えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段 なやみ 新三郎(二)

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 たいていの不快な行為には慣れてしまったかのようなあやめを、心の底から戦慄させたのは、新三郎が深夜、戦場から戻ったままの姿でいどんできたことであった。
 さすがに甲冑や腹巻は外させていたが、あとは血や泥のこびりついた軍衣のままである。髷もほどけ、目は殺戮の昂奮が残ってかギラギラと輝き、荒い息すらまだついていた。この格好で、激しい昂奮を持続させたまま、あやめを組み敷きたいと思ったものらしい。
 あやめはその姿をみるなり、さすがに恐怖の声をあげて、反射的に逃げようとした。それに躍りかかるようにして引き倒し、新三郎は雑兵が戦場で女を襲うそのままの様子で、あやめの寝衣をはぎとり、のしかかった。体を固めるように押さえつけ、肌に噛みつくようにむしゃぶりついた。
「あやめっ!」
 新三郎は耳元で叫ぶ。耳が潰れそうなあやめは、それだけでもう声が出ない。返事もできない。
 その新三郎の手にはまったままの篭手と手袋は、血か何かわからないものに汚れていた。そのままの指が、あやめの裸の肌を撫で、押さえつけた。
 あやめは自分の気が違うかと思う。普段の荒々しい新三郎ですらない、異形の怪物に襲われている気がした。
 さすがに気づいた新三郎が、血まみれの篭手と手袋を放り投げる。しかし、その下の素手もまた、ぬらぬらとした血と汗に濡れていた。あやめは茫然とするばかりで、かすれた声をたてた。
 乾いていた血が匂いたち、狭い部屋は暴力そのものが空気となって渦巻いたようだった。組み敷かれたままで犯されるあやめは、恐怖に絶叫し、解放と許しを空しく乞うしかない。一刻も早く気を喪ってこの陰惨から逃れたいと、もはやそればかりを願ったが、果たせなかった。あやめの意識は冴えて尖り、血の匂いと大量の死の名残りの気配に慄き続けた。
 抵抗もできないあやめにむしゃぶりつき、新三郎は、戦から持ちこした昂奮を吐き出し切った。

 そのあとの新三郎が、なだめるように尋ねた。
「あやめ、まことに、欲しいものはないのか。」
 大抵のものはお前に与えられる、というのだろうか。
 あやめはまだ茫然として仰向きに横たわっていた。
 自分の躰中から、いつもとは違って、むせ返るような血の匂いがする気がした。
「……ついに、儂はやった。お家の宿願を果たした。蝦夷どもはもう上ノ国で大きな顔はできぬ。」
今日、松前から北西部にあたる上ノ国に蟠踞していた、セナタイアイノの討伐に成功したというのであろう。
 家中の反対を押し切っての出兵であったと、あやめは知っていた。

 新三郎は隠居の内意を背にした弟たちの大半や宿老の反対を押しのけ、手元で涵養していた兵力だけで、くりかえし北上の遠征を張った。逆襲を受けかねない危機的な側面も交えつつ、それが徐々に成果をあげだして、ようやく蠣崎家とその同盟者的な家臣の兵力をつぎ込めるようになり、この日を迎えたのである。
 上ノ国に攻め入って、セナタイアイノの首長と主だった者を討ち取り、本拠地を占領した。この半島において蠣崎家に武力で対抗できる勢力は、残りの東部の別のアイノたち―シリウチアイノなど―だけである。かつて和人の舘が並んでいた海岸線に沿って、かれらの拠点がある。いまはアイノ優勢の和人との混住地だが、これらもいずれ片づける算段がついたといえよう。
 和人領は、安東家の直接支配のときからは、縮小の一途をたどっていた。およそ百年前のアイノとの戦いののちもなんとか生き延びた松前大舘を、当時新興の蠣崎家が握り、さらに下って五代季広の代に歴史的和解で小さな和人領をようやく確定した。
 それから三十年の時を経て、蠣崎慶広は、半島南部一帯に広がっていた前時代の和人領を回復していくのである。
 成功の背後にあったのは、武器の差ではない。数こそ開きがあったが、アイノとて鉄砲は手に入れている。武家崩れの和人の男たちが何人もついてもいた。
 だが、火器を集団的に使用し、それを軸にして組織としての戦闘をおこなうという新しい戦術思想に、蠣崎慶広は(家中ではほぼ、かれだけが)目覚めていた。
 そして新鮮で旺盛な戦意が、新三郎の指揮を支えていた。長い優位に馴染んでいたアイノとはそこが違った。それが勝敗を分けた。
 六代慶広の代になってようやく、蠣崎家が率いる和人の戦闘力はアイノに拮抗し、これを少なくとも各個撃破できるようになったのである。

「……それは、おめでとうござりまする。」
 あやめはのろのろと起き上がり、座って祝意を述べた。
 新三郎が何も無闇矢鱈に、近隣に襲いかかったわけではないのも知っている。セナタイアイノには、長く続いた武力の優越に慣れ、和睦が定めていたはずの蝦夷代官の統治を軽んじる素振りが常態化していた。先代とのあいだに取り交わした、アイノ船が松前の沖では帆を下して見せるといった儀礼も無視されるようになっていた。
「それくらいは大目にみてやる。だが、血を見てしまえば、蝦夷代官が黙っているわけにはいかん。」
 すでに何人かの和人住民の犠牲も出していた。それでも先代は戦には決して踏み切らなかったのだが、新三郎は現状に見切りをつけていた。
 混住地においてはアイノと和人との些細な諍いは絶えない。刃傷沙汰ともなれば処罰せねばならないが、先代の蝦夷代官は、当事者となったアイノの処分を部族に一任していた。
 ところが、天正十一年にセナタイアイノの支配する混住地で和人が怪我人を出す騒ぎがまた起きたとき、新三郎はアイノを目こぼしするのはやめ、蝦夷代官は上の国のアイノを処罰する権限を行使するという姿勢を崩さなかった。
前時代には考えられないことであり、武威に自信をもつセナタイアイノは、下手人引き渡しの命令を無視する。戦端が開かれてしまったが、新三郎は戦機を見ていたのだろう、ついにセナタイアイノの本拠地を一挙に屠ったのであった。
(この男の果断と戦上手は、たしかに、思った以上……。)
 あやめの中に、素直に感心する思いもたしかにある。お人好しだ自分は、と思いながらも、技量は技量として認めずにいられないのが、そこはあやめという人間であった。
 とはいえ、恐怖こそ過ぎ去ったものの、あまりの怒りに、いわずにはいられないことも口にする。
「戦場で襲われるとは、斯様なことでございましたか。躰から血の匂いがたちまする。……ま、終わった後で殺されぬだけ、ようございました。」
 新三郎が手の甲であやめの頬を打った。手加減はあったのだろうが、あやめは吹き飛ぶように倒れる。鼻血が流れた。
「たいしたことではないとでも、いいたいのか。蝦夷の討伐など、わしのやったことなど、上方の者どもにくらべれば、たいしたことではないとでも?」
(ほう、そこを怒ったか。態度で知れるというわけか。)
「滅相もございませぬ。いよいよ、にござりますれば。」
「いよいよ、なんじゃ。」
「……どちらでお答えいたしましょうか。この格好でございますが?」
「どちら?」
「納屋としてでしょうか。堺としてでしょうか。もし堺ならば、このまま、おそろしい目に遭うたとて、ただ震えてだけおりまする。」
「……納屋として答えよ。面倒な女ごよ。」
 新三郎は、なぜか少しうれしそうな声を出した。

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