切だの可愛いだのといえば、自分を好いてくれるものと思いあがりよった。)
(全てここで、この場所ではじまったのだ。)
「……お方さま?」
あやめは呟く声で呼びかけてみた。北の方のことではない。斬首された季広長女の亡霊に呼びかけている。
しかし、怨霊の声はしばらく待っていても聞こえてこなかった。
「ここにでも来れば、お話をうかがえるかと存じておりましたのに。」
許すべきではない、絶対に許せないという決意を、あの執念深い怨霊の言葉によって確認できると期待して、あやめはこの場所にこっそりやってきたのだ。
最初に犯されたあの日はもちろん、堺の方として腕を引かれ、泣き叫びながら連れてこられた何度かも、毒々しい恥辱の記憶ばかりだ。
ここでなら、それらが鮮やかに蘇るにちがいない、そうすれば、蠣崎家を呪ってやまない亡霊にまた会えるはずだった。
ところが、昼の光のなかにある湯殿は、白々した拍子抜けの思いしか抱かせない。忌まわしい記憶こそ決して消えはせずそこに結びついているが、そこから燃え上がるはずの呪詛や闘志のようなものとは、まるで無縁のようなのである。まるで、あやめにとって、何も起きなかった場所のようだ。あの怨霊など、呼びようもない。
耳にも、頭のなかにも、あやめを鼓舞し、けしかける、何の声も聞こえてこなかった。
(……こんなところに来ても、いかぬか。)
あやめは悄然と背を丸めて、湿っぽい風呂場を出た。
「そのときだけは、納屋の御寮人さまだったのだろう。書院が臥所に変わっただけだ。」
「そうでもない。」
コハルが大舘に潜らせている女は、ちょっと厭な笑いを浮かべて、首をひねった。
「他愛もないお話ばかりだ。奥州や蝦夷島にはこんなうまいものがあるが食べたか、とか、堺や京ではこれこれというものがあって、知らぬがうまいのか、いえお話の種にはなりまするが、お味はとてもとても……といったような。覚えるのも馬鹿らしい気がしましたな。それにしても、男女が食い物の話をされるというのはね、容易なりませぬよ。」
「ご計略よ。相手を油断させておるのよ。おぬしの技ではないか。」
「左様ですかね。……あ、風流の話もあった。おかしら、新三郎はああみえて、なかなか嗜みが深い。御寮人さまのほうが歌のことなど教わって、つい感服しておられた。」
「つい、もなにも、そんなふりをなされていたのだろう。」
「あのおひとはお育ちがよろしいから、素直に感心してしまわれるのではないでしょうかね。」
「そんなはずがあるか。あれの首をとろうとされているのだ。あやつのせいで、もうお手を血で汚された。お迷いはないはずだ。」
「お迷い?」
「……ないといった。あろうはずもない。いま少しのご辛抱じゃ。」
「しかしねえ、いくらか軽い悪戯があっただけで、あとは寄り添って寝られたよ。新三郎はさすがに未練ありげだったが、御寮人さまがお無邪気に寝入ってしまわれたので、お眠りのお顔を長々とうれし気に眺めるや、こちらもおとなしく寝てしもうた。」
「あやつのほうは、ああみえて、まことに御寮人さまに惚れておるのじゃ。」
コハルは吐き捨てた。
(御寮人さまを苦しめぬいた鬼の所業も、そこから来たのよ。)
「馬鹿め。」
「……なにを考えているのやら。」
「それを探るが、ぬしの仕事ではないか。」
「新三郎だけではない。御寮人さまも、なにをお考えですかね。」
「消えよ。」
コハルは静かな怒りの籠った声で命じた。調子に乗っていた女は、胴震いする。
「いずれ、新三郎を落とせ。」
「あたしはただの台所女でございますよ。」
「おぬしなら、なんとかできよう。それほど新三郎が気になるなら、自分で閨で探ってみるがよい。」
「……承知いたしました。」
まさか、仇に篭絡されてしまったわけではないのだろうが、あやめにとって新三郎は徹底的に嫌悪し、骨の髄から憎むだけの相手ではなくなってしまっているのは、たしかのようだった。だとすれば、
(その分、お悩みは深まるではないか。)
「女も年寄りも、わたくしの本当の苦しみがわかって同情してくれるわけではない、憐れんでおるだけで、何もしてくれぬ。そうかと思うと、天下の今井宗久の息女に、子守りなどさせよってのう? は、ははは。」
「……御寮人さま、乱世の習いとお考えあれ。」
「……そうだな。わたくしが取り乱してはならんな。山ほどのひとが、わたくしのために動いてくれる。」
「御寮人さまもまた、それ以上に山ほどのひとの為に、これまでお命を削られてきたのです。」
「わたくしは、それほど偉くないよ。ただ、十四郎様にお会いしたいだけの、哀れな女なのだ。」
「哀れな女は、これからの蝦夷島には無数にできる。増え続ける。もう何人、女郎屋に売られております? 何人奴婢に落された? アイノ同士でも争いの勝ち負けで奴婢の売り買いがある。和人を見習ったか、戦が荒く荒くなっていると聞きましたぞ。それもお止めになるのでございます。」
「御曹司さまがそれをなさって下さる。」
「御寮人さまあってこその蠣崎十四郎様なのでございますよ。蝦夷地ご宰領様の蝦夷島平定は、御寮人さまがそれをさせるのじゃ。」
「……」
「よろしいか、これは正義だ。天道だ。コハルはこれまでの仕事で決してこうした句を口にしたことはなかったが、いまだけは、はっきりそう申し上げる。哀れでもなんでもかまわぬが、正義をなすのに、お疲れで、どうされます?」
「正義だと……?」
「もうすぐ、もうすぐでございます。」
コハルはなだめるようにいった。
「お悩みの間もなく、上方からお使いがやって来る。すべてが、南蛮時計のからくりのように動きだすのでございますよ。そこまでのことを、すでに御寮人さまは成しとげられた。あとはお心をしずめて、成り行きをみているだけでよろしかろう。」
「……」
やがてあやめは下をむいて、首を力なく振りながら、
「そうであればいいのだが……」
数日後の昼間、大舘の湯殿の中にあやめはひとりでいた。
主人はまたしても短い征旅にあり、釜の火などは落としてある。無人の、がらんとした板の間と土間である。あやめはもちろん着衣のまま、ぼんやりと立って、周囲を眺めていた。窓から、明るい陽光がさしこむのをはじめてみた。
(まったく、松前には分不相応な湯殿よ。)
新三郎は、またしても上ノ国に兵を出した。小規模な叛乱が続いており、知行地の放棄が絶えない。もう一度、征討のやり直しに近い軍事行動をおこなわなければならなくなった。実際の戦闘行動は少なく、あってもごく軽いはずだが、進軍そのものに徒労感が深いだろう。
(戻れば、また、あのような血みどろの恰好で抱きにくるのか……?)
あやめは怖気をふるったが、同時に、新三郎のあの日の声も思いだす。
「お前を武家の女にしたかったのじゃ。」「おぬしもこれで、武家の女じゃと。まことに儂の女じゃと。」
(埒もないことを。わたくしは商人だ。女なりといえど、松前納屋の主人だよ。)
(ここで、それを乱離(めちゃくちゃ)に扱いおったのだ。納屋今井宗久の娘、小なりといえども店の主という誇りを奪ったのだ。)
(弟の心妻の貞操を踏みにじり、自分の妾にしてしまいおった。何度もなんども恥をかかせ、むごい仕打ちを大舘の者どもにみせつけおった。店の者に心配をかけさせおった。)
(その店の者にも穢された。しかも、あやつの目の前で。)
(挙句、わたくしはひとを殺める羽目になった。幼いころからの知り合いで、店の者で、わたくしなどに惚れていた男を、むごい殺しざまに……)
(すべて、すべて、あやつのせいではないか。)
(あやつは、それなのに、わたくしが蠣崎の家のために働いていると思うておる。あげくは、大切だの可愛いだのといえば、自分を好いてくれるものと思いあがりよった。)
(全てここで、この場所ではじまったのだ。)
「……お方さま?」
あやめは呟く声で呼びかけてみた。北の方のことではない。斬首された季広長女の亡霊に呼びかけている。
しかし、怨霊の声はしばらく待っていても聞こえてこなかった。
「ここにでも来れば、お話をうかがえるかと存じておりましたのに。」
許すべきではない、絶対に許せないという決意を、あの執念深い怨霊の言葉によって確認できると期待して、あやめはこの場所にこっそりやってきたのだ。
最初に犯されたあの日はもちろん、堺の方として腕を引かれ、泣き叫びながら連れてこられた何度かも、毒々しい恥辱の記憶ばかりだ。
ここでなら、それらが鮮やかに蘇るにちがいない、そうすれば、蠣崎家を呪ってやまない亡霊にまた会えるはずだった。
ところが、昼の光のなかにある湯殿は、白々した拍子抜けの思いしか抱かせない。忌まわしい記憶こそ決して消えはせずそこに結びついているが、そこから燃え上がるはずの呪詛や闘志のようなものとは、まるで無縁のようなのである。まるで、あやめにとって、何も起きなかった場所のようだ。あの怨霊など、呼びようもない。
耳にも、頭のなかにも、あやめを鼓舞し、けしかける、何の声も聞こえてこなかった。
(……こんなところに来ても、いかぬか。)
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