えぞのあやめ

とりみ ししょう

文字の大きさ
上 下
93 / 210

三の段  なやみ  ふたたび、松前(三)

しおりを挟む
「御寮人さま?」
「……忘れていた。」
「なにを照れておられますか。」
「いや、……」あやめは無表情になってしまった。「……忙しくて、どうかしていたのだな。いまの今まで、あんなに、堺にいたときから、楽しみにしていたのに、どうしたことだろう?」
「お忙しかった。そういうことでございますよ。御寮人さまはお真面目ですので、お仕事中にはお楽しみを考えないように、ご自分を律されたのですよ。」
 コハルは励ますようにいったが、内心で衝撃を受けている。
(やはり、この方は、まだおかしい。無理もないのだが……)
「どうも、いかぬな……。」あやめ自身が、ため息をついている。「大事な十四郎さまのお手紙のことを、けろりと忘れているなど。」
「お疲れなのです。お手紙を気付けのお薬と思って、さあ、今日の分をお読みください。」
「今日の分?」
「ほれ、十四郎さまは天正十二年の何月何日にはこの手紙を開封せよ、と表書きにご指定じゃ。一気に全部読んでしまわれないようにとのお考えでしょう。」
「なんと。それも歯がゆい。おむごいではないか。」
「いやいや、数々(親切)というもの。蝦夷地からでは、……」とコハルはなぜか声を潜めた。「毎日お手紙をお受け取りにはなられぬでしょう。」
「コハル……。」あやめも声を潜めた。「われら、長く店を空けすぎたかの?」
「左様に存じまする。まあ、無理もない。松前の冬は長い。長すぎる。店の者の心もあらぬように動く。ご用心を。」
「沖のことは漏れておらぬな?」
 沖のこと、とは、松前のかなり手前で、大舘に知られたくない種類の荷物―鉄砲や弾薬など―を蝦夷船に移し替え、そのままヨイチまで行かせたことである。
「それは、あまりご心配なく。お店に残っていた者でございましょうな、ご用心は。」
「では、このお手紙、如何する?」
「ご安心を。コハルがお預かりしておきましょう。あのお方がご指定の日に、お届けいたしまする。」
「……そうなるか。そうなってしまうのだな。……では、今日の分を、お寄越し。」
 あやめの声は、元の大きさに戻った。
(あれから、こんなにたくさんのお手紙をわたくしのために、したためてくださったのか。)
(ありがたい。おやさしい、十四郎さま。)
 あやめは、拝むような気持で手紙を開いた。コハルは隣室に去る。

 蠣崎十四郎愛広の書状は、文章日本語による情緒の表現として、この時代に突出したものではなかっただろうか。
 具体的な用件を伝えようというものではまったくなく、ただひたすらにあやめに話しかけるだけのものである。だから、ときに口語、俗語すら混じっていた。
 当時の私信にも当然あったルールの多くは、かえりみられていない。書札礼にまったく沿っていないものも多いため、偽作説が盛んであった時期も長い。まとまった形で発見された現物が公開され、それらへの専門的に詳しい調査も可能であったのが幸いし、今日ではすべてを後世の偽作とする説は退いているが、後代の研究者のなかには文書の多くは「書簡(手紙類)」とは定義上もいえない、なにか別種の覚書ではないかという立場をとる場合もある。
 上書きの月日として残る手紙の日付は、それ自体架空のものだといえた。
 コハルのいうとおり、何日かおきに定期的に届くわけにはいかない文を、できることなら日をおかずにあやめに読ませたい。そうした心遣いであった。
 そしてその日付に、本当にかれが経験していただろうこととは、何も関係のないことばかりが綴られていた。

 蠣崎十四郎愛広の天正十一年から秋から冬、そして翌年の浅い春は、苛烈な日々だったと推定されている。まだ唐子の有力なアイノ村の軍事顧問か、せいぜい傭兵隊長でしかなかったかれが、イシカリとヨイチを拠点に地歩を固める時期である。
 野心的な事業家といえた“惣大将”と呼ばれたアイノの首長が、ポモールの村での戦闘、いわゆる「チョマカウタの戦い」で思わぬ戦死を遂げてしまったことで、かれの本拠地テシオとその支配地域とは分裂し、ついに村落ごとに紛争状態となった。
 ここにイシカリ一帯の諸村は介入し、北上した蠣崎愛広率いる兵力が、それら互いに相争うテシオの勢力を、すべて揉み潰す結果となった。唐子北部の一大独立勢力が消滅した。
 これでカラフトから山丹への貿易路の要所がイシカリ・ヨイチの同盟により完全に抑えられたことになる。唐子の統一という未曽有の事態が近づいたともいえる。
 
 十四郎は傭兵隊長にとどまらず、イシカリから一帯の統治を委任される身となっていく。
 中近世のイタリア半島におけるコンドッティエーレ(condottiere)に近い立場であった。軍事的才能と名家の権威を背景に、有力市民に請われて統率者となる存在である。臨時の執政官、あるいは雇われ君主といえる。和人の統領であった安東家被官蠣崎家の出だというのは、蝦夷地全体を統治できる権力の不在に対して、なおいくばくかの意義をもった。
 そして蠣崎愛広には、武人としての何ものかの資質があり、これが次第に圧倒的なものとなっていく。イシカリからヨイチまでの外人統領の地位に飽き足らず、さらに血塗れの争闘に身を投じていくのは、これからであった。
以下は、先走った話となる。天正十二年の夏から秋、さらにこの土地の軍事行動としてはおよそ考えられぬほどのことであるが、その冬に起きたことである。
 唐子からは裏側の大海に面した日ノ本への進出は、有力者であるテシオの“惣大将”の宿願であった。これを死に至らしめた十四郎は、やがて調停者の立場からテシオに実質的な支配力をもったことで、その運動を引き継ぐことになった。
 ただ、蝦夷島の北端を回っての南下ではない。日ノ本へは、イシカリから巨大な山塊を越える過酷なルートをなぜか選んだ。
 かれの構想は、蝦夷地の統一ではなかったことがわかる。出身の渡党の領土である南部の半島こそが、やはり蠣崎愛広にとって宿願の地だったのであろう。 
 西部と東部から、半島への南下をはかった。西部の唐子は、かれがヨイチ・イシカリ同盟に雇われた君主として実質的に大半を既に手中にしていたから、南下はやや容易であった。東部海岸線からの南下は、複雑な外交と派兵の事業となった。通常ならば、何年もかかるはずの戦いであった。
 
 これを劇的に展開させる一報は、まさにその蠣崎支配地からもたらされることになる。一進一退の攻防に身をすり減らす十四郎たちにとっての、願ってもない好機がやがて到来したのである。
 蠣崎慶広による半島全土にわたる旧和人領の回復と、余勢を駆っての日ノ本への北上浸透であった。これが日ノ本のアイノ首長たちに衝撃をあたえ、にわかに松前への警戒感をかきたてた。これが、アイノの兵力を背景にした十四郎の活動に突破口を開いたのである。相互に孤立的だったアイノ部族の合従連衡が進み、十四郎はそれに乗じて蝦夷地全土に同盟の統率者としての一定の地歩を築けることになった。

 手紙に話を戻すと、多くの後世の研究者を当惑させ、落胆させたことに、これらの時期の日付が認められる蠣崎愛広書簡の多くは、かれの英雄的事業、あるいは血塗れの惨憺たる攻防の何事を語るものではなかった。史上に確定された、一種の会戦の日付のついた手紙にすら、のどやかな日常の感慨が記されている。

 十四郎は、大量の手紙を書くとき、あやめの心を慰めることしか考えていなかった。傷ついた恋人を慈しみ、離れていながら喜ばせることのみを考えて筆を走らせた。ときに書くべきことが見つからないときには、かつてのような軽口、からかいを記した。およそ突飛な冗談を、ことさらに大真面目な筆致で書いてみせた。それが諧謔を好むあやめを笑わせ、いくらかでも心を癒すだろうと期待したからでもあった。
 また、当然のことだが、文章はまずはその筆者のものである。のどやかな日常や、実際には起こりえない楽しい逢瀬を記すとき、十四郎もまた、それに心癒され、救われていたにちがいない。
 のち、あきらかに野営の幕舎で、他愛もない空想の逢瀬の様子を書いた。別の記録によれば、初期の蠣崎愛広にとって珍しくはない、死の危険のある長い苦戦の中だったことは明らかである。
 苛烈な日々だからこそ、埒もつかぬ空想が書かれるようになるのは、いま少し先のことである。あやめが受け取っている手紙の束は、数か月前の別離の悲しみをつづるのが、最初の一通だった。

 「過日、湊に立ち、あなたを乗せた蝦夷船の小さな船影を見送っていました。そのときわたしは、あなたがなにかの忘れ物をされて、船が戻ってこないか、とそんな馬鹿げたことを心から望んでやまなかったのです。あなたがこの土地から去っていくという当たり前のことが、わたくしにはどうしても得心がいかなかった。あなたのお髪の一筋も、この土地に残るわたしには残されていないのが、さびしくてならなかった。
「いただいた大事な守り刀の国光が懐に重いのを、そのときのわたしは気づかなかった。おろかなことです。あなたが蝦夷のあやめである以上、離れているように思えても、わたくしどもは常に分かち難く、ともにある。
「蝦夷の春は遅い、とあなたはいわれましたね。その遅いという春風に吹かれて、いま、遠い土地からお帰りになったあなたと同じ島の土地を踏んでいるのだから、わたくしは、本当は、少しもさびしくはない。」

 最初の手紙は、そんな風に書いてあった。
(十四郎さま……! わたくしも、さびしいけれど、さびしくなどはない!)
 あやめは叫びだしたいような気持ちに、紙を持つ手が震えた。
 その気持ちを訴える相手は、ひとりしかいない。やはり、隣室に控えているコハルであった。用心して、抑えた声で呟く。コハルには十分であろう。
「コハル。……わたくしは、あのお方をお慕いできて、それだけで果報者だ。」
「……」
 コハルは笑ったようであるが、燭台の明るみの届かないところに消えた。
(本当に、残りのお手紙は持って行ってしまったのか。次はいつ、読めるのか教えてもらいたかったがな。)
 
 その、「次」の機会は、大舘に呼び出され、また身も心も草臥れ果てて店に戻る日まで来なかった。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

赤松一族の謎

桜小径
歴史・時代
播磨、備前、美作、摂津にまたがる王国とも言うべき支配権をもった足利幕府の立役者。赤松氏とはどういう存在だったのか?

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

処理中です...