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二の段 蠣崎家へのほうへ 誓い(一)
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あやめは船の上にある。夏の終わりで、北国の午後の陽がなお高く、水面をギラギラと輝かせている。その水面は、いつも乗り慣れた大型の和船よりもずっと近い。
松前を出た今井の持ち船は、対岸・津軽の湊に寄った。そこであやめとコハルは何食わぬ顔で下船し、北に向かう蝦夷船に乗り換えていた。帆を張った大きな板綴り船を、八人が漕ぐ。
松前から連れてきたはずのアイノが、揃って湊で脱走してしまっていた。上方などに行きたくはなかったのであろう。もちろん、裏からコハルが手引きしたものだが、そうとは知らぬ目付け役の侍、村上某は青くなった。このままでは切腹ものである。
「ご案じなさいますな。村上様がどの蝦夷を率いられるか、ご先方から指定があったわけではござりませぬ。」
あやめは、いかにもこっそりと耳打ちしてやる。
「別の蝦夷を連れてきてくれるのか。」
村上は、救われたような声を出す。
「ただ、奥州の蝦夷ではなりますまい。あれらは和人の風に染まりすぎている。後々、ごまかしにくい。……やむをえませぬ。やはり、蝦夷島から蝦夷らしい蝦夷を連れてまいりましょう。」
「そこまでしてくれるか。かたじけない。」
「なに、納屋の手落ちでもございますから、大舘様に知られたくないのは同じでございまする。くれぐれもご内密に。……内緒でございますよ。」
「むろんのことだ。」
「秋田でお待ちくださいませ。」お酒でも飲んでごゆるりと、とあやめは共犯者めいた表情をつくった。
ヨイチに向かう。蝦夷船の船頭は海峡の潮を上手に読み、一気に沖を走って上ノ国の海岸沿いに出た。右手遠くに松前の北のごつごつした崖が見えるようになるまで、コハルなどですら、生きた心地もしなかった。
「御寮人さまは、蝦夷の言葉がおできになられていたか。」
船の揺れから気をそらせたいコハルは、アイノの漕ぎ手に話しかけ、笑いを引き出しているあやめに尋ねた。
「片言だが。……ああ、すずめ(大舘の侍女)から、ぼつぼつと習っている。少し思い出してきた。いまさらではあるが、これから必要となるかもしれぬ。」
「お上手で驚きましたが。」
「そんなことはない。過褒じゃ。」あやめは首を振る。「十四郎さまもお教え甲斐がなかったであろうな。わたくしは、異国の言葉は不得手なのだ。子どもの頃、南蛮語もいっこうに身につかなかった。」
「あの奇態な字をお覚えではないですか。」
「あれは、数の字だけだ。覚えようとすればたれでもできる。コハルにも教えようか? おもしろいぞ。」
「結構にございますが。……エサシには寄るのでございましたね?」
コハルは懸命に遠くの海に目をやっている。
「もしも船頭が沖をもっと走りたいといっても……頼んでみねばなるまい。なるべく早くは着きたいが、しかし、……」
あやめの顔もやや青い。
「御寮人さまの蝦夷ことばが頼りでございますよ!」
結局何日もかけて、ヨイチの湊に寄せた。唐子から蝦夷千島、カラフトを経て山丹に至る大交易圏の基点である。
ここを抑えているのは、八郎右衛門という和名を名乗るアイノの長であった。いまイシカリあたりのアイノに身を寄せているらしい十四郎を、よく知るようだ。
「オンゾウシから頼まれたのは、うれしいことだ。」
あやめとコハルは歓待を受けた。八郎右衛門みずからが賑やかな宴を開いてくれた。
八郎右衛門の居館は、広壮であるといえた。アイノ式の住居だが、和人の家の影響もある。あやめたちはわざわざ畳の上に座らされた。
集まったアイノの男たちが、しきりに米の酒を飲んでいる。なにが入っているのかはわからないが、南蛮酒のガラス徳利まであるのが、あやめの目には懐かしかった。交易で暮らすこのあたりのアイノの生活には、すでに米や酒が当然のように入っている。
「この中から二人、士を出してもらわないといけないのですな。御寮人さま、よろしくお伝えください。」
「御曹司さまにお願いする。」十四郎の姿がまだ見えず、八郎右衛門に尋ねてもやや埒があかないので、あやめは気が沈んでいる。「わたくしの蝦夷ことばでは、すこし難しい。」
「オンゾウシサマ。」
十四郎の話だと気づいた八郎右衛門が大声を出した。嬉しそうにまくしたてる。
あやめがそれを聞き、微笑む。
「なにを申しておるのですか、八郎右衛門殿は。」
「御曹司さまは、英雄だと。唐子のみならず日ノ本にすら、御曹司さまの名は知られるようになっていると。」
八郎右衛門がいうには、戦には勝てなかったものの、寡兵であの“惣大将”を斬った「オンゾウシ」の名は、アイノの長たちのあいだで、いまや高い。自分も含め、多くのアイノの長がその武勇を買いたがっている。
「ほう、ひとの才を買うほどの土地ですが、こちらも。」
蝦夷地などよほど遅れたところだとどうしても思っているコハルには、意外だった。
(十四郎さまにとって、ポモールの村での戦いは、とんだ桶狭間であったか。)
織田信長のすでに伝説的な出世の契機を思い起こし、あやめは少し誇らしいような気分もおぼえたが、すぐに十四郎は同族の女も斬ったのだと思い出す。
松前を出た今井の持ち船は、対岸・津軽の湊に寄った。そこであやめとコハルは何食わぬ顔で下船し、北に向かう蝦夷船に乗り換えていた。帆を張った大きな板綴り船を、八人が漕ぐ。
松前から連れてきたはずのアイノが、揃って湊で脱走してしまっていた。上方などに行きたくはなかったのであろう。もちろん、裏からコハルが手引きしたものだが、そうとは知らぬ目付け役の侍、村上某は青くなった。このままでは切腹ものである。
「ご案じなさいますな。村上様がどの蝦夷を率いられるか、ご先方から指定があったわけではござりませぬ。」
あやめは、いかにもこっそりと耳打ちしてやる。
「別の蝦夷を連れてきてくれるのか。」
村上は、救われたような声を出す。
「ただ、奥州の蝦夷ではなりますまい。あれらは和人の風に染まりすぎている。後々、ごまかしにくい。……やむをえませぬ。やはり、蝦夷島から蝦夷らしい蝦夷を連れてまいりましょう。」
「そこまでしてくれるか。かたじけない。」
「なに、納屋の手落ちでもございますから、大舘様に知られたくないのは同じでございまする。くれぐれもご内密に。……内緒でございますよ。」
「むろんのことだ。」
「秋田でお待ちくださいませ。」お酒でも飲んでごゆるりと、とあやめは共犯者めいた表情をつくった。
ヨイチに向かう。蝦夷船の船頭は海峡の潮を上手に読み、一気に沖を走って上ノ国の海岸沿いに出た。右手遠くに松前の北のごつごつした崖が見えるようになるまで、コハルなどですら、生きた心地もしなかった。
「御寮人さまは、蝦夷の言葉がおできになられていたか。」
船の揺れから気をそらせたいコハルは、アイノの漕ぎ手に話しかけ、笑いを引き出しているあやめに尋ねた。
「片言だが。……ああ、すずめ(大舘の侍女)から、ぼつぼつと習っている。少し思い出してきた。いまさらではあるが、これから必要となるかもしれぬ。」
「お上手で驚きましたが。」
「そんなことはない。過褒じゃ。」あやめは首を振る。「十四郎さまもお教え甲斐がなかったであろうな。わたくしは、異国の言葉は不得手なのだ。子どもの頃、南蛮語もいっこうに身につかなかった。」
「あの奇態な字をお覚えではないですか。」
「あれは、数の字だけだ。覚えようとすればたれでもできる。コハルにも教えようか? おもしろいぞ。」
「結構にございますが。……エサシには寄るのでございましたね?」
コハルは懸命に遠くの海に目をやっている。
「もしも船頭が沖をもっと走りたいといっても……頼んでみねばなるまい。なるべく早くは着きたいが、しかし、……」
あやめの顔もやや青い。
「御寮人さまの蝦夷ことばが頼りでございますよ!」
結局何日もかけて、ヨイチの湊に寄せた。唐子から蝦夷千島、カラフトを経て山丹に至る大交易圏の基点である。
ここを抑えているのは、八郎右衛門という和名を名乗るアイノの長であった。いまイシカリあたりのアイノに身を寄せているらしい十四郎を、よく知るようだ。
「オンゾウシから頼まれたのは、うれしいことだ。」
あやめとコハルは歓待を受けた。八郎右衛門みずからが賑やかな宴を開いてくれた。
八郎右衛門の居館は、広壮であるといえた。アイノ式の住居だが、和人の家の影響もある。あやめたちはわざわざ畳の上に座らされた。
集まったアイノの男たちが、しきりに米の酒を飲んでいる。なにが入っているのかはわからないが、南蛮酒のガラス徳利まであるのが、あやめの目には懐かしかった。交易で暮らすこのあたりのアイノの生活には、すでに米や酒が当然のように入っている。
「この中から二人、士を出してもらわないといけないのですな。御寮人さま、よろしくお伝えください。」
「御曹司さまにお願いする。」十四郎の姿がまだ見えず、八郎右衛門に尋ねてもやや埒があかないので、あやめは気が沈んでいる。「わたくしの蝦夷ことばでは、すこし難しい。」
「オンゾウシサマ。」
十四郎の話だと気づいた八郎右衛門が大声を出した。嬉しそうにまくしたてる。
あやめがそれを聞き、微笑む。
「なにを申しておるのですか、八郎右衛門殿は。」
「御曹司さまは、英雄だと。唐子のみならず日ノ本にすら、御曹司さまの名は知られるようになっていると。」
八郎右衛門がいうには、戦には勝てなかったものの、寡兵であの“惣大将”を斬った「オンゾウシ」の名は、アイノの長たちのあいだで、いまや高い。自分も含め、多くのアイノの長がその武勇を買いたがっている。
「ほう、ひとの才を買うほどの土地ですが、こちらも。」
蝦夷地などよほど遅れたところだとどうしても思っているコハルには、意外だった。
(十四郎さまにとって、ポモールの村での戦いは、とんだ桶狭間であったか。)
織田信長のすでに伝説的な出世の契機を思い起こし、あやめは少し誇らしいような気分もおぼえたが、すぐに十四郎は同族の女も斬ったのだと思い出す。
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