えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段 なやみ さまざまな糸(五)

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 天正十二年の終わりも近づき、春は遠くない。といって、蝦夷島の冬はなかなか終わらない。
 この年、やや遅かった雪は、結局はまとめて降ったかのようである。
 大舘の、ことさらに京風めかした屋敷の庭で、あやめは武蔵丸を遊ばせている。あやめは雪駄を履いていた。
 父の仲間の利休が考案したとかいう雪駄は、あやめのお気に入りだった。だから店では使うが、大舘には持ってきたことがなかった。
 次男の幼童、武蔵丸と雪遊びをすることになっていたから、藁沓でもあるまいと思って、もってあがる荷物に初めて入れた。
 五つになる武蔵丸は、誰に似たのか、よく風邪をひいて寝込んだ。いよいよ腹がせり出してきたお方さまにうつしてはならないから、遠ざけられる。乳母はもちろんのことだが、あやめが見舞ってやることが増えた。

 武蔵丸は聡い子で、枕元であやめが草紙を読んでやると、おとなしく喜んで聴く。もっともっととせがむ。松前にはそれほどの子どもむけの草紙などない。あやめは知っている限りのおとぎ話を語ってやるが、それも尽きてきた。
 一度だけ、もちろん子どもとはいえそうとはいわないで、十四郎の書いてきた空想をお話のように喋ってやった。
 ……片隅で泣いていた病弱な男の子のところにいままで不思議に気づかなかった「一番下の姉上」が不意にやってきて、慰めて遊んでくれたけれど、「もう行かなくちゃいけないの。はやく大きくなってね。また会いましょうね。」と行ってまた不意に去ってしまう。探しても、松前の町のどこにもいない。親に聞いても兄姉たちにきいても、そんな子は知らないという。そういえば、お別れをしたとき、男の子の横の水辺に、美しい紫の花が咲いていたようでもある。
「一番下の姉上というのは、さあ、誰だったのでございましょうね。不思議、ふしぎ。」これでおわり、お眠りなさいませ、というつもりだったが、幼童はお方さまに似た目を開いて、
「たれなの。」
「それは、堺にもわかりませぬ。」花の化身だ、とは何か面はゆくていえない。「……でも、続きがございますよ。」
 あやめは、困ってしまったのが半分と、あとはなぜか誰かに聞かせたくて、話を継いだ。
「童は大きくおなりになって、御病気も我慢してお直しになり、お強い、見目麗しい、ご立派なお武家様になられました。」
「お父上のようにか。」
「……左様でございますね。若様の叔父さま……叔父さま方のようでもある。さて、大きくなった童のところに、一つか二つうえの姉女房がやってきました。そのひとを御婚礼ではじめてみて、お武家さまになった童は、びっくりなさいました。あの、“一番下のお姉さま”が大きくなった姿ではありませんか。お嫁さまも、旦那さまになられるお武家さまのお顔を初めて御覧になって、花が開くように微笑まれました。神さまが、夫婦になられるお二人を、うんと小さいときに、あらかじめ会わせてくださっていたのでしょうかね。不思議、ふしぎ。」
「お嫁さまだけがごぞんじだったのか。なぜ?」
「……さあ?」
「お嫁さまは、また花に戻ってしまうのか?」
「戻りますまい。」あやめはなぜか力を込めていう。「おふたりは、もう大人になられましたから、種種(くさぐさ)のつらきことから、花や鳥になって逃げだしたりはしないのでございます。それが、よきこともわろきことも避けられぬ、この世において、夫婦であること……いや、ひとが生きるとはそういうこと、……と、堺は存じまするよ。」
 熱のある子は、黙って聴いている。十四郎には少しも似ていない顔だが、本当はみたこともないかれの病弱だったという幼少期を連想して、あやめはなにか胸が詰まった。
 武蔵丸さまも、ちゃんとお眠りになって、早くお風邪を治さなければなりませぬ。熱が下がってお元気になられたら、雪遊びをいたしましょう。
「堺は、あたたかい国の生まれですから、これほどの雪はいまだに珍しく思えまする。ご一緒に、雪兎をお作りしましょう。」

 深すぎる雪のうえでは、雪駄はあまり役に立たなかったが、濡れ縁に雪を運んで、そこでおとなしく雪兎や団子をつくって遊んだ。武蔵丸とその若い乳母は、あやめが作る兎が兎にみえないといってはしゃぐ。
「やっておるな。」
 あやめと乳母は、飛びのくようにして平伏する。おやかたさまが、昼間にこんなところまでやってくるのは珍しい。体調の思わしくない、お方さまのご機嫌をうかがったのだろうか。
 あやめは面白くないが、まあここはこやつの家だ、と内心で舌打ちするだけで、もちろん顔には出さない。とはいうものの、気持ちの切り替えがうまくいかず、伏せた顔に笑みを浮かべるのも難渋する。
「堺、子守、大儀。」
「滅相もござりませぬ。」
「子守ではござりませぬ。堺といっしょにあそんでいたのです。」
 武蔵丸が抗議する。
「それを、子守というのじゃ。」
「おそれながら、若さまのおっしゃる通りかと。あそんでくださっております。」
「無理をせんでもよい。」
 新三郎はおおらかげに笑った。
(こやつも、これでひとの親。ひとの子をどれだけ踏みつけても、ひとの親。)
 あやめは妙な気持ちになる。
(あ、思い出させてくれたわ。この武蔵丸さまも、こやつの子ではないか。)
「そうでございます。堺は、武蔵丸のお嫁になってくれるのです。」
「なんじゃと?」
「堺のお方さまが、そういう、おとぎ話をなさったのです。」
 若い乳母がおろおろして、とりなすつもりでいう。
「堺のお方さまは、若さまの御看病、ご熱心になされて。」
 あやめは声を出して笑ってみせた。それ以上は、いって貰いたくない。
「若さま。おおきに、ありがとうございます。おやかたさまのお許しがあれば、いずれ、お嫁に参りましょう。」
 手の甲を唇にあてて笑いながら、ちらりと新三郎をうかがう。へんな顔をしていたが、やがて、子どものいうことはわけがわからんものだ、と納得したようだ。だが、
「堺よ。今より、お前の部屋に行く。武蔵丸と遊ぶのはここまでじゃ。」
 あやめは恥に打たれて、躰をぴくりとさせる。

「日が、まだ、高うございますが……」
「今夕、儂は忙しい。」
「え、堺はいってしまうの。まだ、もっと。」
 幼童が父親にせがむと、そこは父親の顔で、父と堺とは大事な話がある、御公務の(と、公式には無位無官の筈の新三郎はいった)ことだ、聞きわけよ、といった。乳母が武蔵丸を説き伏せ始めた。
 あやめは腹が立つやら恥ずかしいやら、そしてその感情は「堺の方」の身ではまったく正当化されないと気づいて情けなく、馬鹿馬鹿しくなるやらで、足高に廊下の板を踏む。
 武蔵丸にやさしい別れの挨拶をしてやらなかったことに気づき、振りかえると、新三郎が後ろに立っていた。
「寒いの。湯殿に風呂を焚かせるか。」
「結構でございます。」
 それだけは勘弁してもらいたい。雨と雪では景色も違うが、時刻は、あの日に近い。
(あれだけは、どんなに忘れようとしても、できぬ。思い出すと、消えてしまいたくなる。)
(いまも、あの無理強いの手籠めの、長い長い続きじゃ。あれ以来、何度こやつに穢されねばならなかったか?)
「先に部屋で準備をさせますので、どうかお待ちくださいませ。」
 部屋の前まで来たところで、なにか妙にぴったりとついてくるおやかたさまに異様なものを感じながら、あやめがまた振りかえると、新三郎は無言であやめを後ろから羽交って抱き寄せ、その姿勢のままで、戸をからからと開けた。
 部屋のなかには、すずめが座って、命じられた片づけをしていた。突如、もつれあうようなあらぬ姿で現れた主人たちに、驚愕して低頭も忘れている。
「すずめ、出よ。別の間で控えておりなさい。」
 抗いながら、あやめが自由になる片手であっちに行け、と指図すると、新三郎が耳を疑うことをいった。
「すずめか。お前の名は、すずめか。」
「はい、はいっ。」
「すずめなら、庭におるのもしかたがない。そこの濡れ縁で控えて、見ておれ。」
(この外道が!)
 あやめは頭に血が上った。
「よい! 下がれといった! わからんのか?」わかってくれ、と思った。
「命じたぞ。すずめ? そこにおれ。堺の方さまを、見てやれ。」
「厭でございますっ。子どもになにをいわれるのか? 悪いお戯れだっ。」
あ やめの口を、新三郎の口が強引に塞いだ。すずめが、驚愕の悲鳴を上げるのが聞こえる。
(逃げてくれ。立ち去ってくれ、すずめ!)
(そこまでの恥辱はうけたくない。あさましい様子を、お前のような子にまでみせたくはないのだ。逃げて、逃げてくれっ。)
「去れ! すずめ、頼む! 後生だっ!」
 一瞬口が離れたとき、あやめは叫んだ。思い出して、アイノの言葉でも叫ぶ。
「コイツハ悪イしあむダ!」
「はいっ!」
 新三郎もなにかいったが、すずめは勢いよく一礼すると、繕い物かなにをかかえて、駆け去った。



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