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四の段 地獄の花 来訪者(一)
しおりを挟む天正十三年の正月を迎えた。
松前納屋からは、与平の息のかかっていそうな店の者三名が、店から文字通り叩き出されている。ミヨマツなどはアイノの血とはいえ独り者だから松前にはいられるはずなのに、思いもかけず暇を出され、そのまま行き方不明のままである。
与平も、死んだとは明らかにされていない。ひそひそと伝わる噂は、しかしあった。どうやら大舘でおやかたさまにお手討にあったらしい、それも「堺の方」のせいだという。堺の方こと御寮人さまを大舘から救おうと忍びこんだところを斬られたらしいぜ、というのが、蝦夷雇いが増えた店の中で囁かれた。与平はああみえて、主人である御寮人さまへの忠義はことに深いのだと、店の者はみな思っていた。
(さもあらん。御寮人さまがかかわられているのは、そうじゃろう。与平さんは、御寮人さまに惚れてらした。)
もう古参ともいえるミツなどは思っているが、それを気軽に喋る相手はもう、店のなかにはいないのだった。
狭い松前だから、領主の政庁ともいうべき大舘の中で起きたことすら、噂になることをまぬがれない。
とはいえ、ミツ、それにコハルなども首をひねらざるを得ないのは、「堺の方さま」の評判が、町ではひどく悪いことだった。
噂というのは奇妙なものだ、とコハルは思わざるをえない。何もしらんくせに、と腹立たしい思いだが、よくも同じ材料から不思議に歪み、裏返った絵ができて、まことしやかに広まるものだと驚くことも多い。しかもその材料は、蝦夷代官家や大舘から、どうしても外に漏れ伝わるはずもないものばかりなのだ。
そのくせ、堺の方が納屋の御寮人と同一人物であることすら、それらの噂ではひどく曖昧であるか、すっぽり抜け落ちてさえいる。
松前納屋の者たちですら、下手をするとそうなってしまう。最初から知らないか、意識から落ちてしまうのか、噂の中の悪女について喋っているうちは、女主人こそがその人であるはずだとも思っていないのだ。横で聞いていて、コハルやミツといった古参の店の者はあきれてしまうことがあった。
「わたくしも、『堺の方さま』の悪口は目の前で聞かされたことがあるぞ。」
あやめ本人が笑いながらいったことがある。
「まさか、お店の中でございますか?」
「いや、商人の集まりでだ。知らぬ人が増えたのだな。悪いことではない気もするぞ。」
あやめはいかにもおかしげに、また声をたてて笑った。
(御寮人さまは、あの夜以来、ますますこの笑い顔が増えた。)
コハルは痛ましい気持ちになる。
「なんでも、アイノを松前から追いだしたのは、堺の方さまらしい。」
「なんと。」
「堺の方さまは侍女のアイノの少女をいびり出すほどの、有名な蝦夷嫌い。松前に蝦夷は要らぬが持論だと。」
「……」
「まだあるぞ。どうやら、蠣崎家のお家騒動にも首を突っ込んでいるのじゃ、堺の方さまは。しかし、ちょっと気になったな、その噂は。」
「たしかに。……まさか?」
万が一、「図」が漏れているとすれば、一大事である。
「それが、聞いてみると面白い。代官家の嗣子はもちろんご長男の若君でお決まりじゃが、堺の方さまはほど知らずの野心を起こし、なんと幼童武蔵丸様をおしたてんと策謀をめぐらしているらしい。あの、お小さい、おかわゆい、武蔵丸様じゃぞ!」
「御寮人さま、もうようございます。大舘のなかで疑う者もいますまい。くだらぬ噂話でございますな。」
「いや、面白いのよ。わたくしに喋ってくれたのは、両岸(近江出身の商人たち)さんでも新米の多賀屋さんでな。横で聞いていたのが、八幡屋さんで、この人は古いから、わたくしの大館での名を知っている。多賀屋が堺の方さまの悪行をあげつらい、わたくしがほんに感心して相槌打つたびに、八幡屋は赤くなるやら青くなるやら、いたたまれぬ様子。あとで、わたくしに、御寮人さまはお人が悪い、とこぼされたわ。ははは、悪いことをしたのう。」
「御寮人さま、よろしうございます。もう結構でございます。」
ご無理をなさいますな、お心のひび割れがひどくなられる、といいたい。
「まだあるのに。」
「堺の方さまは御寮人さまとは似ても似つかぬ別人。もうそういたしましょう。堺の方などという悪党とは、この際、お手をきりなされ。」
「……いま少しの、いま少しの辛抱であろう?」
あやめの顔から笑いが拭ったように消えた。陰惨な影が浮かぶのが、コハルにはつらくてならない。
「ここまで来た。待った。あんなことまで、してしまった。あんなむごいことまで……」
(与平のご始末を、夢にもみられるのだろう。無理もない。儂らとは違う。)
「そうして、待っている。もう少しくらい、待てる。コハルも、待ってくれ。」
「コハルのことなど、よいのでございますよ。それに、あのことも、御寮人さまのせいではない。お身を守るためには仕方がない。そも新三郎が悪いのではありませんか。あの裏切り者も、結局は御寮人さまを守れて、よろしかったようなもの。」
「……」
あやめは青ざめている。口を血で真っ赤にした。あの味も感触も、死ぬまで決して忘れられないだろう。そして、転がった首が、苦し気な顔で、こちらをみていた。異常な心理に陥って昂奮し、男ともつれあった自分を、ずっとみていた……。
「そんな風には、とても思えぬ。」
「今はご無理なお願いじゃが、いずれは、そう思ってやりなされ。それが供養じゃ。」
「供養?」
「そうですとも。それでこそ、あやつの裏切り、横恋慕も忘れてやれる。それも供養でございましょうぞ。」
「……いま少し、と思いたいのじゃ。トク―徳兵衛のおかげで、ヨイチ、イシカリとの糸も太くなった。十四郎様のことも、昔よりよくつかめる。それで、いま少しに思える。」
「お考えのとおりと存じます。」
そういえば、とあやめの声がやや明るくなった。
「十四郎様のお手紙も、またいただけた。」
「ああ、怒ってさしあげたのでしょう?」
「ああ、あのとき……いや、とあることで思いだして、腹が立ったのを、そのまま書いて差し上げた。最初に”北国の風“とは、コハルの手下で覗う者がついているのを十四郎様はご存じだったくせに、あまりにむごい仕打ちではありませんでしたか、と書いてやったわ。」
(この笑みは、本物じゃな。)
コハルは安堵した。
「で、どうお返事があったので。」
この雪の中を、すぐにお返事がきた、と喜んでいたはずだ。書いてしまった後、あやめ自身も後悔していたのだろう。それがすぐに良い返事を貰えたので、うれしかったのだ。
「……まあ、納得はいたしました。十四郎様はご弁解がうまい。でも、ひとがいたとは知らなんだなどとは、嘘は書かれない。だからそれ以上は何もいえぬ。」
あやめはぺたぺたと頬を片手で叩きながら、なにか照れたようになる。
(どうせ、好きで好きでたまらぬ御寮人さまのお肌を、ただ一度と思い、どうしてもこの目にとどめておきたかった、とか、うまいことを書かれたのであろう。)
「それに、あれはよく考えればコハルのせいであった。」
「左様になりますか? 昔、一度叱られたのに、蒸し返されるとはよくない。」
「ふふ。」
あやめはようやく笑顔らしい笑顔に戻るが、ふと厳しい色が目に出たようだ。コハルは主人がなにを思ったかがわかった。
(いま少し、いま少しである気はするのだ、儂も。)
(それを証する、確たる何ものかが欲しい。)
外の雪景色にふたりは同時に目をやる。この雪では、なにかの知らせが蝦夷地から来ることはまず望めぬ。
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