えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段  なやみ  さまざまな糸(二)

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(また、姉上、ですって。)
 あやめはへんな顔になったが、読み進めるうちに、表情がほころんでいく。

「いつも姉上は、お店の土間であたりを楽しそうに眺めていらっしゃったかと思うと、急に飛び出して行ってしまわれる。二つ下で、乾分にできるのはわたくしだけだ。むずかる、小さなわたくしの手を、ご自分もまだ小さなお手で引いて、駈け出される。
 湊へ行こう。お船が入るのを見にいこう。あなたは元気に、堺の町の恐ろしいほどの人混みのなかを、何の苦労もなしにいかれました、わたくしはあなたの手につかまって、追いかけるだけでした。
 賑やかな湊で、あなたは大きなお船に手をふられました。そしてわたしに、色々おしえてくださる。あれが南蛮船の帆。南蛮船は堺のお船とも明の船とも形が違う。それは父上があなたに教えて下さったことなのでしょう。
 病で寝てばかりいるわたくしは、あなたのように父上に町に連れて行っていただくことはなかった。姉上はえらいな、と子ども心に感心するばかりでした。
 ほら、お前とよく似た顔の南蛮の方もいる。あの御帽子はきれいだね、お前にはあの帽子が似合うだろう。いつか買ってやろう。わたしがお店をもてたら、とおっしゃる。
 ここからは見えない北の海のむこうに、大きな蝦夷島がある。そこにお店をおまかせいただくの。お前もつれていってやりましょう、とあなたはいって下さる。ところがおさない私は首をふりましたね。大好きな金平糖のないところは厭だと。
 甘いものなど飴でも金平糖でもいくらでも買ってやりましょう、とあなたは笑う。わたしがずっといるのだから、心配しなくていい。
 でも姉上は、お商売ならお船で行き来されるのでしょう、とわたしは、蝦夷島とやらにひとり取り残される日があるのだと思っただけで、心細くて泣いてしまった。
 仕方がない、仕方がないねえ。小さな姉上はお考えになってくれた。そうだ、わたしがお前のお嫁さんになってあげる。それならずっと一緒にいられるでしょう。
 ああ、姉上はわたしが蝦夷島とやらのお店の二階で床に臥せていても、お嫁さんになって一緒にいてくださるというのだな。ちいさなわたしは、うれしくて仕方がありませんでした。姉上とずっといられる。ならば蝦夷島だろうとどこだろうといい。それではじめて、お船にむかって手を振りました。」
 
(甘えた(甘えん坊)。なんという、甘えたか。十四郎さまは、いまも根はこうなのかしら。)
(こんな風な堺の日々があったならば……いや、これがまことであったかのような気がする。)
「いうては悪いですが、末の御寮人さまはもっと、口がきけないのかと思うくらいに静かすぎるお子でしたよ。御曹司さまは、いまの御寮人さましかご存じないから、そんな面白い女の子をご想像になるのでございましょう。」
「わたくしは、そんなに面白いかえ?」
「いや、ま、随分お変わりになられた。ご帳簿を覚えられてから……ではないな。お店のお仕事をなさるようになってからでしょうか。こちらに来られてからは、なかなかいいづらいが、さらに面白い。」
「また、面白い、というたな。……そうよ、わたくしははっさい(おしゃべり)で気が強いし、頭でっかちの世間知らず、好きな男ができれば、寝ても覚めてもそれしか頭にない阿呆よ。コハルのような世間通には面白かろう。そうなったのだから、仕方がないわ。」
「そうはいうておりませんよ。」
「人を好きになる力が育ったのじゃ。」
「……」
「昔の口をきかぬ童もわたくしであろうが、それは蛹であった。蛹を割って、蝶々が出てきたのが、今のわたくしと思えばよろし。」
「棉の花のようにきれいな白い蝶々でございますか。」
あやめはふふ、と笑う。
別の手紙では、逆に、松前の小さな姉弟が空想されていた。

「烏顔と奇妙な色の髪を、ひとにはよく笑われていました。たしかに桶に汲んだ水に映るわたくしの顔は、大舘のたれにも、それどころか松前のたれにも似ていない。
 北のお方さま(季広正室)が母上だと思っていましたが、そしてそれはそうなのですが、どうも違うらしい。北のお方さまは、奇妙な色の髪には墨を塗ればとおっしゃってくださった。けれども、瞳の色はどうしましょうか。鼻の先は削りましょうか。そう訊ねると、お方さまは困って、怒ってしまわれた。お前のような子が産まれてきたのは、家門の恥とおっしゃったようだ。
 ある日、たくさんいらっしゃる姉上のなかで、わたくしがそれまでどうしてか気づかなかった一番下の姉上だけが、わたしが泣いている片隅にいらっしゃって、ほら、立ちなさい、と手を伸ばしてくださった。そして、わたくしとあそんでくださるようになりましたね。
 そうだ、あなた様だ。あれは、あなた様だったのでしょう。
 あなただけが、お前の顔は不思議ではないといってくださった。お前の瞳はきれいな玉のようだし、お前の肌はほんとうに白い。お前の髪は染物のようなよい色ではないか、といってくださった。
でも、川面に並んで顔を映すと、小さなあなた様のお綺麗なお顔に並んで、やはり不思議に不細工な子どもの顔がある。
 嘘ではないよ、わたしはお前のお顔が好きだよ、と姉上はいってくださった。
早く大きくおなり、憂いことは背が高くなれば消えるかもしれないよ。そうしたら、またわたくしたちは会おう。そして、また楽しく遊ぼう。
 どういうことか、もう行ってしまうのか、とわたしはさびしくて泣いた。
 姉上はいわれた。また会えるよ。わたくしが雪の上で転んだら、手を貸して起こしておくれ。寒い日には毛皮を持って来ておくれ。きっと小さいお前も、それくらいはできるようになっているよ。それまで、もう少しお待ち。
 そして、一番下の姉上はいなくなってしまわれた。兄弟姉妹に聞いても、不思議なことに、そんな子は知らないよという。
 もしかしたら、あなたが消えてしまったそのとき、わたしがあなたの姿を探している水辺に、紫の薫り高い花がさいていたかもしれない。それはおぼえていないが、わたしはあやめの花が大好きになった。
 そして、何年まてばよかったか。それほど待たなくてもよかったのです。
 たしかに、あなたのいわれるとおりでしたね。」

(おさびしかったのじゃ。おつらい子どもだったのじゃ。よく育って、わたくしに出会って下さった。)

「男は心妻を得てやすらぐと、不思議に子どものおりの頃を思い出すのですね。御身に出会えて、わたくしは生まれてはじめての心の安らぎを得た。だから、昔のことなど思い返せるのでしょう。お礼のことばが尽きません。」

「お礼は、わたくしが、……わたくしが申したい。」
あやめは泣いた。
「しかし、御寮人さま。」
 コハルは目がちくちくと痛むのを感じながら、わざといってみる。
「御曹司さまは、納屋の御寮人さまにとっては、生涯の疫病神だったかもしれませぬよ。いよいよ崖を滑り降りなさる、今ならばこそ、それをお考えあれ。」
「コハル、わたくしになにを教えてくりょうというのかはわからぬが、もうそんなことはいわなくてよい。わたくし も聞けぬ。」
あやめの涙はとまらない。
「疫病神でよい。疫病神でもなんでもよい。……会いたい。会って、お話がしたい。」
「もう、……もうこうやって、文でお話しされておりますよ。」
 あやめはそれには答えず、無言ですすり泣いている。コハルはそっとその場を立ち去った。
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