えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
上 下
102 / 210

三の段 なやみ  新三郎(三)

しおりを挟む
 あやめは鼻血だけを拭くと、さすがに考えて、引きちぎられた寝衣を羽織り、辞儀をただした。
「いよいよ、来たる天下様のご軍役にお備えをお始めの時が参りました。」
 叙位任官という形で中央権力の笠の下に入るのならば、秀吉なら秀吉が求めるであろう軍役に応じる用意がなければならない。つまり、莫大な出費に備え、大名相応の経済力が要る。それはどうするか、がこれからの課題である、といった。
「知っておる。だからこそ、上ノ国をとった。とりかえしたのだ。そもそも」
「畏れながら、そこで年貢をおとりたてになりますか。」
 蝦夷島では米がとれない。年貢をとりたてるべき百姓農民がいないのである。
「決まっておろう。湊みなとで運上銭を絞ってやるわ。」
「それで、膨れ上がるはずのご家中をお養いになる。お大名になられるのに、今までと同じように、なさる。」
「できぬというのか。」
「さて?」
「運上金は、我らの長年の生計の資ぞ。」
「おやめになられよ、とは申しませぬ。ただ、ここまで広げられたご領地の全ての湊から運上のお金をとり、またそれをこの松前にお集めになるには、手間と時がかかりますなあ?」
「どうせよと……待て、少し思案させよ。」
 あやめは待ってやる。

「家中の主だった者に、知行地を与えてやる。蝦夷の村むらが知行地がわりじゃ。そこで、商売をさせよう。アイノから買った鮭や昆布を売るがよい。松前でそれをまとめてやるが、その儲けを以て家録に代えてやる。個々が励めば、家禄も増える。やり方次第じゃ。……あやめ、これでどうか?」
(やはり、おそろしいことを自力で考えつきおったわ。)
 あやめは微笑みながら、わきの下に冷たい汗が流れる思いになった。
(お侍一人ひとりがアイノの村に張り付き、”商売“をするだと。そこにまともな商いはなくなる。それは年貢がわりだ。アイノは絞られずにはいられまい。)
(だが、もっとおそろしいことを吹き込んでやるのだ。)
「先ほど、堺に欲しいものはとお尋ねくださいました。よろしいでしょうか?」
「なんじゃ、急に。今の儂の考えと関わりあるのか?」
「おやかたさまのお考えを拝聴し、手前も思いつきましてござります。知行地にご家中をご派遣、まことに名案。これに際しては、是非、われら松前商人をお付け下さい。お供いたしましょう。」
「知っての通り、我ら蠣崎家は若狭源氏の出なるも、渡党と称して商いにも心得があった。蠣崎侍は、西国、上方や東国の侍とは違い、多少の商売はこなす。」
「存じ奉っております。」
「だが、褒美、とはいった。……納屋の者どもを付けさせよう。」
「まことにおそれながら、それはあまりにも身にあまりまする。」そんな汚れ仕事を納屋がひとり負うなど真っ平御免だ、といいたい。「ぜひ、両岸どの(近江出身商人たち)を交え、松前の日本商人一同のお仕事として、お申し付けくださいませ。」
「あやめ、おぬしの魂胆みえたぞ。蝦夷商人どもを潰してしまうつもりになったか?」
知行地の代わりになる村むらには蠣崎侍と和人商人が赴き、商品を根こそぎ抑えてしまおうというのである。それを松前にまず送ってしまう。運送を主にするといえる、現地の蝦夷商人の小商いは入る余地がなくなるであろう。
(アイノは思うがまま絞りに絞られる。商売、取引という理が消えれば、そこには騙し合いと奪い合いしかない。結局、力を持つ者だけが全て奪う。むごいことばかりになろう。)
「よいのか。」
「松前のお土地で、日本商人同士、抜け駆けはいけませぬ。恨まれても困りますれば。」
「そうではない。蝦夷商人を潰すということは。それら蝦夷―アイノどもの生業を奪うことになるが?」
「……。」
 わかっている。そもそも、よほどの大商人を除けば、蝦夷商人は専業の商人といえるかどうかわからぬ者も多い。漁師や猟師が自分の獲物を運んでくることすらある。そうした者たちの稼ぎは吹き飛ぶことになろう。
「おぬしなどは、それでよいのか。」
 お前はアイノ贔屓の十四郎の女だったではないか、というのであろう。
「……気の毒ですが、やむを得ますまい。どうせ長続きはせぬのでござります。」こんな無茶な政道は、とあやめは思った。アイノは木偶人形ではない。必ず、烈しい抵抗を受ける。
 むしろ、あやめは、そればかりを願っている。
「なに?」
「……蝦夷商人は利に疎い。こうして蝦夷島に手前どものような商人が本気で入っていけば、いずれは消えざるをえないのでございます。長続きはできぬ。」
 新三郎は、意外に思ったらしい。あやめが、アイノたちに対してこうも冷ややかな視線を向けていたとは、思いもよらなかった。
(やはりこれも、上方の女。十四郎ですら、心根は変えられなかったか。)
(おれたちとは、違う……。)
 新三郎はあらためて目の前にそれを突き付けられた気がしたが、
「まことに、おぬしらの強欲は目に余る。」
 と口にすると、気が晴れた。
「これからは、儂が余所者の強欲を取り締まり、秩序というものを与えよう。」
 蠣崎家による交易の一元的管理、というものだろう。

(余所者か。わたくしも、たしかにさようじゃな。)
「あやめ、いま、つまらない顔をしたな?」
 新三郎は、あやめの表情が曇ったのに気づいたらしい。
「滅相もございませぬが、……蝦夷島にわたってもう何年にもなりまする。」
「おぬしが、か。さよう、蠣崎の家に入っても二年か。」
 あやめはそれは無視したが、ここはつい本音を口にする。
「じゃが、蝦夷島のひとにはなれぬ。いつまでも余所者というも、なにやら悲しうございますな。」
「悲しいか?」
 血の匂いをふりまきながら、蠣崎新三郎は笑った。かれ自身、興奮でまだ気がついていない手傷を、身体の何処かに負っているのかもしれない。
 

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

赤松一族の謎

桜小径
歴史・時代
播磨、備前、美作、摂津にまたがる王国とも言うべき支配権をもった足利幕府の立役者。赤松氏とはどういう存在だったのか?

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

処理中です...