えぞのあやめ

とりみ ししょう

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四の段 地獄の花  こころ(五)

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 新三郎は出て行った。
 脅かしに、刀でも振ろうというのであろうか、と思ったあやめは内心で、これはしめたと思う。
「あやめさま……えらいすみません、すみません。こうするしかなかった。」
 与平はあやめの頬をいとおし気にさすった。
「……。」
「あ、ああ、あんたさまのことが好きじゃ。こうなれて、あんたさまを抱けて、わしは……」
「……。」
 あやめは固く目を閉じている。口を薄く開いて前歯が見えるけれど、表情を消そうとしている。その頬に、与平の涙が落ちた。
「心配なさるな、御寮人さま。」
 与平はあやめの耳に口をつけて、囁いた。
「あの外道には、御曹司さまのことはまだいうてへん。まだ、わしの胸の中におさめている。」
「……!」
 あやめは息を引いた。
「あんなことが露見したら、あんたさまかって、殺されてしまう。御曹司さまの噂は、まだ大舘の間抜けな連中の耳に入ってない。あほうどもめが。」
 小さく笑って見せた。
(あんなこと?)
「でも、あやめ様もコハルさんも抜けている。蝦夷商人だのミヨマツ(アイヌの言葉がわかる丁稚)だのの口封じも、きっちりやっておかんと、わしのようなものが……その気になれば、簡単に聞き出せてしまいます。」
 相変わらず、囁くような声を、あやめの耳に吹き込む。あやめは躰をゆすり動かされながら、頭の芯が痛いほどに冴えている。
「なんのことかわからんが、ひょっとすると、御曹司さまが御存命なのか?」
「こうなった仲で、おとぼけはなしじゃ。」
 与平はあやめの胸を揉みしだき、女の息を詰まらせた。
「……。」
「ああ、あんな蝦夷の大将なんかより、わしのほうが。」
「いかんな、与平さん。この松前で商売しようというわたくしどもが、そんなことを口にしては。」
 あやめは与平の手に手をかけて、力任せに揉む手を止めさせた。目で、静かに喋れと合図する。与平はそれに従った。あやめの顔から首筋の肌に、薄い唇を夢中で滑らせる。
「御寮人さま、お肌が甘い。あんた、お砂糖かなにかでできてはるのか?」
「あほうな。そんなことがあるか。わたくしは人間じゃ。そうじゃから、……こないな無理矢理は、勘弁じゃっ!」
「ああ、えらいすみません。そやけど、わしが……」
「なあ、おぬし、正気に戻らんか? 一度だけなら忘れてやる。無かったことにしよう。元に戻れや。……そうじゃ、おぬしは、こんな土地は厭なのじゃろ? 堺に戻れや。」
 頼む、頷いてくれ、とあやめは祈った。
「……あんたを、堺に帰してやるよ、わしが。あんたこそ、こんなところにいちゃならん。必ず、帰してやる。一緒に戻りましょう。堺で、大旦那様のお許しをいただけば、たとい疵物とて、あやめさまを、……いや、わしはそんなこと、ちっとも気に」
「御曹司さまが生きておられるんじゃな? わたくしは、……帰られへん。」
「便りなんかなんぼ貰っても、なんにもなりませんよ。」
 あやめの耳を夢中で噛んだ。
(そこまで知っておるのか……。)
 あやめは決意を固めた。
「わしと一緒になってくれ、あやめさま。わしが、もしも、あのお人のことまで、あの犬畜生にいうてしもたら、あんたは堺に戻るどころやない。そんなことは、したくない。」
「こうして一度で、本望やなかったのか?」
 あやめは嫣然と微笑むと、与平の唇に自分の唇を柔らかく当てた。
(わたくしこそ、こうするしかない。)
「あのお人は、こうするのがお好き。今でもかな?」
「くそっ。」
 もう一度、あやめが今度は深く口を吸う。舌を入れると、得たりとからんできた。
 そういえばこういう真似を知識としてだけ得たのも、この与平たち悪童からそのまま若衆になった者が、幼い末の御寮人をからかって、廓の噂を聞かせてきたのが最初であったか。
(つまらぬことを、小さい娘の前でいいおって。)
(それを怒れ、怒るのじゃ、あやめっ!)

 与平が耳を聾するような悲鳴をあげた。ぴったり押しつけた、あやめの顔じゅうが震えたかと思った。あやめの口の中に、生臭い鮮血がほとばしる。そのまま、肉塊を噛み切り、さらに執拗に歯を立てた。あやめは血にむせる。
(ごめんな、ごめんな、与平。)
 真っ赤に染まった口を手で拭いながら、与平の躰から離れると、苦悶するのをじっとうかがう。与平はのたうち回り、痛みと衝撃に立ち上がることはできないようだ。ただ、舌を噛みちぎってやったからといって、死にはしないのだろう。
 耳元に、血塗れの口を寄せた。
「与平、すまぬ。主人のわたくしの頭がおかしいのじゃ。手代のおぬしがおかしくなってしまったのも、無理はない。わたくしのせい。」
「……!」
「痛いな? 苦しいな? 許せ、許してくれ。悪い主人であったな。最後まで苦労をかけていたのじゃな。」
「……!」
 与平は苦し紛れにか、血に咳き込みながら、がくがくと震える手を伸ばした。あやめの腕を掴む。あやめはそれをふりほどかず、別の手を握ってやった。
「おぬしらには、意地悪ばかりされてきたと思っていたよ。おぬしだけは違ったのか。気づかなかった。まったく、気づかへんかったよ。すまぬ。わたくしは、やはりどうしようもない阿呆。おぬしのいうとおりじゃ。心配してくれたのにの。」
 与平が裂けんばかりに目を見開いて、痙攣しながら、あやめをみる。
「楽にしてあげる。もう、痛うない。」

「なにごとか?」
 あっ、と大刀を下げた新三郎が、濡れ縁で立ちすくんだ。
「あやめ、お前?」
 あやめは見苦しくないようにと、寝衣を羽織り、座りなおした。ぺっと赤い唾を吐く。
「おやかたさま、どうかご成敗ください。わたくしも、一緒に。」
「なんだと?」
「この者、家の者の分際もわきまえず、主従の道理を侵し、こともあろうにこの大舘で不埒な振る舞いに及びました。よって主人として、納屋がただいま成敗いたしました。ただ、舌を噛み切っただけでは死ねぬとか。お慈悲でございますので、とどめを刺してやってくださいませ。……いや、姦夫を直接ご成敗あるべしとも存じます。」
「うむ。……だが、だが、おぬしも一緒に、とは?」
「無理強いとはいえ、堺もあろうことかおやかたさまのお目の前でこの者に恥をかかされ、不義を働きましたも同然でございます。ご成敗あってしかるべきかと。」
「おぬし、それは……」
 言葉だけのことではないあやめの様子が、新三郎を当惑させていた。

 こうしたとき、あやめは斬られても構わないと、常に本当に思っていた。十四郎に去られ、新三郎に犯されて以来、つねに死への念慮があやめを去らなかったからだ。
 一瞬の痛みで死ねるのならば、それでいいという思いが、いつもある。ひたすらに恋に泣き笑いし、事業に精を出して生きているようでありながら、あやめの心にはいつしか死の影が張りつき、ことあるごとに手招きで誘惑した。 あやめ自身もそれを跳ね除けることができないままなのである。
(もう、疲れた……。)
(それ、斬るがよい。「図」はご破算だが、その代り、わたくしを殺せば、お前ひとりは必ず死ぬ。コハルか、十四郎さまかが、お前だけは殺してくれるだろう。そのほうがよいかもしれぬのだ。)
(わたくしはもう、たった今、ひとを殺めたわけではないか。人殺しは、死ぬべきじゃ。)
(これ以上血を流すのは、わたくしと、新三郎、お前だけで十分かもしれんぞ?)
「あやめ、それは、……」
「おやかたさま。早くしてやってくださいませぬか。お慈悲でございます。」
 新三郎は、途切れがちな悲鳴と呻き声をあげながらのたうつ肉体を見下ろすと、刀を振り下ろした。首が飛び、重い音をたてて転がった。血の匂いが一気に広がる。
(与平さん。すまぬ。すまぬ。さらばじゃ。できれば来世で、また一緒に仕事に励もう。今度は、子どものころから仲良くしておくれ。)
 あやめは目をつぶって、手を合わせた。
「お見事に存じます。さて。」
 あやめは髪をとき、両手で左右に分けて、下げた首筋をあらわにした。
「馬鹿をいうでないわ。おぬしは、儂が、無理矢理に……」
「おやかたさま。ならば申しあげます。」あやめは目をあげて、新三郎をじっと見つめた。「……納屋のあやめは、ご縁あって、蠣崎様のご兄弟お二人に、ひとかどならぬお情けを頂戴いたしました。まことに不遜ながら、身は商人ながら、お家のひとも同然になれたかと存じて、ここまで参りました。くすしきご縁にて、蠣崎様のお家のためにお尽くししまするは、我が家、我が身にもご利益あらんと信じ、身を粉にして参ったと……」
「うむ。」
「……と、思いあがっておりました。申し訳ございませぬ。本日、おやかたさまよりこのような罰をいただくとは、思いもよらぬことでござりました。」
「罰では……」
「箱館についてはご許可を頂戴しているかとの早合点、畏れ多く存じまする。が、いずれお代官さまのお考えになられるようにとのことにすぎませぬ。納屋に他意などないのは、ご承知かと勝手に安堵しておりました。申し訳もございません。ただ、いいのこすとすれば、箱館は天然の良港にて、いずれ天下静謐がこの地にも及びますれば、必ずお城を……」
「わかった、わかった。許す。今宵のことも、決して不義には当たらぬ。むしろ貞女の鑑。」
 新三郎は血のついた刀を投げ捨てた。
「左様でございますか。まことにありがとうございます。」
 さすがにふっと息をついたあやめの鼻孔に、あらためて生々しい血の匂いが押し寄せた。
(すまぬ、与平……。)
(弔ってやらねば……。首とは、どのように?)
 訊ねてみようと新三郎に目をやったとき、かれに異様な昂奮が訪れていることが、あやめには厭わしくも、はっきりとわかった。
「来い、あやめ。」
(……お前は、……お前は、おれだけのものだ!)
(ああ、武家とはやはり鬼か。血にさかるわけなのか。)
 あやめは眩暈のする思いで、新三郎に近づいた。にじり寄りながら、ほんとうに頭と躰が揺れる。
(だが、……このわたくしこそが。)

 新三郎は、死すら覚悟したに違いないあやめを、この手で抱き締めたくてならない。この女に隠し事があることなど最初の最初から知り抜いていたのに、なにを血迷ってしまったか、なんということをしたか、という自責の念が、頭を駆け巡っていた。
 口を真っ赤に染めたあやめの、涙に濡れた、物狂いしたような表情を間近にみたとき、新三郎は自分の愚かさに歯噛みした。叫び出したかった。
(あやめ、お前は、おれの宝だ。その宝を、おれは、こともあろうに自分の手で傷つけてしもうた。)
(また、……また、傷つけてしもうた……!)
 思わず、所作が荒くなる。無言だったあやめが、低く呻いた。
「……あやめ、おぬしも?」
 新三郎は、刺激をうけるや反応したあやめの肉体の様子をたしかめると、腕の中で固く目を閉じているあやめの白い顔に、おそろしいものを見たかのような表情でつぶやいた。

 
 毒婦「堺の方」には、おのれの不正を追及しようとした篤実な松前商人を騙して寝所に引き込み、わざと蠣崎慶広に発見させ、暴漢だと言葉巧みに主張、その場で首をうたせた―という伝説がある。複数の野史にあるから、いかにももっともらしい。
 商人の首が転がっても平然として、その場で新三郎に抱きついて寵をねだる様子に、さすがの慶広が「いかに不逞の輩とはいえ、いま首にしたばかり。そこで閨に儂を誘うとは、蛇か、おぬしは?」とあきれると、「いかに不逞の輩とはいえ、ひとの首。それをろくにお調べもせずに簡単にうつとは、鬼の所業。鬼には蛇こそ似合いでございましょう。」と返した―という。
 だが、同種の話はやや後代の有名な戦国武将とその妻の逸話がある。この伝説は、そこから時代をさかのぼって派生したもので、信じるに足りないものだとされる。
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