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三の段 なやみ さまざまな糸(一)
しおりを挟むあやめはいうまでもなく、二重の城壁らしきものをもつこの丘城の、政庁としての部分も、京風の武家屋敷を模した居住部も大嫌いであった。もちろん、あの湯殿などは、その外見をちらりとみただけで怖気が走り、気分が悪くなった。
せせこましい「奥」にある、自分の居室にあてがわれている陰気な部屋にも、できるだけ、長居はしたくない。すずめに手習いの真似ごとなどしてやったり、逆にアイノ語の単語を増やす相手をさせるとき以外は、退屈で、陰鬱な気分に沈みがちだ。
御用がないと見計らえば、さっさと店に戻ってしまう。そのまま、お呼びがかからない限りは、絶対に町を見下ろす城館には足を向けない。
この時期、まだ日の長いころ、新三郎が征旅に出ることが多く、あやめは助かる気がする。(お戻りがあれば、陽が落ちてからも大舘に行かなければならない日もあり、そんなときのあやめは、あの血なまぐさい夜を思い出して、足が重い。)
それなのに最近の大舘には、あやめを呼びつける者が増えた。
ときどき茶を飲む、隠居の彦九郎季広老人があやめを呼ぶのが増えたのは、内心で好都合だと思う。しかも、かれの様子をうかがうと、あやめ自身の「図」の通りで、空恐しさすら感じることがある。
蠣崎彦九郎季広は、当代の新三郎による上ノ国討伐とさらに進む東への侵攻に、衝撃を受けていた。
(さもあらぬ。この御老体の生涯の事業は、これでご破算にされたも同然。)
我慢強いこの老人は、当代のやり方に口を出さないできたが、先代の自分がようやくまとめた和平と共存の誓いを破り、多くのアイノを討った息子に、内心で怒りを覚えているらしかった。
老人が探りを入れたいのは、背後であやめの―というより、納屋今井の使嗾があってのことか、という点であろう。堺商人の儲け口のために、蝦夷島の秩序を改変しようとしているのか、という疑いである。結果的に、あたかもそうなりつつあるようにみえるから、無理もない。
「納屋の御寮人、此度(こたび)のこと、おやかたに助言あったか?」
あやめは、畏れ多いことにございます、とだけいって、要はきっぱりと否定してみせた。その言葉よりも態度よりも、また閨で無意味に打擲され、腫れあがっていたあやめの頬こそが説得的に、老人の疑いを溶かしてしまった。
蠣崎彦太郎季広の耳にも、当然、この若い女に対してだけは、息子がどれほど物狂いになるのかは入ってきている。久しぶりに間近であってみれば、それがあやめをどれほど痛めつけているのかが、別に目の下が青黒くなっていなくとも、年寄りにはわかるような気がした。
(哀れな……。)
(悔いても詮無いが、十四郎があのようなことにならなければ、この富家の娘が、閨で男にいいようにされ、殴られるなどということはなかっただろう。こうもやせ細ることもなかったであろう。)
(堺に逃げ帰らなかったのは、まだ、あれの赦免を期待しておるのだろうか。だが、それも、十四郎が生きていての話。どうやら、母親の故地の村で死んだ。)
(詮無いのぞみにすがっておる。蠣崎の兄弟たちのせいで……)
せめて年寄りがやさしくしてやらねばなるまい、と季広は心に決めている。
(気味悪がることなど、何もない。運の悪い、哀れな娘ではないか。)
また、あれ以来、お方さまはあやめを召す。
それほどの回数でもなく、会うたびに腹が大きくなっている気がする。必ず、親離れの済んでいない幼童をかたわらにしているが、この武蔵丸が、あやめになぜか、ひどくなついた。
「きっとおさびしいのでしょう。」
ひとしきり相手をしてやったあと、疲れて寝てしまった武蔵丸の寝顔を自分の膝の上にみながら、あやめはいった。
「武蔵丸さまは、お聡いのでしょう。母君のお腹のお子がお気におなりなのでしょう。」
「そちは、昔から子どもと遊ぶのがうまいのかえ。」
「いえ? 実家で兄たちの子と遊んでやったことなどありませぬな。」
「弟でもいたか。」
「いえ。わたくしは末っ子にございますが。……店に子どもはおりますが、ここまで小さくはござらぬ。」
「助かった。礼を申す。武蔵丸はおとなしい子じゃが、この齢の男の子は、やはり……」
この者だけでは足りぬので、と乳母の女に目をやり、その者ともどもお方さまが急にゆるゆると点頭したので、あやめは慌てた。
「お体をおいたわりくださいませ。武蔵丸さまのお相手はいつでもお申し付けください。よろしければ、店よりお菓子など持って参りましょう。」
乳母もいるのに、武蔵丸のお守りをすることが増えてしまった。
(ああ、近ごろ、子どもの頃のことを考えるのが増えたからかな。)
大人の女の中の、子どもの部分が表面化して、それが子どもを惹きつけるのかもしれぬ。
(とすれば、十四郎さま、あなた様のせいですよ。)
あやめは内心で少し浮き立つ気分で、十四郎に書き送る返事の手紙の材料ができた、と思った。
幸い、またヨイチを通じて、手紙の往来の糸が繋がっている。あやめが送った返事の手紙と、様々なものは、十四郎の手にきちんと落ちた。それへの礼状と、また大量の書状がひそかに届けられた。
(十四郎さま、ご無事。)
あやめにはまずそれが、腰が抜けるほどの安堵をもたらして、うれしい。
十四郎の手紙も、あやめの眉を顰めさせるような苛烈な内容ではない。あいかわらずだった。
他愛もない思い出話や、歌心があれば和歌にしていてしかるべき―十四郎には情操を定型に入れる才能は乏しいようだった―あやめへの恋慕をつづったものが大半である。
くわえてあやめを喜ばせたのは、ありもしなかった、ふたりの子どもの頃の出会いを空想して書いたものだ。いまの言葉に直してしまえば、稚拙な童話のようになってしまう程度のものだが、長々と書いてあった。
それを読んで、コハルなどはその意味がわかった。
(よほどお苦しかったか、十四郎さまの戦は。)
十四郎の戦略的な意図とでもいうものを、コハルは―森川も相変わらず武士のままで、十四郎に宿将然として付き従っているために―ほぼ掴んでいた。それはあやめにも伝えている。
まだ、成し遂げられていない。この時期、十四郎の企ては停滞していた。
あやめの「図」はいくつもの糸を織ってひとつの反物を織ろうとするもので、それらの糸のそれぞれの張り具合に違いがあるときは、筬を動かせない。すべての糸がぴんと張ったとき、織り子の手が動く。その時を見極める必要があるのだが、十四郎の蝦夷地での戦いは、もちろん、最も重要な糸の一本だった。
(御曹司さまは、危うくも生き残れはした。足場も築いた。が、峠はまだ越えねばならぬのだな。)
あやめを喜ばせた埒もない空想譚は、眼前に迫っている死を払いのけながら、転戦の野営か、ひょっとすると敗走の途次に書かれたものに違いなかった。
「姉上が六つ、わたくしが四つでしたでしょうか。」
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