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三の段 なやみ ふたたび、松前(一)
しおりを挟む船の屋形から出てきて風に吹かれながら、あやめは遠ざかっていく敦賀の湊に名残惜し気な目を向けた。はるか彼方に、堺の町がある。
堺に戻りたい。船出したばかりだというのに、あやめは痛切に感じている自分に気づいた。
(天正八年にこうして船出した時には、堺など少しも恋しくなかったのに。ついに出て行ってやった、くらいのつもりだったのに。)
羽柴筑前守が、亡き旧主一族から天下の相続権をいよいよ公式に奪い取ろうとする戦いに奔走していた、天正十一年の冬と十二年の初春を、あやめは故郷の堺でもっぱら過ごした。
宗久は、娘の堺出立を急かした。
「暖かくなれば、紀州勢が必ず北上、乱入してくる。」
と宗久は読んでいた。羽柴秀吉の対徳川出陣の時期が、最も危ない。
「多少雪が残ろうと、とく山を越えて敦賀に入っておくがよい。」
「そうなのか、コハル?」
横に控えているコハルに尋ねると、
「左様でございましょう。岸和田はおろか、この堺も安心ではない。場合によっては、大坂すら。」
「ならば、わたくしも残るぞ。」
「紀州勢は羽柴筑州様ご出陣の隙をつくだけでございます。長もちはせず、大坂で暴れるだけ暴れれば、あとは巣に戻るでしょう。あとは、かれらは筑州さまにじわじわと狩られていく。」
コハルは落ち着いている。
「さほどの御心配は御無用。面倒なのは、御寮人さまが足止めを食われることだけでございます。」
「心配無用とはいえんのではないか?……残らせてくださいませ。お店から、わたくしだけが逃げ出すようではござりませぬか。」
「あやめ、お前の店はどこにある?」
「……松前でございます。」
「ならば、商いのたつように、さっさと荷を送り、身も敦賀に向かうのが、お前の仕事ではないのか。心得違いすな。」
三月末、秀吉が小牧・長久手の戦に出陣した隙をついて、紀州勢は大規模な反攻に、たしかに出た。堺代官すら遁走し、堺は一時的には紀州勢の占領にあう。大坂までも一部が焼けた。そして、暴れるだけ暴れてそこで限界にぶち当たり、早々に紀州に退去する。
この「岸和田合戦」の顛末を、あやめたちは出港直前の敦賀で聞けて、安堵はできた。
だが、それからも、あやめはともすれば、堺のことばかり考えている。
(父上は、泣いておられたのではないだろうか?)
いよいよ敦賀にむけて出立という前の晩に、宗久が別離の宴の代わりに、ふたりきりで膳を挟んでくれた。
「父上とこうして向かい合ってお膳をいただくなどと、不思議な気がいたします。」
「お前がうんと子どもの頃に、港に船を見にいったことがあったな。あのときは、ふたりではなかったな。」
「父上、お覚えくださったのでございましたか。うれしうございます。」
「なに、忘れておった。お前が戻ってきてから、ひょんなことで思い出したのじゃ。」
「……あやめのご心配ばかりくださり、お詫びの仕様もございませぬ。」
「自惚れるでないわ。」
宗久は笑った。
「この宗久が、お前のことばかり考えておるほど暇があると思うか。」
「左様でございましたな。」
あやめは苦笑いした。
「お前の兄や姉の子どものころのことなども、思い出されてならぬ。齢をとると、ふと、大昔のことを思いだす。」
「……」
「儂は、それこそ自惚れかもしれぬが、家の者に衣食の心配をさせずに済んだと思うておる。お前とて、母と二人のころからも、食う心配などはなかったな?」
「は、はい、お陰様にて。」
母はそれどころか、いよいよ死の床に寝込んでからは医師まで呼んで貰っていたはずだ。
「儂はそうはいかなんだぞ。我が家は誇るに足る武家ではあったが、大和にたどり着くまでには流浪があった。その日の食い物に心配のない日ばかりではなかった。」
「左様でございますか。そのようなお話、初めてうかがいました。兄上、姉上方はご存じで?」
「知らぬであろうな。そんなことをあれらに話すは、ついぞなかった。親が子を食わすは当然。当の子どもらに恩着せがましくしたくもなかった。そして、いうても詮無いことだ。流浪の日々、まだ子ども子どもした儂が、自分の子どもには決してひもじい思いをさせまい、寒い思いをさせまい、明日の宿りを心配させまい、と心に誓ったなどとな。それに、想いだせば、我ながらませた子どもで、滑稽なことじゃからの。」
「滑稽などと。ありがたいことに存じます。父上は、わたくしなどにも、……いえ、わたくしども家内(家族)に、そのようにしてくださいました。お誓いを立派に果たされました。」
「さようじゃ。儂は、それはできたと思っておる。それに自足していたが、お前をみていると……。」
あやめは躰が強張るのを覚えた。
(父上、まことに申し訳もございませぬ!)
「いやすまぬ、息子たち、嫁にいった娘たちのことを考えても、不思議な気がしてくる。」
「……不思議?」
「親がなにを与えてやっても、それだけで子は長じて幸福になれるものではないのかの、と。幸福とは、親がやれるものではない、どうあっても本人がつかみ取るしかないものなのか、と。それとも、儂は何かを子どもに与え忘れてしまったのか、と。」
「父上……。申し訳ござりませぬ。……申し訳ござりませぬ。」
「なにを謝らせようというのではない。あやめ、頭をあげよ。泣くな。お前は、そんなに泣き虫だったのか? 松前納屋の主人ともあろうものが、簡単に泣くな。」
「はい。……はい。」
「あやめ。お前の持ってきた鮭はうまい。それにこのカド(ニシン)も、お前のいうように干し潰して肥えにしてしまうのは惜しいの。うまい調理法が見つかるのではないか。……食わぬか。」
「はい。」
「まず、食わせるのが親の役目というのは、考えは変わらんぞ。……あとは、そうよの、やはり大人になれば、自分で食うものじゃ。」
「あやめはお店をお預かりしているだけで、自分で食べているのやら。」
「お前の今度の船が無事松前に着けば、その儲けで、儂の出した銭はあらかた戻ったことになるはずじゃ。つまり、あの松前の店をどうしようと、もうすべてお前の勝手ということ。これは覚えておけ。」
「えっ? ……はい。ありがたき幸せにございまする。」
逃げてきてもいいのだぞ、と宗久はいっているつもりである。
ただ、それではこの子の脆い心は砕けたままで、いずれ心気の病みが躰も犯し、命を奪うであろうというのも、目に見えていた。
(松前に行かせてやるしかない。そして、必ず仇を討ち、大願を果たして、戻れ。儂はその手助けをここでしてやる。だが、それには蝦夷の男どもに勝たねばならんぞ、あやめ。)
「自分で食って、……自分で幸せを得よ、あやめ。」
「父上……。」
「お前は、母親に似ている。気をつけよ、あれは労咳を病んだ。」
「母者は、父上のお好きなお顔でございましたか?」
「なにを聞いておるか。儂は、体を労われ、といったのじゃ。」
「どうでございました? お情けがあったということは、鄙の出とはいえ、なかなかお好みにかなう容姿であったわけでしょうか。」
「お前はなにをいっておるのだ。もう酔うたか?」
「失礼をいたしました。いえ、そうであればよいと思いました。母者に似ているというこの顔が、父上のお好みであれば、うれしいような……。」
「……あほうなことをいうな。父親は、娘というだけで可愛いのじゃ。女の好みなどとは違」
「娘というだけでっ? 可愛い? うれしいっ。」
「……あやめ、あほう、やはり酔っておるのではないか?」
「父上、ありがとうござります。」あやめは辞儀を正した。「まことに、ありがとうござります。納屋今井宗久さまの娘に生まれただけで、わたくしは十分、いえ、身に余る幸せにございます。さらなる幸せは、きっとかの地で手に入れて、父上のお目にかけまする。それまで、お願い致しまする、父上。どうかご息災に。」
「……」
(今生の別れになるやもしれぬ。)
宗久はそっぽを向いて、盃を突き出した。あやめは丁寧に注いでやった。
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