えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
上 下
103 / 210

三の段 なやみ  さまざまな糸(一)

しおりを挟む

 あやめはいうまでもなく、二重の城壁らしきものをもつこの丘城の、政庁としての部分も、京風の武家屋敷を模した居住部も大嫌いであった。もちろん、あの湯殿などは、その外見をちらりとみただけで怖気が走り、気分が悪くなった。
 せせこましい「奥」にある、自分の居室にあてがわれている陰気な部屋にも、できるだけ、長居はしたくない。すずめに手習いの真似ごとなどしてやったり、逆にアイノ語の単語を増やす相手をさせるとき以外は、退屈で、陰鬱な気分に沈みがちだ。
 御用がないと見計らえば、さっさと店に戻ってしまう。そのまま、お呼びがかからない限りは、絶対に町を見下ろす城館には足を向けない。
 この時期、まだ日の長いころ、新三郎が征旅に出ることが多く、あやめは助かる気がする。(お戻りがあれば、陽が落ちてからも大舘に行かなければならない日もあり、そんなときのあやめは、あの血なまぐさい夜を思い出して、足が重い。)
 それなのに最近の大舘には、あやめを呼びつける者が増えた。

 ときどき茶を飲む、隠居の彦九郎季広老人があやめを呼ぶのが増えたのは、内心で好都合だと思う。しかも、かれの様子をうかがうと、あやめ自身の「図」の通りで、空恐しさすら感じることがある。
 蠣崎彦九郎季広は、当代の新三郎による上ノ国討伐とさらに進む東への侵攻に、衝撃を受けていた。
(さもあらぬ。この御老体の生涯の事業は、これでご破算にされたも同然。)
 我慢強いこの老人は、当代のやり方に口を出さないできたが、先代の自分がようやくまとめた和平と共存の誓いを破り、多くのアイノを討った息子に、内心で怒りを覚えているらしかった。
 老人が探りを入れたいのは、背後であやめの―というより、納屋今井の使嗾があってのことか、という点であろう。堺商人の儲け口のために、蝦夷島の秩序を改変しようとしているのか、という疑いである。結果的に、あたかもそうなりつつあるようにみえるから、無理もない。
「納屋の御寮人、此度(こたび)のこと、おやかたに助言あったか?」
 あやめは、畏れ多いことにございます、とだけいって、要はきっぱりと否定してみせた。その言葉よりも態度よりも、また閨で無意味に打擲され、腫れあがっていたあやめの頬こそが説得的に、老人の疑いを溶かしてしまった。

 蠣崎彦太郎季広の耳にも、当然、この若い女に対してだけは、息子がどれほど物狂いになるのかは入ってきている。久しぶりに間近であってみれば、それがあやめをどれほど痛めつけているのかが、別に目の下が青黒くなっていなくとも、年寄りにはわかるような気がした。
(哀れな……。)
(悔いても詮無いが、十四郎があのようなことにならなければ、この富家の娘が、閨で男にいいようにされ、殴られるなどということはなかっただろう。こうもやせ細ることもなかったであろう。)
(堺に逃げ帰らなかったのは、まだ、あれの赦免を期待しておるのだろうか。だが、それも、十四郎が生きていての話。どうやら、母親の故地の村で死んだ。)
(詮無いのぞみにすがっておる。蠣崎の兄弟たちのせいで……)
せめて年寄りがやさしくしてやらねばなるまい、と季広は心に決めている。
(気味悪がることなど、何もない。運の悪い、哀れな娘ではないか。)

 また、あれ以来、お方さまはあやめを召す。
 それほどの回数でもなく、会うたびに腹が大きくなっている気がする。必ず、親離れの済んでいない幼童をかたわらにしているが、この武蔵丸が、あやめになぜか、ひどくなついた。
「きっとおさびしいのでしょう。」
 ひとしきり相手をしてやったあと、疲れて寝てしまった武蔵丸の寝顔を自分の膝の上にみながら、あやめはいった。
「武蔵丸さまは、お聡いのでしょう。母君のお腹のお子がお気におなりなのでしょう。」
「そちは、昔から子どもと遊ぶのがうまいのかえ。」
「いえ? 実家で兄たちの子と遊んでやったことなどありませぬな。」
「弟でもいたか。」
「いえ。わたくしは末っ子にございますが。……店に子どもはおりますが、ここまで小さくはござらぬ。」
「助かった。礼を申す。武蔵丸はおとなしい子じゃが、この齢の男の子は、やはり……」
 この者だけでは足りぬので、と乳母の女に目をやり、その者ともどもお方さまが急にゆるゆると点頭したので、あやめは慌てた。
「お体をおいたわりくださいませ。武蔵丸さまのお相手はいつでもお申し付けください。よろしければ、店よりお菓子など持って参りましょう。」
 乳母もいるのに、武蔵丸のお守りをすることが増えてしまった。
(ああ、近ごろ、子どもの頃のことを考えるのが増えたからかな。)
大人の女の中の、子どもの部分が表面化して、それが子どもを惹きつけるのかもしれぬ。
(とすれば、十四郎さま、あなた様のせいですよ。)
あやめは内心で少し浮き立つ気分で、十四郎に書き送る返事の手紙の材料ができた、と思った。

 幸い、またヨイチを通じて、手紙の往来の糸が繋がっている。あやめが送った返事の手紙と、様々なものは、十四郎の手にきちんと落ちた。それへの礼状と、また大量の書状がひそかに届けられた。
(十四郎さま、ご無事。)
 あやめにはまずそれが、腰が抜けるほどの安堵をもたらして、うれしい。
 十四郎の手紙も、あやめの眉を顰めさせるような苛烈な内容ではない。あいかわらずだった。
 他愛もない思い出話や、歌心があれば和歌にしていてしかるべき―十四郎には情操を定型に入れる才能は乏しいようだった―あやめへの恋慕をつづったものが大半である。

 くわえてあやめを喜ばせたのは、ありもしなかった、ふたりの子どもの頃の出会いを空想して書いたものだ。いまの言葉に直してしまえば、稚拙な童話のようになってしまう程度のものだが、長々と書いてあった。
 それを読んで、コハルなどはその意味がわかった。
(よほどお苦しかったか、十四郎さまの戦は。)
 
 十四郎の戦略的な意図とでもいうものを、コハルは―森川も相変わらず武士のままで、十四郎に宿将然として付き従っているために―ほぼ掴んでいた。それはあやめにも伝えている。
まだ、成し遂げられていない。この時期、十四郎の企ては停滞していた。
 あやめの「図」はいくつもの糸を織ってひとつの反物を織ろうとするもので、それらの糸のそれぞれの張り具合に違いがあるときは、筬を動かせない。すべての糸がぴんと張ったとき、織り子の手が動く。その時を見極める必要があるのだが、十四郎の蝦夷地での戦いは、もちろん、最も重要な糸の一本だった。
(御曹司さまは、危うくも生き残れはした。足場も築いた。が、峠はまだ越えねばならぬのだな。)
 
 あやめを喜ばせた埒もない空想譚は、眼前に迫っている死を払いのけながら、転戦の野営か、ひょっとすると敗走の途次に書かれたものに違いなかった。

「姉上が六つ、わたくしが四つでしたでしょうか。」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

異・雨月

筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。 <本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています> ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。 ※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。

【完結】月よりきれい

悠井すみれ
歴史・時代
 職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。  清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。  純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。 嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。 第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。 表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり

もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。 海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。 無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳

勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません) 南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。 表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。 2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

処理中です...