えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段 なやみ  「堺の方」考(二)

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 松前法源寺に秘蔵されていた天正蠣崎家文書群のなかから、近年、蠣崎十四郎愛広の直筆書状が新たに大量に発見され、丁寧な整理と調査分析を受けた。
 その書状の宛先の大半は、当時松前にいた(?)今井宗久の一女であることが判明したのである。
 
 むろん、史料としての書状発見の第一の意義は、天正十三年以前の蠣崎愛広の蝦夷地(「唐子」「日ノ本」)での活動の一端が解明された点にあるだろう。凄惨な争闘に明け暮れたといわれていた蝦夷北部での蠣崎愛広の日常が、拍子抜けするほど穏やかで平和的なものであったという、意外な事実が浮かび上がる。(通説になっている蠣崎愛広の蝦夷における征旅を否定し、その浸透をきわめて平和的なものとする近年の見方が、ここに補強されるといえよう。)
 この、名も伝わっていない今井家息女(書状中に「あやめどの」とあるのが、その名だとの考えがある。)が、相当の頻度で北方にある蠣崎愛広と会っているとしか読めない記述があった。
 ここから、忙しく北方と松前、さらに少なくとも一度は堺とを行き来した(とみられる)彼女が、大舘で蠣崎慶広に仕えた愛妾「堺の方」だというのはあきらかに成り立たないとわかった。また、「堺の方」がもしも本人、さもなくても松前納屋や箱館納屋の使用人出身であるとすれば、書状中にはなんらかの言及があるはずだが、そうした記述も見いだせないのである。
 なお、蠣崎愛広書状については、長距離移動がありえないようなごく短期間に行われているなど、その日付に不自然な点があることも明らかになっている。
 宛先が不分明な書状の混在も疑われ、少なくとも何通かは今井家息女ではなく、蠣崎愛広が「あねうへ」すなわち、実姉もしくは義姉に宛てたことがあきらかである。

 しかしながら、これら書状が近世初期蝦夷地研究の最も貴重な一次史料であることは動かない。以後の議論は、その存在を前提におこなわれるべきであろう。
「堺の方」の正体という、歴史学的議論の本質からは比較的それた問題についてにせよ、そうである。
 その不明の実姉(だとすれば)はもちろん松前の生まれ育ちであるはずだが、蠣崎愛広が「ともだちて(連れ立って)堺の湊に」遊んだ幼少期を回顧している一通の書状があり、この「あねうへ」こそが「堺の方」なのではないかという憶測も生んだ。「堺の湊」と蠣崎愛広との関係にせよ、前後の脈絡は一切不明ながら、魅力的な説であるとはいえる。
 ただ、もし実姉であれば(蠣崎季広には女子は多い)、それが「堺の方」だということになれば、蠣崎慶広は腹違いの(齢回りの自然さでいえば)妹を側室にしていたことになり、さすがにこれはありえない。
 蠣崎慶広の側室であるために「堺の方」を「姉」と呼んだという見方も、ここから派生する。ただ、武家の側室は子でも生まない限りはあくまで使用人であり、それぞれの兄たちの正室以外には「義姉」はいないと考えるのが普通であろう。誰か別の弟の正室を側室に入れるという行為も(やや考えにくいとはいえ)あり得るが、逆にそれは記録されそうなものである。
 「堺の方」の埋葬されている松前・長泉寺には、当時からのものとみられる墓石がほぼ打ち捨てられたようにしてあるが、墓誌の類は存在しない。
 以上の曖昧さや謎から、「堺の方」の実在を疑う説すら出されている。
 とはいえそれは極論であり、やや下った時代のものとはいえ、複数の記録に「堺の方」の悪行の噂が明記されている。当時のひとびとが抱いた、慶広側室への強い反感は実在し、記憶されていた。それらがのちの世の創作された悪行のもとであることはたしかであり、最初から架空の存在とも思えない。

 なによりも、その凄惨な死の大まかな経緯と日付がどの記録も一致しており、大舘における彼女のおそらくは無念の死が、逆にその実在を疑いのないものにしているといえよう。


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