えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
上 下
110 / 210

四の段 地獄の花  こころ(一)

しおりを挟む
 天正十二年が暮れていくなかで、あやめの心を掻き乱すことが立て続けにあった。

 松前納屋の主人と蝦夷代官の側女という二つの顔を持たされてから、もう二年になってしまう。あやめは、それに馴れるしかなかった。暴力に翻弄され打ちのめされた末に、心身ともにどん底に落ちた末、逆に前途にか細い希望の灯りを見つけていたが、十四郎との再会がかなった後ですら、それはなお、いかにも遠い。
 松前納屋はあやめのもので、利得を離れての蝦夷地の十四郎を助けるための出費は、女主人にとってはむしろ喜びだといえた。だが、それで複雑な性格を帯びてしまった店の経営は、ほんらい、あやめが理想とした合理的なものからはともすれば遠ざかったかもしれない。今井本店に助けを請わずに店をうまく回すためには、番頭や手代の助けこそあれ、絶えず気も張りつめておかねばならなかった。
 その忙しい合間を縫って、大舘からお呼びがかかる。不思議なほどに忙しさが一段落したときに限って、使いがやってきた。偶然ではなかろう。あやめは新三郎の監視が大舘にいないときの自分にもあるのを、それで意識した。
 違いなかったが、それで新三郎なりにあやめに気を遣っているつもりだとは、あやめには思いもよらない。
(お前の振る舞いなど、どこにいようとお見通しといいたいわけか?)

 新三郎との肉の交わりへの嫌悪は変わらない。ひとの目などは気にしてももう仕方がない、とあやめは思えるのだが、恋人の仇に躰を自由にされているという怒りと悲哀は消えず、理不尽な暴力を振るってきた男への恐怖と嫌悪が身を焼き続けていた。
 さらに、新三郎と床をともにする行為自体が、最初の頃とはまた違う意味で、だんだん恐ろしいものになっていた。
 新三郎が猛り狂い、打擲を加えたりする夜は減ったように思えるが、皮肉にもその分、あやめの心の底が冷えるようなおそれに襲われるのが増えた。新三郎はそれに気づいているのだろうか、と思うと、腹立たしさと恐れが同時に湧き上がる。
 つまり、あやめはこのところ、新三郎の肉体に馴染みはじめた自分を感じるのである。それに気づくと衝撃があり、つづいて、気が狂いそうな自己嫌悪の念に苦しめられる。
 その夜も、そうなった。あやめの心を掻き乱すできごとの一つは、そのために起きた。

 新三郎があやめを抱きすくめ、最後の動きに入ったとき、組み伏せられているあやめは息も絶え絶えになっていた。
 それまでに肌のすみずみにまでくわえられた無数の刺激で、全身が熱く、すべての水分が絞り出されたかと思えた。もう何も―新三郎を内心で罵る言葉すら―考えることはできず、男の筋肉の動きと体重だけを躰の内外に感じている。荒れ狂うものを、とめどようのない、やはり快感としかいいようのない感覚ともに受け止めるようになってしまった。そんな自分への嫌悪もなにも、もう吹き飛んでいた。
 なにかを待っている。自然に目を固く閉じ、やがて、戦慄とともに見開いた。そのときが来た。息が止まるようだった。そのままどこかに連れ去られる。
 戸惑うような、不思議がるような、小さな呻きが漏れた。
 それが、男にとっての合図となった。最後に力の限り抱きすくめた男にも、しがみついてくる女の小さな痙攣が伝わった。
 新三郎は、あやめが凍りつくように固まり、やがてその力が抜けていくまでの反応をおのれの身体の下に確かめて、満足した。
 ぐったりとしたあやめの、汗にまみれ、細かく震える頬を撫でた。少し膨れたような瞼の下にそよぐ長い睫毛の下から、火照りきった頬に、涙が流れている。新三郎は思わず、それを吸った。
 男の欲望が鎮まるとともに、躰の下の可憐な女の姿に、突きあがる感情がある。
「あやめ、……お前の花は、もう咲き始めているな。」
 新三郎からすれば自分が最初に襲いかかった頃、あやめの躰はまだ蕾のままも同然だった。中断もあったが二年にもわたる長い時間、出仕を強制されて自分と睦むうちに、女としての花がようやく開きはじめたのがわかる。
 あやめは齢のわりに経験に乏しく、娘でなくなってからも、未熟な若者を相手に手さぐりに睦みあうだけだった。細い躰は、その美しさに相応しい大きな花を開かせていなかった。それを、自分がようやくここまで持ってきたのだ。……そんな自足を新三郎は感じずにいられない。
(最初は、力づくで奪った。そのあとも、この哀れな女に何度も酷い仕打ちをした。おれは人でなしだ。憎まれて当然だ。)
 まだ息があがったままの女の顔の汗を掌で拭い、乱れてかかった髪を額から払ってやりながら、新三郎は子どものように泣き出しそうな思いに打たれる。
(だが、あやめよ、いまは快かったであろう? たとえ相手が憎いおれであっても、交わりの悦びだけは覚えたのではないか?……男である以上、おれにも女のことはわからぬが、現にお前は、美しくなった。この艶めいた肌よ。この菩薩のような表情よ。前よりも、ずっと綺麗だ。おれが、そうしてやったのではないか?)

「……花?」
 新三郎の呟きは耳に入っていた。あやめは薄く目を開けて、尋ねるでもなく自然に繰り返す。声がまだくぐもり、かすれている。
「女としての、花よ。まだ開ききってはおらぬが、これから盛りとなる。」
「左様でございますか。」
(なにをいいやがるか。なにが花かよ。いい気なものじゃ。)
 あやめは嗤う気持ちになった。それが表情に出てしまったのか、笑みが浮かぶ。新三郎はそれをみて、まったく勘違いをした。そうか、お前も喜んでおるのか、と唇を寄せる。それを受け止めてやり、唇と舌を交わしながら、たしかにあやめも自分の躰の変化に思うところがあった。
(この男の前に引き出されたときは、たしかに私の躰は、女としてまだ蕾がついたくらいであったのじゃろうな。酷い目に遭わされて、無理強いばかりじゃが、たしかに躰が変わってきたのかもしれぬ。わかる。花が開くといわれれば、そんな気もする。先ほどなどは、少し、雲を踏んだような……。)
 慣れてしまった唇が甘く感じられ、抱き締められる力が強くなると、あやめもつい抱き返してしまう。固い背中に抱きついていると、ついぞなかった安らぎを覚えてしまうのに気づき、当惑した。あさましい肉欲の塊であり、そもそも憎い仇ではないか。その男に……。
「もうお前は、堺のあやめではなく、この蝦夷島に咲くあやめよ。」
 柔らかい肌のぬくもりに、酔ったようになった新三郎が、らしくもない浮ついた言葉を吐いた。
 いつのまにか、濃い息をまた吐くようになっているあやめは、濁った頭のなかで、どこかで聞いたことがある言葉だ、と思った。
 それがなぜか、ひどくうれしく、快く響いてしまう。
(この男に、蕾から、花へ……か。)
 また陶然とした気分に近いものが躰の奥から湧き上がるのを、あやめは意識していた。男の重みが、快い。
(この男、……おやかたさまに、わたくしは花にされて、この地で咲く……。)
 そして、はっと気づいて、震えあがった。
(こわい!)

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】【勇者】の称号が無かった美少年は王宮を追放されたのでのんびり異世界を謳歌する

雪雪ノ雪
ファンタジー
ある日、突然学校にいた人全員が【勇者】として召喚された。 その召喚に巻き込まれた少年柊茜は、1人だけ【勇者】の称号がなかった。 代わりにあったのは【ラグナロク】という【固有exスキル】。 それを見た柊茜は 「あー....このスキルのせいで【勇者】の称号がなかったのかー。まぁ、ス・ラ・イ・厶・に【勇者】って称号とか合わないからなぁ…」 【勇者】の称号が無かった柊茜は、王宮を追放されてしまう。 追放されてしまった柊茜は、特に慌てる事もなくのんびり異世界を謳歌する..........たぶん….... 主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します

チャラ孫子―もし孫武さんがちょっとだけチャラ男だったら―

神光寺かをり
歴史・時代
チャラいインテリか。 陽キャのミリオタか。 中国・春秋時代。 歴史にその名を遺す偉大な兵法家・孫子こと孫武さんが、自らの兵法を軽ーくレクチャー! 風林火山って結局なんなの? 呉越同舟ってどういう意味? ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ「チャラ男」な孫武さんによる、 軽薄な現代語訳「孫子の兵法」です。 ※直訳ではなく、意訳な雰囲気でお送りいたしております。 ※この作品は、ノベルデイズ、pixiv小説で公開中の同名作に、修正加筆を施した物です。 ※この作品は、ノベルアップ+、小説家になろうでも公開しています。

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

維新竹取物語〜土方歳三とかぐや姫の物語〜

柳井梁
歴史・時代
月を見つめるお前は、まるでかぐや姫だな。 幼き歳三は、満月に照らされた女を見て呟いた。 会社勤めの東雲薫(しののめ かおる)は突如タイムスリップし幼い”歳三”と出会う。 暫らくの間土方家で世話になることになるが、穏やかな日々は長く続かなかった。 ある日川に流され意識を失うと、目の前に現れたのは大人の”歳三”で…!? 幕末を舞台に繰り広げられるタイムスリップ小説。 新選組だけでなく、長州や薩摩の人たちとも薫は交流を深めます。 歴史に疎い薫は武士の生き様を見て何を思い何を感じたのか、是非読んでいただければ幸いです。

奇説二天記

奇水
歴史・時代
播磨明石に在住する宮本伊織は、小笠原忠政の近習を勤める若き英才である。しかし彼には頭を悩ませる身内がいた。その人は宮本武蔵。恐れ多くも主君に斡旋されて彼の養父となってくれた高名な武士にして剣豪である。そして変人でもあった。 武蔵の奇矯な言動行動に日々悩まされている伊織であるが、あるときに敵討ちと養父を狙う女が訪ねてきて…。 その日から、宮本家の周辺には不穏な影が見え隠れするようになっていくのだが――

櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる
歴史・時代
新選組隊士・斎藤一の生涯を、自分なりにもぐもぐ咀嚼して書きたかったお話。 ※史実を基にしたフィクションです。実在の人物、団体、事件とは関わりありません。 ※敢えて時代考証を無視しているところが多数あります。 ※歴史小説、ではなく、オリジナルキャラを交えた歴史キャラ文芸小説です。  筆者の商業デビュー前に自サイトで連載していた同人作です。  色々思うところはありますが、今読み返しても普通に自分が好きだな、と思ったのでちまちま移行・連載していきます。  現在は1週間ごとくらいで更新していけたらと思っています(毎週土曜18:50更新)  めちゃくちゃ長い大河小説です。 ※カクヨム・小説家になろうでも連載しています。 ▼参考文献(敬称略/順不同) 『新選組展2022 図録』京都府京都文化博物館・福島県立博物館 『新撰組顛末記』著・永倉新八(新人物往来社) 『新人物往来社編 新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社) 『定本 新撰組史録』著・平尾道雄(新人物往来社) 『新選組流山顛末記』著・松下英治(新人物往来社) 『新選組戦場日記 永倉新八「浪士文久報国記事」を読む』著・木村幸比古(PHP研究所) 『新選組日記 永倉新八日記・島田魁日記を読む』著・木村幸比古(PHP研究所) 『新選組全史 天誅VS.志士狩りの幕末』著・木村幸比古(講談社) 『会津戦争全史』著・星亮一(講談社) 『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』著・星亮一(中央公論新社) 『新選組全隊士徹底ガイド』著・前田政記(河出書房新社) 『新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか』著・大野敏明(実業之日本社) 『孝明天皇と「一会桑」』著・家近良樹(文藝春秋) 『新訂 会津歴史年表』会津史学会 『幕末維新新選組』新選社 『週刊 真説歴史の道 2010年12/7号 土方歳三 蝦夷共和国への道』小学館 『週刊 真説歴史の道 2010年12/14号 松平容保 会津戦争と下北移封』小学館 『新選組組長 斎藤一』著・菊地明(PHP研究所) 『新選組副長助勤 斎藤一』著・赤間倭子(学習研究社) 『燃えよ剣』著・司馬遼太郎(新潮社) 『壬生義士伝』著・浅田次郎(文藝春秋)

葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。 謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。

飛翔英雄伝《三國志異聞奇譚》〜蒼天に誓う絆〜

銀星 慧
歴史・時代
約1800年前に描かれた、皆さんご存知『三國志』 新たな設定と創作キャラクターたちによって紡ぎ出す、全く新しい『三國志』が今始まります! 《あらすじ》 曹家の次女、麗蘭(れいらん)は、幼い頃から活発で勇敢な性格だった。 同じ年頃の少年、奉先(ほうせん)は、そんな麗蘭の従者であり護衛として育ち、麗蘭の右腕としていつも付き従っていた。 成長した二人は、近くの邑で大蛇が邑人を襲い、若い娘がその生贄として捧げられると言う話を知り、娘を助ける為に一計を謀るが… 『三國志』最大の悪役であり、裏切り者の呂布奉先。彼はなぜ「裏切り者」人生を歩む事になったのか?! その謎が、遂に明かされる…! ※こちらの作品は、「小説家になろう」で公開していた作品内容を、新たに編集して掲載しています。

処理中です...