えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ 誓い(五)

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……
 被さってくる、十四郎の左上胸に大きな傷痕があった。
 尋ねるまでもない。
(このお方も、苦しい思いをされた。おつらかった……)
 あやめは頭を持ち上げて、男の皮膚を深く穿った痕に唇を当てた。十四郎が、驚いたように軽くのけぞる。
「十四郎さま……痛うございますか?」
「痛くない。ただ、あやめにこんなものを見せたくはなかった。」
「わたくしは、見せていただいて、うれしうございます。わたくしの存知あげない、十四郎さまのお辛い日々を、ほんの少しだけ、知れた気がいたします。」
 おれの痛みや苦労などお前にくらべれば、とでもいいたげに、十四郎の目が無言で否定した。
 十四郎は、あやめの既に露わになった胸に、自分の唇を寄せた。
 今度はあやめが軽い悲鳴をあげて首を後ろに曲げた。
「痛い。十四郎さま、お髭が……」
 十四郎の蓄えた髭が乳房の肌を刺す。はじめて知る刺戟にあやめは驚いた。
「すまぬ……。痛かったな。跡が……」
「いえ、……少し、痛いのが気持ちよろしいかもしれませぬ。癖になってしまうかも。」
「えっ?」
「阿呆なこと、いうてるわ。」
 あやめはくすりと笑った。いまは自分の地の言葉を使ってみたい。
 あやめの目と手は、すでに十四郎の肉が充溢しているのを一瞬、たしかめていた。心中に、軽い安堵感がある。
 コハルがあやめの告白を厳に押し止めたとき、こんなこともいっていたからだ。
「殿方は、ああ見えて脆い。驚くべき話を聞いただけで心とともに躰も萎えて、おなごに対して使い物にならぬこともあるのです。女を無理やりに盗まれた、などというときに、女が哀れだ、いとおしいと頭で思っているのに、躰が使えなくなる状態に陥ることもある。御寮人さまは、みずからそんな話を御曹司さまにされようとしているのでございますよ。」
(コハル、心配なかったよ。十四郎さまは、いまわたくしを愛して(かわいがって)くださっている。)
「きれいだ……あやめ。そなたは何も変わっていない。」
 あやめの肌を、十四郎の手と唇が撫でていく。

(……おや?)
 あやめに違和感があった。記憶と、自分の中での反応が少し違う。
 陶酔は近づき、恥しいくらいに豊かに潤いはじめているのだが、躰の奥に何か、引っ掛かりのようなものを感じる。十四郎との記憶のなかはもちろん、最近のあの男との閨でも感じたことがない。
 あやめのなかで、十四郎の指が動いている。受け入れて、あやめの息があがりそうになる。そっと男の手を触った。それが合図だった。
 いまもそれは十四郎に通じた。十四郎はあやめの伸びた足の間に身体を移す。
 そのとき、異変が生じた。
 十四郎の肉が近づいたとき、あやめの躰が瘧のように震えだした。刺さり、入っていこうとするものを避けるように、激しく動揺する。
 あやめは驚きに目を見開いている。
(どうしたのだ、これは? なに?)
「あやめ、落ち着かれよ。……はじめての時のようだ。あやめ殿。」
 十四郎は微笑んだ。
「そんなはずは、ございませぬ。」
 震えがようやく収まり、あやめはまた、十四郎を迎える姿勢をとる。
「よろしうございます。」
 十分に濡れた部分は十四郎の肉の先端を受け入れた。その瞬間、あやめは低い悲鳴とともに痙攣した。激しく引きつけたようになる。こわばり、息が止まりそうに思える。
「どうした?」
 あやめは天の一点を睨んだかのようになって、硬直している。
(そんな……っ! なに? こんなことが?)
「……あやめ、平気ではないな。長旅で、そなたは疲れておられるのだ。今宵は、もう眠ろう。そなたの寝顔を見せてくれ。」
「十四郎さま、お願いでございます。私には、今宵しかない。どうか、どうか今一度、お試しくださいませ。」
 あやめは脂汗が滲んでくるのに戸惑いながら、哀願した。
 十四郎は途方に暮れた表情になったが、笑顔をつくった。またひとしきり、あやめの柔らかい肌を愛撫する。あやめが切なさを訴えるまで、励ますようにやさしく撫で、舐めた。
「もう、……もう、たいらぎ(治り)ました。平気でございます。どうか、いま一度……」
 あやめが目を薄く開いて訴える。十四郎は押し入ろうとしたが、あやめの躰だけが無言で拒絶した。激しくひきつり、息が一瞬とまり、あやめは当惑を通り越して恐怖の表情を浮かべた。
「お願い、お願いにござります。」
 あやめは、あの男との夜はできる限り忌避している姿勢までみずからとり、十四郎を導こうとする。だが、無駄だった。あやめの躰は浅く入られると同時にがくがくと激しく震え、より深いつながりを明らかに嫌がった。
 無理をして高く上げた尻を抱え込ませるようにして、突き刺すようにと懇願したとき、床に這ったあやめは、ついには吐いた。少量の食べ物を吐き、吐き気が止まらずに胃液まで最後はあげた。
「あやめ、あやめっ。……心配でならぬ。おれはいいんだ。今宵は休もう。」
 口を拭わせて、水を、……と立ち上がった十四郎が、まるで立ち去っていくように思えて、あやめは悲鳴をあげた。
「厭っ。厭でございます。厭じゃあっ。」
「そんなことでは……」
 吐き気を何とか抑えさせ、脂汗にまみれた躰を拭いてやりながら、十四郎は、あやめがまた哀れでならない。
 茫然としたのか、男の手になされるがままになっている。そのあやめの躰が、まだ小刻みに震えているのをみて、十四郎は、その震えをとめられないかと、背中から抱きしめる。
 あやめはまた泣き出した。
「どうして……? どうして……?」
「疲れているのだ。」
「……まさか、大舘で薬を盛られているのでしょうか?」
「案じずともよい。そのような薬はあるまい。」
 十四郎は蠣崎家の人間としての、ひととおりの毒の知識はある。山丹貿易で入ってくる中国の薬物も知っていた。 そのなかには、たしかにひとの精神に働く恐ろしい薬があるとも聞いていた(誰あろう、新三郎から聞いたのだ)。 だが、あやめのこの様子を、毒などでは説明できないだろう。
「……憑りつかれているのでございましょうか?」
「憑りつく?」
「大舘で、怨霊をみました。」
 あやめは、十四郎の長兄たちを毒殺した女の姿を見た経験を話した。
 十四郎は戦慄している。
 怨霊を恐れてのことではない。この戦国の時代の武士には、割り切った現世的な即物主義の感覚があり、十四郎もそれを共有していた。もちろん近代的な合理主義とは違うものだが、結果的にそれに似たものになる。合戦という現実の殺し合いに身を置く者には、きっと必要だったのであろう。さらに、ほんらい怪力乱神を語らないという、読書階級が幼いうちに触れる道徳もあった。武将にあたる者でもあれば、神仏を信じないではないものの、霊魂や祟りなどよりも、目に見える現実的存在の優先度が高い。
「姉の怨霊など、……心配するに足りぬ。ちゃんと、祀られているのは申した。それに、もしそなたが見たとおりだとすれば、そなたに祟らねばならぬ道理はない。案ずることはない。」
「ならば、なんでえ?……」
 あやめは躰を曲げてむせび泣く。
 震え続ける肩を抱きながら、十四郎は気づいていた。戦慄したのは、そこだ。
(あやめの心はやぶれている。)
 精神が壊れているのだ、と思った。

 
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