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五の段 顔 傾斜(一)
しおりを挟む蠣崎彦九郎季広。受領名では前若狭守ということになるか。先代の安東家被官、蝦夷代官職。隠居の老人は、天正十三年、蝦夷地の天にようやく温かさが充るころ、茶の湯に没頭していた。
納屋御寮人であるあやめは今井宗久から茶の手ほどきをうけていたから、相手になれることはすでに述べた。
前年来、季広老人とあやめが互いの茶室に招きあうことは増えている。
「あれは、当代と先代の仲立ちではないか。」
と囁く者たちもいる。茶の湯という流行の先端にある嗜みにはそうした政治的意味があるのは、わけしりの松前侍ならばこそ、そう思いたがる。みたこともない政商今井宗久の姿を、若い女の立ち姿に重ねている。
「納屋の御寮人は、おふたりの間の仲介役を任されているのだろう。」
と観る者が多い。
対アイノ政策をめぐり、ご隠居の意見が当代のそれとかけ離れていることはあきらかであった。
「ご隠居様がああいう我慢強く温和なお方でなければ、お二人のあいだに何が起きているやら。」
対アイノに融和的な立場の者はいいたがる。アイノに同情があるというよりも、蝦夷商人との仲が深い、なお渡党時代の半商業者的色合いを残した者たちである。
「いや、ご隠居様はご当代と御意見変わらず。」
そう分析する者もいた。新三郎に近い者たちがその多数であるといえよう。
ご隠居様こと季広が盛年のおり、蠣崎家の兵力はなおとるに足らず、アイノとの戦いにおいては連戦連敗に近かった。かつての安東時代にヨイチの手前に及んでいた和人の勢力は後退、縮小をつづけ、上の国はセナタイアイノの地となっていた。かつて南の海岸線に張りついていた和人の舘は、ほとんどが一度はアイノの兵による落城の経験をもつ。
そんな中で家督を継いだ彦九郎季広の蝦夷との和平締結は、こうした彼我の兵力差から出たやむを得ぬ妥協の産物である。単独で軍事的劣位を解消できない蠣崎は、いざというときには援兵は秋田の主家に仰ぐしかなかったのだろうが、海を越えて大規模な派兵を頼りにするわけにはいかなかった。
天下政権の成立で、そうした大状況が変わりつつある以上、外交も変わる。目の上の瘤であったセナタイらを事実上うち滅ぼした息子の慶広を、季広は高く評価している。意見の相異は、戦後処理、ありていにいえばアイノの長どもの助命をめぐるものにすぎない……というのである。
あやめも、そんなところもあると思っている。
実際のところ、あやめは誰からも何の役目も与えられていない。もし季広と慶広の親子のどちらかが、暗にとりなしを望んでいたとしても、それをはっきりといわれたことはなかった。
なにか期待するところがあるとすれば、戦後の処遇では父の意図を無視し、結果的にその生涯の業績を覆したともいえる新三郎慶広のほうであろうが、あやめに何かを命じたりはしない。自分の寵愛する側室が足繁く隠居である父のもとに通うだけで、十分だとすら思っている。
「あやめ、父上のご機嫌は如何か。」
「お茶をお楽しみと存じます。」
「それだけか。」
「手前なぞに、何かご政道向きの御疑念やご不満を漏らされるようなご隠居様でございますか。」
「その通りだが。……あやめ、余計なことをいう。」
「おそれいります、ただ、セナタイアイノのご始末、おやかたさまに一片のご悔いもございませんのでしょう。」
「無論だ。」
「ならば、済んだことにございます。ご隠居さまのご機嫌をご心配召さることはございますまい。」
「そうか。」
忙しい新三郎は、そうであってほしいから、そう納得する。
季広老人のほうは、より複雑ではあった。あきらかに、鬱屈がある。
ただそれを、たしかにあやめにあまり漏らすことはなかった。それでも言葉の端々ににじみ出る老人の不満を、あやめがくみ取るのは難しくなかった。
ふとしたことで、季広老人の政治家としての思い出になると、膝を進めてあれこれ聞いてみせる。
「御寮人は珍しいひとじゃな。こんな田舎の隠居の昔話をよく聞いてくれるものじゃ。」
「夷狄の商舶往還の法度」と呼ばれる、アイノの首長たちに大幅な交易の自由をみとめ、支配地をみとめた協定は、 桶狭間の戦いよりも十年近く前のことなのである。
「おそれながら、まことに面白うございますよ。大変なご苦労のお話ばかり、涙が出ます。」
ほんとうのことでもあった。凄惨なアイノとの闘争を終わらせねばならないという季広の意志は、たしかに政治家としての理想に裏打ちされていたようである。領主権を主張する主家安東家の顔をいかに立てるか、の苦労を、あたかも主家から恩を受けたように話すのも、篤実な武家らしいと思えた。
「そなたのような上方育ちの若い女性が、むさくるしい蝦夷島の男どもが着いたの離れたのという鬱陶しい話が面白いとは、お変わり者よの。」
「左様でしょうか。」
たしかに、我ながら、変わった女らしいと思う。
(与平が毒づいたとおり、わたくしは大人の中ばかりにいる子どもだったからな。)
「手前は商人でございますので、蝦夷地交易のそもそものありようのお話をくださり、興趣に堪えませぬ。」
「そもそものありよう、か。……安東様ご先代(安東瞬季)にせよ、儂にせよ、いや、アイノの長どもですら、天道の命じるところを追うつもりがあった。単に力の按配だけで海関の取り決めを立てたのではなかったのう。」
そこから有益な情報が得られるわけでもないが、話を面白がって聞く分、あやめが季広老人と親しんでいくことはたしかだった。
さらに、先代と当代のあいだを今井家の者がしきりに行き来している―ように見せるのが、あやめの狙いといえば狙いでもある。
(なにかがお二人のあいだには、ある。)
と周囲に思わせるのは、必要だった。
周囲だけではない。
やがて当人たちが、実の親子でありながら、間に使者とも仲介者ともつかぬ人間を立てねばならぬ関係に、自分たちはあると思えてくるのだ。
すでに存在していた対アイノ政策をめぐる意見の相異が、大舘の中に、徐々に党派をうみ出していった。すぐる与三郎の切腹と十四郎遠流の前夜にもみられなかった、緊張感が伏在している。新三郎の武断的な姿勢が効果をあげ、いまは圧倒的といえるだけに、それへの反感も押さえつけられた分、強まるのである。
あやめは海路、箱館に来ても、以前のように晴れやかな気分になれなくなってきた。
何度も焼失をこうむった街並みは、納屋の力もあって、松前よりもはるかに整然としたものに生まれかわりつつある。坂の上に、大きな土地をあけてもらっている。かつての館は元の場所に簡単に再建されたが、それとは別に、上方風の城館を築きたい。
(箱館御移城。)
その言葉はかつて、あやめの胸をときめかせた。そこにいずれ、十四郎が入る。蝦夷地と渡党の土地を統一した蝦夷島に、楽市楽座で繁栄する住民たちのよき調停者としての政庁ができる。だが、
(どうしてだ。かつてあれほど脳裏に鮮やかだった、十四郎様のお城が、いまこの土地にみえない。)
「十四郎様にお会いしたい。」
箱館から船で戻ると、塩気を洗うのも忘れ、まっさきにコハルに訴えた。
「もう、耐えられぬ。」
「御寮人さま、落ち着かれよ。会って、どうされます。『図』のご相談ですか。」
「……それでよい。」
「……ご書状で済むことではございませぬか。十四郎様が松前に来られるわけにもいかぬし、御寮人さまがヨイチやイシカリに行くわけにもいかない。」
「行ってはいかぬか。」
「無理でございます。大舘の目があります。」
新三郎以前から、蠣崎家も自分たちと似たような連中を使い、蝦夷島にかれらなりの物見の網を張っているのはわかっていた。
(田舎田楽ではあるが、役者は役者。あなどれぬ。)
(ましてや、御曹司さまのご健在を知った今、御寮人さまへの目が緩むとも思えぬ。)
(お身が危なくなってはいかぬ。新三郎が御寮人さまをどう思おうが、仕事の者はお構いなしに働く。わしらとてそうではないか。)
「箱館でお会いするわけにはいかぬか。あの町をお見せしたい。お考えがうかがいたい。」
「難しうございますねえ。御曹司さま……いえ」コハルはわざといいかえた。「蝦夷地ご宰領様を、この半島まで、安全にお迎えするのは、まだ……」
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「おひいさまも、あれもあれでお忙しいのですよ。雑賀の者どもとのお仕事がある。」
「そうだ、アシリレラはまた鉄砲を撃つのだな。」
「それどころではございませぬ。ご宰領様は、途方もないことをお考えだ。」
十四郎は、世界的といっていい戦術的な飛躍をおこそうとしている。
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