えぞのあやめ

とりみ ししょう

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四の段  地獄の花  こころ(二)

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「どうした、あやめ?」
 あやめは羽交いをこじ開けるように逃れて、顔を抑え、全身を縮こまらせた。震えが止まらない。
(忘れていた! いま、十四郎さまのことを忘れてしまっていた! わたくしのたった一人のお方を……。心の底から慕い、うれし涙を流して睦みあった想い人を……。命懸けの恋の相手を……。わたくしは、あのひとの躰で女になったのではないか。好きなひとと抱き合い、求めあう喜びを知ったのではないか。)
(なにが蕾だ。あれが花よ。あれこそが盛りよ。どんなにふたり不器用に探り合った末であっても、あれ以上の悦びなどなかった。ないのだ。それをわたくしは忘れてしまって、こんな男のいい気な戯言を、ほんの一瞬でも真に受けた。)
 わあっ、とあやめは頭を抱えて床をのたうち回った。新三郎が茫然としている。
(……いや、いや、さっきだって私は、この男に抱かれて、どこかに追い込まれながら、十四郎さまに助けを呼ばなかったではないか。殴られてもいいから、声に出してお名前を叫ぶべきだったのだ、あやめ! それをお前は、……あの死ぬかとも思うきわで、心の中ですらお名前を唱えなかった、お顔を思い出そうとしなかった! こんな男にいいようにされて、ろくに悔しがりもせず、ただ喘いでおったかよ!? うっとりと抱かれておったかよ! 痴れ者め、淫婦め、不貞女め!)
 商いや仕事のときにこそともかく、男女の睦み合いの場に置かれて十四郎の存在を忘れていたのは、あやめにとって死にたいほどのことだった。
「あやめ、気に病むな。」新三郎が叫んだ。「十四郎のことなど、忘れてしまうがよいのだ。」
 あやめの苦悶の身じろぎが、ふと止まった。新三郎に裸の背中を向けたまま、頭を抱えた姿で凍ってしまう。
「お前がなにを思ったか、なにに気づいて苦しんでおるのか、おれにはわかるぞ。だが、詮無きことじゃ。あやつのことなど。忘れてしまえ。」
 あやめが低く呻く声がした。
「お前が、いつぞや、もう昔の男だというたではないか? それをさほどに苦しむのは、道理に合うまい? かしこい納屋の御寮人らしからぬの。」
 新三郎は小さく笑ってみせた。あやめは固まったままだが、聞いているらしい。
「忘れてしまった自分を、責めるな。忘れてしまうがいいのじゃ、あやつは、お前を棄てよったのだ。そんな不実な男のことなど、たとえ最初の男だったとしても、もうよいではないか?」
「わたくしなどの心をお読みになられて、お得意でございますか?」
「あやめ。」
 あやめは起き直った。涙に濡れた目で、こちらを冷たく睨んでいる。

「お得意でございますな。側女の考えることなど、手に取るようにおわかりじゃ。」
「愚かな物言いをするでない。なにが得意なものか。」
「ああ、そもそも、謀叛人の想い女を奪って、いろいろ仕込んだ末にまんまと痴れ狂わせてやったも、さぞお得意でございましょうな?」
 新三郎は手を延ばして、あやめの頬をごく軽く張った。
「堺。口が過ぎよう。」
 あやめは崩れるように平伏した。顔をあげよ、と新三郎は命じると、
「あやめ、この愚か者! いつまで未練を抱いておるのか、あのような者に!」
 あやめはぶたれた頬に手をやって、なにかを考えるように目をそらした。
「あやつは、母の故郷だなどといって、儂らの命に背いて、ポモールだとかの村に行きよった。蝦夷地に流すも同然に追いやったは、儂よ。だが、大舘は、蝦夷と戦えなどとは一言も命じておらん。無益な戦をせよともいうた覚えはない。考えもなく、勝手をしおった。」
「……。」
「それも、お前を棄ててであろう?」
 あやめは、うっ、と呻いた。頬の痛みなどとは比べ物にならない、激しい胸の痛みに躰を折り曲げそうになるのを耐えた。
「お前と十四郎とは、なにかの約定があったはずじゃ。二世の誓いであったか。ともに、どこかに失せようとしておったのか。」
 いうまいとこれまで思っていたことを、新三郎はついに口に出してしまう。そうだ、と思う。
(このおれ……大舘の目を盗んでまでな。それは、お前にとっても命懸け、店も何も失う羽目になりかねなかったではないか! 十四郎、おまえは、それほどの決意を女にさせおって……!)
「……それを平気で破りよったの。そのような奴じゃ。」
(どこまで知っていたのか、この男……?)
 あやめは、先ほどの悲哀の苦悶とはまた別に、新三郎が想像以上に十四郎との仲について調べていたらしいのに、驚いた。狼狽に動悸しながら、新三郎にすべてを見抜かれている可能性に考えをめぐらす。
 だが、それに続く、自然に激したあまりの新三郎の言葉を聞いたとき、すべてが怒りの前に吹き飛んだ。

「犬死してしかるべき振る舞いじゃ。だから見殺しにした。このおれが殺してやったも同然よ。」
「……おのれっ!」
 あやめはついに我を喪った。飛びつくようにして、新三郎の顔めがけて手を振った。
 十四郎は死んでいない。この男がそれを知らないのはむしろ幸いだ。だが、許せなかった。自分が今の境涯にあって苦しんでいるのは、やはりこの男のせいだと思うと、抑えに抑えてきた生なましい怒りが破裂した。
 平手はよけられて空振りになったが、そのままむしゃぶりつき、手の届くところを、顔といい胸や腹といい、固めた拳で叩きつづけた。爪をたてて肉を掴もうとした。夢中だった。
 新三郎は驚きもせず、あやめの肩を無言で抱きかかえて止める。
「あいつは死んだのだ、あやめ。」

 あやめは正気に返った。激情のあまり、とんでもない真似をした。武家の男に手をあげるなど、側女でなくても許されるものではない。
(さすがに、ぶたれるでは済まぬな。今度こそ手討ちもやむをえぬ。)
 秘かに温めてきた復讐の計画は、ここですべて水泡に帰したかもしれない。だが、それでもいい気がした。むしろ、それがいいのだとなぜか思った。
「ご無礼いたしました。……乱心でございまする。お許しありますまい。どうか、お手討ち下さい。」
「閨の戯れじゃ。」気に病まずともいい、といい捨て、新三郎は言葉を続ける。あやめに、いい聞かせる調子であった。
「十四郎が戦ったその村は、ひどい有様じゃったという。あの変わった顔かたちの蝦夷どもは皆殺しにあったも同然で、生き残って捕まり、奴婢にして貰えた者すらすくないという。そしてな、松前からやってきた武士は、ひとり残らず討ち死にしおったそうだ。十四郎も生き残らなかった。あいつは死におった。」
「そんなことはございませぬ。」
「あやめ……おぬしとて、納屋の力で調べたのであろう? 松前から来た武士の死骸を見た者もおる。あの赤蝦夷ども、ポモールとかいうが、その顔をした大将首が晒されたという話も聞こえたのじゃ。」
 新三郎は、蝦夷地に関心がないようでいて、蝦夷代官ではあった。手のものに情報を集めさせたのであろう。
「ポモールとかいうのは、御曹司さまと同じようなお顔つきの方々でございましょう? お首のみわけがつくものでございましょうか。」
 ようやく落ち着いたあやめは、笑みさえ浮かべている。新三郎はその無邪気にみえる表情にいたましいものを感じていた。
「よし何かの小細工があろうとも、十四郎が生きていれば、蝦夷代官のもとには、やがておぼろげな消息は伝わらざるを得ない。噂も影も、この一年有余、いっこうにない。松前から来た武家で、赤ひととか赤蝦夷とか呼ばれる、あの顔をした男の姿などあれ以来、たれも見ていないのだ。」
「蝦夷地は広うございます。わたくしは、あのお方が亡くなったなどとは思いませぬ。」
「あやめ! 死んでしまった者に操をたてずともよい、というておる!」
「でございますから、亡くなっておられませぬ。」
 新三郎は、まじまじとあやめの表情を見つめた。
「……ならば、それでよかろう。であっても、忘れよ。いまのように、昔の男を想いだして、おかしな風になるな。」
「心得ましてございます。大変ご無礼を申し上げました。もう二度と、あんなふうに騒いだりはいたしませぬので、お許しを下さい。ただ、……」
「なにか。」
 あやめは複雑な表情をしてみせた。
「おやかたさまも、お悪いのでございますよ。この堺を、あのようにまでなさるので……。はじめてでございます。あのように、大変なきわにまで追い込まれては……。わたくし、叫んだでございましょう?」
「あやめ、お前らしくもない。そのような見え透いた手練手管にこの儂が乗るか。」
 そういいながら、新三郎の表情に微妙な変化があるのを見逃さず、あやめは内心で舌を出してやりたい。なんの意味もないことだったが、ここはこの男にやり込められたままではいけない気がしていた。
「手練手管とはおむごい。本当のことを申しました。」
「左様か。……では、次はまたいま少し、花を大きく開かせてやろう。楽しみにしておれ。」
 あやめは演技ではなく息を呑んで、自分が赤面しているのを感じた。黙り込んで、ようやく、たしかに本心からの言葉がふと出た。
「それは、……怖うござります。」
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