えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段  なやみ  手紙(二)

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 あやめは手文庫を開き、見慣れた手紙の束に目を注ぐ。
 それらはもちろん、現代語に均したとて、次の通りに書かれていたわけでは決してない。だが、読み手のあやめの心の中で、記憶にある十四郎のやさしい肉声とともに増幅され、たしかに次のように心のなかに語り入ったのである。

「ある日、寺で、徳兵衛殿(トクのこと)があなたのことを菩薩さまのようだといわれたのは、お耳に入ったのだろうか? あなたはそのとき、和尚とお話されていたが、ご自分の崇拝者の褒め言葉は、きっと何よりよく聞こえたに違いありますまい。わたくしはといえば、ずいぶん算盤のお上手な菩薩様もいたものだ、とそのとき思わず笑ってしまったので、お気を悪くされたかもしれませんね。だが、徳兵衛殿の言は正しいと、今にしてわかります。徳兵衛殿が近江から当地に導かれたのと等しく、遠い土地で人の手の入らぬ深い山に入ってしまったわたくしは、菩薩様のお導きによってそこから抜け出せるでしょう。わたくしはみずからの行く道を探しあぐねて迷い迷ってこの土地まできたが、あなたがいる場所に帰るという目的ができた。これが菩薩様のお導きでなくてなんでしょうか。」

「古歌にある、鳥になりたいという気持ちが、私にはじめてわかった気がします。この世をつらいと思うからではない。あなたと出会えた、この素晴らしい世を、あなたとともに楽しみたい。鳥になって、山と海をひといきに越えて、あなたに会いに参りたい。」

「指の一本も持って帰りたいと言って下さった。もうぬし様のものだといって下さった。あなたがわたしにいって下さったお言葉は、そのまま全部さしあげたい。」

「お薬喰いをお勧めします。どうか気味悪がらずに、猪、兎、熊など、野の獣の肉をお食べ下さい。精をつけて、この地の厳しい冬をまた乗り切らねばなりません。あなたのお立ち姿は、こちらにいる鶴のようにかたちよいが、もしも鶴をみつけたら、お仲間とは思わず、どうか捕まえて食べておしまいなさい。あれは結構おいしいものですし、京や堺の人の好みでもございましょうから。」

「あなたのお額に唇を当てようとするとき、あなたが目をつぶられるのに、まずわたくしの胸は騒ぎます。あなたのきれいな瞳は隠れますが、瞼の美しさよ。長く伸びたまつ毛がふるえ、すこし納め顔(すました顔)になられるのが、かわいらしくてならない。これは、わたくししか知らないお顔でしょうから、お伝えしておきます。鏡に写そうにも、あなたご自身はみられない、わたくしだけがみられるもの。訝し気に目をそっと開けられるまで、わたくしは、ついうっとりと見とれてしまいます。」

「あなたはときどき、頭のお形だの、お額の広さだの、お胸だの、肌の色もお前に比べればさして白くないだのと、ご自分の容姿を気になさるようなことをいわれた。おわかりだったのでしょう、それらがみな、わたくしにとってどんなに胸ときめく、手に触れずにいられない、好きなところであったのかを。わざといわれていたのでしょう、わかっていましたよ。」

「イシカリのこの辺りにも誰かが、猫という生き物を持ちこんだようです。北からでしょうか、和人の里からでしょうか。わたくしどもは猫のようだ、とあなたはある日、はにかまれましたね。村を歩いていると、意味がわかりました。猫がこちらの冬を乗り切れるものならば、数は増えそうです。」(あほう、十四郎様のあほう、とあやめは真っ赤になって呟いた。)

「深い山と荒い海が、わたくしたちを隔てています。甚だ広い沼地に足をとられてそれを思うとき、沼から引き抜く足が重い。この一歩はあなたのおられる場所への一歩だと思っても、ひどく重い。そんなときは、天の川を仰ぎます。あなたとわたくしは、天の川に遮られているのではありませんね、一年に一度しかお会いできぬと決まった身ではない。いずれ夫婦として、毎日を一緒に過ごせる。(それに、)月も星も雲に隠れるときもありましょうが、わたくしが仰いでいる頭上の天の川の下には、かならずあなたもいらっしゃる。ときに温かい夜は、星を仰いでみてください。きっとそのとき、わたしも星を仰いでいる。」

「あるひとにいわれたことがあります。お前は和人でもない、ぽもうるでもない。かといってあいのにもなれぬのだろう、と。わたしは口ごもってしまったのだが、そのときには答えるべきだった。何者でなくてもいいのだと。わたしは納屋の御寮人さまのそばにいられれば、自分が何であろうとなかろうと、いっこうに構いはしないのだ、と。もしも、いま問われれば、それ以外は答えますまい。」

(ソヒィア殿だな。)
これを読み返して、あやめはまた妬心にちくりと刺される気がした。
 あやめの勘は、自分の恋人とソヒィアのふたりの間に、何事かは必ずあったと告げていた。
(戦場とは、ひとを狂わせる場所なのだろう。)
そのような事態にいたる様子を、あやめは目の前に描くように想像した。
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