えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ  誓い(二)

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「あなたはオンゾウシの妻だが、どうかかれに私のところで働くようにいってくれないか。」  
(妻、といったな。もう、そうなっているのか。十四郎さまがそういったか。)
 あやめは顔をやや赤らめた。
「いや、わたくしはかれの妻ではない。」
 まだ、をいい忘れてしまった。
「そう聞いているが? ゴリョウニンサマが妻だと。」
「わたくしは、かれの、……そう、姉のようなものです。」
「そうなのか。だが、姉弟なら、なおさらにいってやってくれ。イシカリよりも、ヨイチのほうが豊かだ。オンゾウシも知っておろう。」
「御寮人さま、だいたいなにをいわれたか、わかり申した。いまさら、照れることもない。」
「アイノの地も、いまや群雄割拠のようじゃな。」あやめはコハルの言を無視する。「十四郎さまの武勇を買いたい者が多いというは、そういうことよ。」
「この八郎右衛門さまなどは、蝦夷島に覇を唱えようという気がおありなのですか。」
「聞いてみたいな。……あなたは蝦夷島の王になりたいのですか?」
「思いもよらぬことだ。わたしは商人だ。あなたと同じだ。ゴリョウニンサマも商人なのであろう? 王になどなりたくない。わかるはずだ。」
「商人もまた、身を守ることは必要です。」
 あやめは権力の恐ろしさをいいたかったが、語彙が乏しくてうまく言葉が出てこない。
「そうだ、だからオンゾウシが欲しいのだ。」
 八郎右衛門は笑った、
「……じゃと。」
「商人と申されましたか。」
「いわれたな。」
 あまりにも広大な規模の交易に従事するのに懸命で、またそれに自足もしているらしいこの八郎右衛門はともかく、やはり蝦夷島にはこれまでにない、離合集散から統一を目指す動きがあるのだろう。でなければ例の“惣大将”などというものが出てこないだろうし、イシカリやユーハリといった土地のアイノは、八郎右衛門のようにまずは山丹交易の護衛が欲しいだけではなさそうである。
(世の乱れがここにまで伝わったというべきか。あるいは、天下一統の機運が及んだというべきか。)
 存外に自分の言葉は通じる、と思ったあやめは、見栄えのよく、強い男を二人、貸してもらいたいのだといってみた。八郎右衛門は二つ返事で引き受けてくれたので、まずはここに来た意味はできた、と安堵する。

 その時、有髭の背の高い男が、駆けつけた格好で宴席に加わった。小さな影が、そのあとを追って入ってくる。
 すでに日没が近く、アイノらしい姿が薄暗がりの中に見えるだけだった。
「オンゾウシ!」八郎右衛門が立ちあがった。「ここだ。あなたの姉がここで待っている。」
 あやめは中腰になった。
「姉?」
 アイノの装束の髭の男が、宴客たちをかき分けるように近づいてくる。小姓らしき小さな影を連れている。
 あやめはその場で平伏して待つ。コハルも慌ててそれに従った。
「御寮人殿?」
 十四郎の声が降ってきた。あやめの顔が歪んだ。笑みを作らなければならない。
「とうとう会ってしまいましたね。」
 顔をあげたあやめは、なぜか反射的にアイノのことばで、へんな挨拶をした。十四郎は、どうやら何ともいえぬ複雑な表情のようだ。
「はい、きっとまたお会いできると思っていました。」
 十四郎も同じく、妙な挨拶になる。八郎右衛門たち、周囲のアイノがいぶかしげな顔になる。
「オンゾウシ、久しいですな。わたしたちは構わないので、シサムの言葉で二人は喋りなさい。」
「ありがとう。そうする。……あやめ殿、お変わりない。少しもお変わりない。」
(そういう十四郎さまこそ、お髭とアイノの姿であっても、お変わりがないようだ。)
 あやめは痛いほどにうれしかったが、それにくらべて自分はどうだ、と思わざるをえない。
「……もう、ずいぶん変わってしまいましたことよ。」
「なにをおっしゃる。どこがでござるか。」
 コハルが慌てて口をはさんだ。
「御曹司さま、おひさしうございまする。ご武運何よりでございました。」
「コハル殿。まったく久しい。悪運強く、なんとか生き恥をさらしておる。……変わってしまった、とおっしゃったが?」
「御寮人さまももう二十三におなりですよ。」
「わたくしはまだ二十二じゃ。」
「また、姉などといわれていましたな。」
「そもそもは、御曹司さまがそういわれたのでございます。お忘れですか?」
「そうであったかな。」
「まあ、情のお薄いこと。」
 三人で笑った。こうした他愛のないやりとりに、あやめは懐かしさがこみ上げてくるようであった。胸がつまった。
「いま、ゴリョウニンサマは、わたくしのココロヅマのくせに姉などと嘘をついていたのを、笑った。」
 十四郎が八郎右衛門に説明する。
(心妻(恋人)……!)
「やはりツマではないか。ゴリョウニンサマは、恥ずかしがりなのですか。」
 八郎右衛門も、頬を染めたあやめをみて、おかしそうに笑う。
「ならば、こうした場にずっといさせるのは、夫婦のお二人に気の毒だな。……ここを出たところに、小屋を用意させている。余人まじえず、ゆっくりと、お話あるがよい。」
 そういわれて、いそいそと立ち上がるのも面映ゆいのだが、八郎右衛門が笑い、十四郎の肩を親し気に叩いて、席を外してくれようとした。

 その八郎右衛門は立ち上がったところで、十四郎についてきた小姓姿に声をかけた。
「おぬしは、またそのような格好をしているのかい。」
「オンゾウシさまの従者でございますので。」
 少女の声で返事があった。
(あの少女か。御曹司さまについてきたな。)
 コハルは思い出す。
「御曹司さま、ずいぶん可愛らしいご小姓さまでございますな。」
「イシカリの、世話を受けているアイノの長の家の娘じゃ。」
「ほう、ではおひいさまとお呼びしなくてはならぬ。おひいさま、この顔をお見知りおきでござろう?」
「おぼえております。」
「お話しくださいますか。」
 少女の目が、十四郎があやめと立ち上がる姿を追うのをみて、コハルは話しかける。言葉のわかる者に席に残って貰いたいし、イシカリとかいう土地での十四郎について探っておかねばならない。
(それに、お二人の邪魔をさせたくはない。)
「ゴリョウニンサマとは、思った通り、あれだったのか。」
「言葉がお上手におなりでございますな。左様ですよ。手前のご主人さまでございます。会われるのは、二度目か。……“あれ”というのは、おひいさま、言葉としてはよろしからずと存じます。」
「オンゾウシのココロヅマになったのか。あのおひとが。」少女は涙ぐんでいる。潤んだ眼を、二人が案内されて去っていった方にやる。
(おや、おや。まさか、御曹司さまがこんな子どもに手をつけたとも思えぬが。)
「こっそりお教えください。おひいさまは、御曹司さまがお好きなのでございますね。」
「こっそりでなくてよい。好きです。イシカリで、婿にしたい。」
(蠣崎十四郎の果報者よ。幸い人よ。)
 コハルは呆れるような気がしたが、
(女ごだけにではないのだ、あのお方は……)
と思い出した。
(何も持たぬ、部屋住みの、異相の若者でしかない御曹司さまの、ひとかどならぬ世覚え(人望)のよさ。あれが、あの方の恐ろしさではないか。)
「イシカリでは、御曹司さまは大変な思い入れ(人気)でございますか。」
「左様。父上は、村の、村々の……さい、……宰領を、オンゾウシに任せたいのだ。わたくしと夫婦になれば、宰領だけではない。村を持てる。」
 わかりにくいが、意は通じた。蠣崎十四郎は用心棒や傭兵を越えた役目を、イシカリ周辺、いやこのヨイチも含めて広く唐子のあちらこちらのアイノ社会で期待されるようになっているらしい。
客であるがゆえに、しがらみがない公正な調停者、いわば執政官として君臨する立場というものがある。
(雇われの殿さま、といったものだ。そうした者を必要とするところに、蝦夷の世は動いているらしい。)
「御曹司さまは、どういわれているのでございましょう?」
「わたしはまだ子どもだとオンゾウシは笑うのだ。」
 少女は泣かんばかりの顔つきになる。気の毒に、と思いながらも、コハルは別のことを聞かねばならない。
「いえ、その、村々の宰領を執られるというお話です。おひいさまの御父君がそれを頼まれた。他の長の方々もいわれているのでしょう。御曹司さまは、それを受けられたのですか?」
「今日。」
「きょう?」
「今日、お決めになる。行く道、そういわれた。」
(御寮人さまとお会いになってのこと、か。)
「どうするのであろうか。このまま、イシカリにお帰りにならぬのではないだろうか。」
(蝦夷地を墳墓の地と決められたのでは、いささか困るのだが……)
 コハルは思ったが、この小さなおひいさまの黒々とした瞳が涙にキラキラと光っているのは、美しいと感じざるをえない。
「おひいさま。御曹司さまがおひいさまをここで見捨ててお帰りとも思えません。ご安心あれ。送り届けてくださるでしょうから、ご一緒はできますよ。」
「そのあとはどうなる。」
「……それは御曹司さまのお心次第。たれにもわからぬことです。御曹司さますら、まだおわかりではございますまい。」

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