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三の段 なやみ 新三郎(三)
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あやめは鼻血だけを拭くと、さすがに考えて、引きちぎられた寝衣を羽織り、辞儀をただした。
「いよいよ、来たる天下様のご軍役にお備えをお始めの時が参りました。」
叙位任官という形で中央権力の笠の下に入るのならば、秀吉なら秀吉が求めるであろう軍役に応じる用意がなければならない。つまり、莫大な出費に備え、大名相応の経済力が要る。それはどうするか、がこれからの課題である、といった。
「知っておる。だからこそ、上ノ国をとった。とりかえしたのだ。そもそも」
「畏れながら、そこで年貢をおとりたてになりますか。」
蝦夷島では米がとれない。年貢をとりたてるべき百姓農民がいないのである。
「決まっておろう。湊みなとで運上銭を絞ってやるわ。」
「それで、膨れ上がるはずのご家中をお養いになる。お大名になられるのに、今までと同じように、なさる。」
「できぬというのか。」
「さて?」
「運上金は、我らの長年の生計の資ぞ。」
「おやめになられよ、とは申しませぬ。ただ、ここまで広げられたご領地の全ての湊から運上のお金をとり、またそれをこの松前にお集めになるには、手間と時がかかりますなあ?」
「どうせよと……待て、少し思案させよ。」
あやめは待ってやる。
「家中の主だった者に、知行地を与えてやる。蝦夷の村むらが知行地がわりじゃ。そこで、商売をさせよう。アイノから買った鮭や昆布を売るがよい。松前でそれをまとめてやるが、その儲けを以て家録に代えてやる。個々が励めば、家禄も増える。やり方次第じゃ。……あやめ、これでどうか?」
(やはり、おそろしいことを自力で考えつきおったわ。)
あやめは微笑みながら、わきの下に冷たい汗が流れる思いになった。
(お侍一人ひとりがアイノの村に張り付き、”商売“をするだと。そこにまともな商いはなくなる。それは年貢がわりだ。アイノは絞られずにはいられまい。)
(だが、もっとおそろしいことを吹き込んでやるのだ。)
「先ほど、堺に欲しいものはとお尋ねくださいました。よろしいでしょうか?」
「なんじゃ、急に。今の儂の考えと関わりあるのか?」
「おやかたさまのお考えを拝聴し、手前も思いつきましてござります。知行地にご家中をご派遣、まことに名案。これに際しては、是非、われら松前商人をお付け下さい。お供いたしましょう。」
「知っての通り、我ら蠣崎家は若狭源氏の出なるも、渡党と称して商いにも心得があった。蠣崎侍は、西国、上方や東国の侍とは違い、多少の商売はこなす。」
「存じ奉っております。」
「だが、褒美、とはいった。……納屋の者どもを付けさせよう。」
「まことにおそれながら、それはあまりにも身にあまりまする。」そんな汚れ仕事を納屋がひとり負うなど真っ平御免だ、といいたい。「ぜひ、両岸どの(近江出身商人たち)を交え、松前の日本商人一同のお仕事として、お申し付けくださいませ。」
「あやめ、おぬしの魂胆みえたぞ。蝦夷商人どもを潰してしまうつもりになったか?」
知行地の代わりになる村むらには蠣崎侍と和人商人が赴き、商品を根こそぎ抑えてしまおうというのである。それを松前にまず送ってしまう。運送を主にするといえる、現地の蝦夷商人の小商いは入る余地がなくなるであろう。
(アイノは思うがまま絞りに絞られる。商売、取引という理が消えれば、そこには騙し合いと奪い合いしかない。結局、力を持つ者だけが全て奪う。むごいことばかりになろう。)
「よいのか。」
「松前のお土地で、日本商人同士、抜け駆けはいけませぬ。恨まれても困りますれば。」
「そうではない。蝦夷商人を潰すということは。それら蝦夷―アイノどもの生業を奪うことになるが?」
「……。」
わかっている。そもそも、よほどの大商人を除けば、蝦夷商人は専業の商人といえるかどうかわからぬ者も多い。漁師や猟師が自分の獲物を運んでくることすらある。そうした者たちの稼ぎは吹き飛ぶことになろう。
「おぬしなどは、それでよいのか。」
お前はアイノ贔屓の十四郎の女だったではないか、というのであろう。
「……気の毒ですが、やむを得ますまい。どうせ長続きはせぬのでござります。」こんな無茶な政道は、とあやめは思った。アイノは木偶人形ではない。必ず、烈しい抵抗を受ける。
むしろ、あやめは、そればかりを願っている。
「なに?」
「……蝦夷商人は利に疎い。こうして蝦夷島に手前どものような商人が本気で入っていけば、いずれは消えざるをえないのでございます。長続きはできぬ。」
新三郎は、意外に思ったらしい。あやめが、アイノたちに対してこうも冷ややかな視線を向けていたとは、思いもよらなかった。
(やはりこれも、上方の女。十四郎ですら、心根は変えられなかったか。)
(おれたちとは、違う……。)
新三郎はあらためて目の前にそれを突き付けられた気がしたが、
「まことに、おぬしらの強欲は目に余る。」
と口にすると、気が晴れた。
「これからは、儂が余所者の強欲を取り締まり、秩序というものを与えよう。」
蠣崎家による交易の一元的管理、というものだろう。
(余所者か。わたくしも、たしかにさようじゃな。)
「あやめ、いま、つまらない顔をしたな?」
新三郎は、あやめの表情が曇ったのに気づいたらしい。
「滅相もございませぬが、……蝦夷島にわたってもう何年にもなりまする。」
「おぬしが、か。さよう、蠣崎の家に入っても二年か。」
あやめはそれは無視したが、ここはつい本音を口にする。
「じゃが、蝦夷島のひとにはなれぬ。いつまでも余所者というも、なにやら悲しうございますな。」
「悲しいか?」
血の匂いをふりまきながら、蠣崎新三郎は笑った。かれ自身、興奮でまだ気がついていない手傷を、身体の何処かに負っているのかもしれない。
「いよいよ、来たる天下様のご軍役にお備えをお始めの時が参りました。」
叙位任官という形で中央権力の笠の下に入るのならば、秀吉なら秀吉が求めるであろう軍役に応じる用意がなければならない。つまり、莫大な出費に備え、大名相応の経済力が要る。それはどうするか、がこれからの課題である、といった。
「知っておる。だからこそ、上ノ国をとった。とりかえしたのだ。そもそも」
「畏れながら、そこで年貢をおとりたてになりますか。」
蝦夷島では米がとれない。年貢をとりたてるべき百姓農民がいないのである。
「決まっておろう。湊みなとで運上銭を絞ってやるわ。」
「それで、膨れ上がるはずのご家中をお養いになる。お大名になられるのに、今までと同じように、なさる。」
「できぬというのか。」
「さて?」
「運上金は、我らの長年の生計の資ぞ。」
「おやめになられよ、とは申しませぬ。ただ、ここまで広げられたご領地の全ての湊から運上のお金をとり、またそれをこの松前にお集めになるには、手間と時がかかりますなあ?」
「どうせよと……待て、少し思案させよ。」
あやめは待ってやる。
「家中の主だった者に、知行地を与えてやる。蝦夷の村むらが知行地がわりじゃ。そこで、商売をさせよう。アイノから買った鮭や昆布を売るがよい。松前でそれをまとめてやるが、その儲けを以て家録に代えてやる。個々が励めば、家禄も増える。やり方次第じゃ。……あやめ、これでどうか?」
(やはり、おそろしいことを自力で考えつきおったわ。)
あやめは微笑みながら、わきの下に冷たい汗が流れる思いになった。
(お侍一人ひとりがアイノの村に張り付き、”商売“をするだと。そこにまともな商いはなくなる。それは年貢がわりだ。アイノは絞られずにはいられまい。)
(だが、もっとおそろしいことを吹き込んでやるのだ。)
「先ほど、堺に欲しいものはとお尋ねくださいました。よろしいでしょうか?」
「なんじゃ、急に。今の儂の考えと関わりあるのか?」
「おやかたさまのお考えを拝聴し、手前も思いつきましてござります。知行地にご家中をご派遣、まことに名案。これに際しては、是非、われら松前商人をお付け下さい。お供いたしましょう。」
「知っての通り、我ら蠣崎家は若狭源氏の出なるも、渡党と称して商いにも心得があった。蠣崎侍は、西国、上方や東国の侍とは違い、多少の商売はこなす。」
「存じ奉っております。」
「だが、褒美、とはいった。……納屋の者どもを付けさせよう。」
「まことにおそれながら、それはあまりにも身にあまりまする。」そんな汚れ仕事を納屋がひとり負うなど真っ平御免だ、といいたい。「ぜひ、両岸どの(近江出身商人たち)を交え、松前の日本商人一同のお仕事として、お申し付けくださいませ。」
「あやめ、おぬしの魂胆みえたぞ。蝦夷商人どもを潰してしまうつもりになったか?」
知行地の代わりになる村むらには蠣崎侍と和人商人が赴き、商品を根こそぎ抑えてしまおうというのである。それを松前にまず送ってしまう。運送を主にするといえる、現地の蝦夷商人の小商いは入る余地がなくなるであろう。
(アイノは思うがまま絞りに絞られる。商売、取引という理が消えれば、そこには騙し合いと奪い合いしかない。結局、力を持つ者だけが全て奪う。むごいことばかりになろう。)
「よいのか。」
「松前のお土地で、日本商人同士、抜け駆けはいけませぬ。恨まれても困りますれば。」
「そうではない。蝦夷商人を潰すということは。それら蝦夷―アイノどもの生業を奪うことになるが?」
「……。」
わかっている。そもそも、よほどの大商人を除けば、蝦夷商人は専業の商人といえるかどうかわからぬ者も多い。漁師や猟師が自分の獲物を運んでくることすらある。そうした者たちの稼ぎは吹き飛ぶことになろう。
「おぬしなどは、それでよいのか。」
お前はアイノ贔屓の十四郎の女だったではないか、というのであろう。
「……気の毒ですが、やむを得ますまい。どうせ長続きはせぬのでござります。」こんな無茶な政道は、とあやめは思った。アイノは木偶人形ではない。必ず、烈しい抵抗を受ける。
むしろ、あやめは、そればかりを願っている。
「なに?」
「……蝦夷商人は利に疎い。こうして蝦夷島に手前どものような商人が本気で入っていけば、いずれは消えざるをえないのでございます。長続きはできぬ。」
新三郎は、意外に思ったらしい。あやめが、アイノたちに対してこうも冷ややかな視線を向けていたとは、思いもよらなかった。
(やはりこれも、上方の女。十四郎ですら、心根は変えられなかったか。)
(おれたちとは、違う……。)
新三郎はあらためて目の前にそれを突き付けられた気がしたが、
「まことに、おぬしらの強欲は目に余る。」
と口にすると、気が晴れた。
「これからは、儂が余所者の強欲を取り締まり、秩序というものを与えよう。」
蠣崎家による交易の一元的管理、というものだろう。
(余所者か。わたくしも、たしかにさようじゃな。)
「あやめ、いま、つまらない顔をしたな?」
新三郎は、あやめの表情が曇ったのに気づいたらしい。
「滅相もございませぬが、……蝦夷島にわたってもう何年にもなりまする。」
「おぬしが、か。さよう、蠣崎の家に入っても二年か。」
あやめはそれは無視したが、ここはつい本音を口にする。
「じゃが、蝦夷島のひとにはなれぬ。いつまでも余所者というも、なにやら悲しうございますな。」
「悲しいか?」
血の匂いをふりまきながら、蠣崎新三郎は笑った。かれ自身、興奮でまだ気がついていない手傷を、身体の何処かに負っているのかもしれない。
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