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二の段 蠣崎家のほうへ 誓い(六)
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十四郎たちの時代に、人間の無意識の存在などは誰も知らない。精神の仕組みなど、現代医学ですら手探りの部分を多く残す。この時代の人びとの思考に、烈しいショックや深い抑鬱がもたらす精神の不調や、それが体調に与える 一見不可思議な影響という、医学的理解があったはずもない。
だが、心の病というものがあることは、文明社会が築かれて以来の長い経験から、誰もが気づいていた。物狂いは祟りや因縁や憑き物で多くが説明されていたが、心気という言葉はある。心気の乱れ、衰えが身体の病も呼び、奇矯な言動や思考不調の原因にもなるともわかっていた。
(なんということだ。なんと哀れな……。きづくしに(心労のあまり)あやめの心は割れてしまったのか。おれのせいで、あやめは心も傷つけられて、血を噴いているではないかっ。)
「あやめ、……すまない。」
横たわって顔を手で隠しながら、とまらぬ嗚咽をもらしている。そのあやめを後ろから十四郎はかたく抱きしめた。あやめの手を顔から離し、両手を自分の両手でそっと覆う。
「……十四郎さま。滑稽でございます。」
「うむ、おれは、そうかもしれん。だが、滑稽というよりも、おれは」狡かったのだ、そなたに甘えていたのだ、と 十四郎はいいかけたが、
「ちがう、ちがう。わたくしですよ。あやめが滑稽に思えてなりません。」
あやめは、含むような笑い声を出した。
(このひとは、また、悲しいときに笑う……。)
十四郎はあやめの手を固く握った。
「やめてくれ。」
「まことに、滑稽の沙汰じゃ。おかしい、ふふ、おかしい。……ご無礼申し上げますとね、わたくしは、あなた様のほうを心配しておりましたの。コハルにいわれましてね、殿方て、意外に心弱い。手籠めにされたと知れば、哀れに思召してくださっても、とてもわたくしを抱くなどできなくなりはしないか、と。申し訳ありません。杞憂でございました。ありがたいことに、あなた様はお強い、おやさしい。わたくしを、愛して(可愛がって)くださる。ところが、手前のほうが、このありさま。相手の心配をしておられる身か。まったく、滑稽の沙汰……まことに滑稽じゃ……」
「あやめ。笑わなくていい。」
「わたくしは、十四郎さまのお胸に抱かれに、はるばるやってきた。それなのに、わたくしの躰が、十四郎さまを拒んでいる。こんなに、愛していただきたいのに。いまこうして腕の中に入れて下さっているだけでは、躰のほうも満足していない様子なのに。それなのに、どうしても……。」
あやめはまた泣き声になった。
「申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ。お許しください。」
(躰と、心か。)
(そうか、やぶれてしまっていたのだな。わたくしの心は、知らぬ間に、潰れてしまった。)
(わたくしこそが、弱い、脆い……)
(消えてしまいたい。)
あやめは切実に願った。
(十四郎さまが、いますぐ、そのお手で絞め殺してくださらないか? そうなれば、今のわたくしは無上のしあわせだが……)
十四郎の手は、あやめの震え続ける手から離れない。すっかり冷えてしまったあやめの背中に、男の胸と腹が温かく当たる。
「詫びるべきは、おれだ。あやめ、何度でもいう。すまない。」
「……申し訳、ございませぬ。」
「そなたは、謝ることなど……。」
「消えてしまいたい……。」
そのまま、あやめも十四郎も押し黙った。あやめは苦し気に目を閉じて荒い息をつき、十四郎は目を見開いて、なにか考えを追っている。
「あやめ。いうことがある。」少し待たれよ、といって、十四郎はあやめの手を離した。
あやめの裸の肩に薄物がかかる。十四郎は着衣をはおって、座っているようだ。あやめは起き上がろかと迷ったが、十四郎が再び寄り添って横たわった。あやめの顔の前に、鞘に納めた国光の短刀をかざした。
「いま、ご覧になったな?」
「はい。それで、わたくしを斬ってくださるので?」
「痴愚を申されるでないわ。」
十四郎はことさらに明るい声で、叱るようにいった。
「約定であったな。この御刀、たしかにいただいた。」
「え……?」
「あやめ。……あやめっ。」
十四郎は、短刀をまた投げ捨てた手で、あやめの両手を握りしめる。
「いま、心に決めた。誓う。……おれは、蠣崎新三郎慶広を討つ。いまの蝦夷代官、蠣崎若狭守を除く。そなたを大舘から救う。」
「……!」
「新三郎兄上を必ず討ち果たす。待っていてくれるか、あやめ?」
「待ちませぬ。」
「……?」
「あやめは、あなた様に合力いたしまする。納屋今井の微力をお貸し申し上げまするっ」
「……ありがたい。あやめ、元気になって、是非、お力添えありたい。」
「あやめは、いま、元気になりもうした。……いえ、今は、まだ……でも、必ず、もとのあやめに戻れまする。」
「おう、戻ってくれ。おれは、そのために立つ。」
「なにをおっしゃいますか。あなた様は、蝦夷島のため、蝦夷の民のために、お立ちになるのでしょう。そのために、わたくしは……」
「違うぞ、あやめ。そなたのためだ。」
新三郎を自分が討つ。それをみなければ、あやめのやぶれてしまった心をなおすことはできないのだと、十四郎は本当にそのことだけを考えていた。
新三郎への憤りや憎悪があるのか、と聞かれれば、あやめの危惧したとおり、この若者には実はそれは乏しかった。
だが、心の病というものがあることは、文明社会が築かれて以来の長い経験から、誰もが気づいていた。物狂いは祟りや因縁や憑き物で多くが説明されていたが、心気という言葉はある。心気の乱れ、衰えが身体の病も呼び、奇矯な言動や思考不調の原因にもなるともわかっていた。
(なんということだ。なんと哀れな……。きづくしに(心労のあまり)あやめの心は割れてしまったのか。おれのせいで、あやめは心も傷つけられて、血を噴いているではないかっ。)
「あやめ、……すまない。」
横たわって顔を手で隠しながら、とまらぬ嗚咽をもらしている。そのあやめを後ろから十四郎はかたく抱きしめた。あやめの手を顔から離し、両手を自分の両手でそっと覆う。
「……十四郎さま。滑稽でございます。」
「うむ、おれは、そうかもしれん。だが、滑稽というよりも、おれは」狡かったのだ、そなたに甘えていたのだ、と 十四郎はいいかけたが、
「ちがう、ちがう。わたくしですよ。あやめが滑稽に思えてなりません。」
あやめは、含むような笑い声を出した。
(このひとは、また、悲しいときに笑う……。)
十四郎はあやめの手を固く握った。
「やめてくれ。」
「まことに、滑稽の沙汰じゃ。おかしい、ふふ、おかしい。……ご無礼申し上げますとね、わたくしは、あなた様のほうを心配しておりましたの。コハルにいわれましてね、殿方て、意外に心弱い。手籠めにされたと知れば、哀れに思召してくださっても、とてもわたくしを抱くなどできなくなりはしないか、と。申し訳ありません。杞憂でございました。ありがたいことに、あなた様はお強い、おやさしい。わたくしを、愛して(可愛がって)くださる。ところが、手前のほうが、このありさま。相手の心配をしておられる身か。まったく、滑稽の沙汰……まことに滑稽じゃ……」
「あやめ。笑わなくていい。」
「わたくしは、十四郎さまのお胸に抱かれに、はるばるやってきた。それなのに、わたくしの躰が、十四郎さまを拒んでいる。こんなに、愛していただきたいのに。いまこうして腕の中に入れて下さっているだけでは、躰のほうも満足していない様子なのに。それなのに、どうしても……。」
あやめはまた泣き声になった。
「申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ。お許しください。」
(躰と、心か。)
(そうか、やぶれてしまっていたのだな。わたくしの心は、知らぬ間に、潰れてしまった。)
(わたくしこそが、弱い、脆い……)
(消えてしまいたい。)
あやめは切実に願った。
(十四郎さまが、いますぐ、そのお手で絞め殺してくださらないか? そうなれば、今のわたくしは無上のしあわせだが……)
十四郎の手は、あやめの震え続ける手から離れない。すっかり冷えてしまったあやめの背中に、男の胸と腹が温かく当たる。
「詫びるべきは、おれだ。あやめ、何度でもいう。すまない。」
「……申し訳、ございませぬ。」
「そなたは、謝ることなど……。」
「消えてしまいたい……。」
そのまま、あやめも十四郎も押し黙った。あやめは苦し気に目を閉じて荒い息をつき、十四郎は目を見開いて、なにか考えを追っている。
「あやめ。いうことがある。」少し待たれよ、といって、十四郎はあやめの手を離した。
あやめの裸の肩に薄物がかかる。十四郎は着衣をはおって、座っているようだ。あやめは起き上がろかと迷ったが、十四郎が再び寄り添って横たわった。あやめの顔の前に、鞘に納めた国光の短刀をかざした。
「いま、ご覧になったな?」
「はい。それで、わたくしを斬ってくださるので?」
「痴愚を申されるでないわ。」
十四郎はことさらに明るい声で、叱るようにいった。
「約定であったな。この御刀、たしかにいただいた。」
「え……?」
「あやめ。……あやめっ。」
十四郎は、短刀をまた投げ捨てた手で、あやめの両手を握りしめる。
「いま、心に決めた。誓う。……おれは、蠣崎新三郎慶広を討つ。いまの蝦夷代官、蠣崎若狭守を除く。そなたを大舘から救う。」
「……!」
「新三郎兄上を必ず討ち果たす。待っていてくれるか、あやめ?」
「待ちませぬ。」
「……?」
「あやめは、あなた様に合力いたしまする。納屋今井の微力をお貸し申し上げまするっ」
「……ありがたい。あやめ、元気になって、是非、お力添えありたい。」
「あやめは、いま、元気になりもうした。……いえ、今は、まだ……でも、必ず、もとのあやめに戻れまする。」
「おう、戻ってくれ。おれは、そのために立つ。」
「なにをおっしゃいますか。あなた様は、蝦夷島のため、蝦夷の民のために、お立ちになるのでしょう。そのために、わたくしは……」
「違うぞ、あやめ。そなたのためだ。」
新三郎を自分が討つ。それをみなければ、あやめのやぶれてしまった心をなおすことはできないのだと、十四郎は本当にそのことだけを考えていた。
新三郎への憤りや憎悪があるのか、と聞かれれば、あやめの危惧したとおり、この若者には実はそれは乏しかった。
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