えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段  なやみ 故郷の日々(三)

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(思い出すと、おそろしいことじゃ。十四郎さまとわたくしは、あの夜、謀反の相談をした。十四郎さまは知らず、わたくしは心から喜んで人殺しの企てをしたわけよ。)
 ヨイチの夜の衝撃と喜悦を、あやめは堺でもときどき反芻するが、ともすれば、ずいぶん昔の出来事のように感じてしまうようになってきた。
 この泉州堺からは、蝦夷島は現実の存在とは思えぬほどに遠い。海を越えて自分が往還した、その不安や船の苦しさや船上での思いすらが、他人のそれのようにふと思えるときがある。
 そんなときは、自分を叱った。現に十四郎が決意して、動きはじめている―はずだ。おそらくは容易ならぬ道を歩きはじめている。あの傷痕は思いだすだにひどかった。ああいう傷の絶えない、阿修羅の道を行くことになる。そうさせたのは、まちがいなく自分ではないか。

 あやめはしばしば、堺の町の雑踏のなかにふと十四郎の姿を見て、はっとするのである。それが何度もあった。もちろん人違いで、異相のパーデレを見間違えたのはまだいいほうであった。姿かたちも似ない、ただ背の高い男というだけのときもあった。
(男恋しさのあまり、目までもおかしくなったとな。)
あやめは自嘲した。
(やはり、わたくしが本当に望んでいるのは、十四郎さまが何もかもを振り捨ててこちらに来てくださることなのか。)
 
 夢もみた。何度もみた。
 ある夢は、十四郎が用もいわず、納屋の店を覗いていたころのことからはじまった。
「桔梗屋の御寮人殿。」
 にこにこしながら十四郎は、でもまだ他人行儀にいう。そんな間違いなど本当はしなかったのだが、この夢の中の十四郎は違う。
 夢のなかのあやめも、まだ今の自分ではないのが不思議だ。名前を間違えられて、失敬な男だと腹をたてる。
「納屋でございます。」
 つっけんどんに訂正する。
 なにか話しているうちに、また十四郎が言い間違う。
「桔梗屋の御寮人殿は……」
「あ、納屋でございます。」
 と腹をたてて、いったとたんに、あやめはなつかしい法源寺の倉の前に立っている。
 胸も声も弾むけれど、まずは、「納屋でございます。」と挨拶する。
 そのことに、つい笑みがこぼれてしまう。もう互いの裸も、肌の匂いも知っている仲なのに、他人行儀は変だなと思っている。
(十四郎さまのおことばが、ああだから、わたくしもそうなってしまう。)
 互いの地の言葉で喋ったのでは、意思が通じない。妙に丁寧な言葉になるのは、そのせいでもあった。
(でもわたくしは、だいぶ十四郎さまの地のおことばがわかるようになった。)
(だからか、すこしぞんざいな物言いになってしまっているのかもしれぬ。)
 気がつくと十四郎の胸に抱かれていて、知らぬ間に横たわっている。
「よいのでございますか? まだ日が高い……まだ、お昼……?」
 あやめは抵抗してみせるが、十四郎の力はつよく、次々と布が躰から取り去られる。もう裸に剥かれ、男の身体の重みに乳房の先が甘くつぶれている。
 寺の倉でもあり、ヨイチのあの小屋のようでもあった。
「脱いで、十四郎さまも脱いで。」
 あやめは十四郎の温かい肌に触れたくて、身悶えする。
(あっ、平気だろうか、わたくしは?)
 十四郎に両足を割られると、あやめの心に不安が走る。そのときには、今のあやめになっている。
 だが、大丈夫だった。あやめは十四郎を十分に受け入れている自分がわかり、硬直するようにぴんと伸びていた両足を、また開いて、男の腰にからめた。
 
 障子越しに朝の光がぼんやりと入る部屋の夜具のなかでひとり目覚めたとき、涙を流していた。
(また、こんな恥ずかしい夢をみた。)
 躰に夢の痕跡があるのがわかり、羞恥が襲う。夜着を引き寄せて、潜るようにした。寒い。
 夜明けに起きるのが普通なのに、こんな時間まで寝てしまった。少し熱がある気がして昨夜は早く床に入ったというのに、綿の入った夜着の温かみから抜け出せない。
(ずいぶんな自堕落な……)
 幼女の頃から、この屋敷ではどこか緊張して振る舞ってきたから、こんなことは初めてのように思えた。松前納屋ではもちろん、主人としてひとの上に立つ以上、朝寝などはない。
(大儀じゃ……。なにもかもが大儀になってきた。)
このまま、この堺の町の富商の家で、気儘な行き遅れの娘として、許される限りのらくらと暮らしていきたいような気がした。
(気儘次第の行かず後家。そもそも、そのとおりではないか、わたくしなど。)
(若旦那さま以外には兄さまも姉さまも、もうお屋敷にはいらっしゃらない。気楽なものじゃ。)
 そう思うと、逆に情けなくて、またどっと涙が溢れてきた。
「御寮人さま。」
コハルが濡れ縁にいる。障子越しに声をかけた。
「おからだの調子はいかがでございますか。」
「……帰ったのかえ、コハル」
「いま。さきほど。」
「あまりよくない。」
「では、また後ほどお呼びあれ。お珍しい。お医者がいりますればお呼びしましょうか。」
 コハルはあやめの躰に無理が来ているのを案じていた。あやめの蝦夷地での心身のただならぬ負担もそうだが、蝦夷地帰りの店員のなかに、激しい冬から解放されたことでかえって緩みが出たのか、病を発する者が少なくない。
「……のう、コハル。この堺でも、おぬしはわたくしの家の者かえ?」
「なにをおっしゃいますか。コハルの御主人は大旦那さまでなければ、御寮人さまだけでございますよ。」
コハルは若旦那の今井宗薫を無視してまで念押しした。
「ならば、聞いてくれるか。……わたくしは、蝦夷島に戻る気が少しずつ薄れてしまっているのじゃ。蝦夷島が遠く感じられて仕方がない。あのようなところに戻って、なにをどうしようというのか、だんだんわからなくなってきた。」
「御寮人さま?」
「お店のことは大事。箱館に町を開きたいという夢も、思い出せば、胸高鳴る。だが、それも一晩、一晩とこの屋敷ですごすうちに、忘れていってしまう。おぬしたちに河内や紀州などについてきてもらって、蝦夷地の新しい商いを想うのは楽しい。考えかんがえ、儲かる荷を集めて敦賀に送るのも面白い。」
「結構でございますな。」
「だが、じぶんの松前納屋のためにそれをやっているのかどうか、だんだんわからなくなってきた。残してきた店の者には悪いが、あんなところにお店を持っていただろうか、とすら思えてきてならぬ。わたくしは、本当は蝦夷の土地なんか踏んだこともなく、ずっと大旦那さまに甘えて、堺で商いの真似ごとをしていただけではなかろうか? 蝦夷地にいたという、まことにへんな夢から今朝、覚めたにすぎぬのでは?」
「夢のわけはございますまい。御寮人さまはどなたに大人にしていただいた? どなたを大人にしてあげたのでございますか?」
「おとな?……あ。」
 気づいたあやめは、枕のうえの顔を紅潮させた。
「……はしたないことをいうでないわ。」
「はしたなくない風に申し上げた。……御寮人さま。お熱がおありなのでしょう。ご病床でいろいろ考えるのはよろしからぬと存じます。」
「……そうよな。松前納屋で寒さに震えている与平やらミツやらがもし聞いたら、怒るじゃろうなあ。」
「それはよろしいのでございますよ。……コハルが心配しておりますのはね、大事なおひとをよもや、お忘れではありますまいか、と。」
「いまので、思い出した。」
「いまので、でございますか。『図』はどうなされた。」
「わたくしは、それが、……」あやめは大きな声を出しそうになったが、思いとどまって、「……それすらも、なにやら、厭わしくなってきたわ。」
「……御寮人さま、結構なことでございます。最初から、そうしてくださればよかった。早速、終わらせる手配いたしましょう。」
 コハルの影が立ち上がる。

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