えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ 輝ける罠(一) 

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 大舘の書院でのあやめは、かわらず納屋の御寮人である。上方の情報通というだけではない。天下権力の中枢に近く侍る、豪商今井宗久の末娘である。
 おそれながらお人払いを、と促され、新三郎はその腹心のみを残してあやめの提案を聞いた。昂揚を抑えきれない。
(位階官職だと。)
 あやめがいうには、次の天下はどうやら羽柴筑前守で固まりつつある。信長の跡を継いで安土に入れた信雄が秀吉の主であり、新たな天下人を気取るようだったが、どうやら長続きはしない。秀吉は大坂を拠点として、天下の覇権を織田家から簒奪することになるだろう。
「羽柴筑州が天下人になるのか。」
 新三郎の問いに、あやめは頷いた。そしてあやめにとって肝心な話をもちかけたのだ。
 源頼朝、足利尊氏のごとく征夷大将軍となるにせよ、平相国(太政大臣平清盛)のように朝廷そのものに添うにせよ、新しい天下様はかつて将軍がそうし、信長公も同様であったように、大名には官位を与えるであろう。
「いま、おやかたさまのお名乗りは若狭守。ご隠居様からお引継ぎでございますが、あくまでご受領名。いいにくきことなれど、畢竟はご私称にすぎませぬ。蝦夷島の主たる蠣崎のお家が、今後も無位無官はおかしうございます。」
「控えよ。我らはあくまで安東様の家臣である。」
「ごもっともに存じまする。」
 あやめはおそれいって平伏し、黙っている。
(官職か!)
 官位を得れば、自動的にこの身は大名格ということにならないか。天下人の直属、朝臣としては、檜山屋形こと安東侍従と同格、もはや臣下ではないではないか。
 あやめの長い髪の小さな頭がいつまでも黙って伏せられているので、新三郎はしびれをきらした。
「納屋。あい許す。面をあげよ。」
「はっ。」
「とはいえ、天下人に誼を通じるのは武家として当然。それは秋田のお家のためにもなろう。」
(見え透いたことをいいおるわ。)
 あやめは少し腹立たしくなって、
「お武家様のことは、手前など、存じあげ奉りませぬが、……」
(おや、つむじを曲げよったかな?)
 日ごろ躰を自由にしているという気安さで、新三郎はつい松前納屋の主人を馴染んだ生身の女と重ねがちであり、結果、あやめを甘くみてしまう。
「納屋に考えがあろう。聞かせるがよい。」
「畏れ多くございますが、申し上げまする。この際、奥州のお殿様方に先んじて羽柴築州さまにご挨拶をお送りしては如何でしょうか。」
「前田さまを通じて、ご挨拶はすでにあるが、不足か。」
「手づるはいくつもありました方がよろしいかと。前田さまに蝦夷の兵をお貸しになり、東海でのご出兵にでもお使いになられれば、筑州さまのお目にとまるやもしれませぬ。また、幸い手前どもの主人、堺の今井宗久は、筑州さまに茶を以てお召抱えいただけるとのことでございまする。」
「おお。おぬしの父が。」
(馴れ馴れしく父などといいおって。)
 あやめは内心で厭な気持ちになるのを表に出さず、にこりとして頷いた。
「ただ、羽柴さまもいまだに筑前守。奥州を北より抑える忠臣にお目をおかけくださるのは、まだ先かと。故右大臣家のお跡目をめぐる争いはおさめられ、西国、四国、九州までもお平らげになるは近いとは申せど、東海には(徳川)三河守さま、関東には小田原(北条)さま。まだまだ奥州御仕置きは先でございましょう。蝦夷島に蠣崎さまがあって心強いとお気づきになるのは、はやくとも関東に兵を進められてからでございましょう。」
「思うたよりもゆるゆるとした話じゃが、手を先に先に打っておけ、そうでなくては、いざ筑州さまが関東から北をにらんだ時には遅い、というのじゃな。」
 あやめは無言でおそれ入って見せる。
「よかろう。話を進めよ。」
「では、夏の戻りの船にて堺に赴き、主人宗久に伝えまする。」
「あやめ、おぬしが行くのか。」
「たれかが宗久に囁かねばなりますまい。……この納屋の末娘ではいけませぬか?」
 新三郎は少し考えていたが、よかろう、といった。思いついて、上方で要るに違いない工作費の話を出したが、あやめは笑って首を振る。お気遣いなさるには及びませぬ、という。
「お気づきの通り、多少はお公家さま方へのご挨拶がありましょうが、それはいずれのこと。また、そのさいに……」
「それでよいのか。……もちろん、今井殿に手元不如意の心配もあるまいが……」
 あやめは薄く微笑んでみせた。
「むしろ、お願いしたきは、お家のご系図などで。」
「そうしたものは要ろうな。」
 新三郎がなぜかにやりと笑った。
「お家は、若狭源氏武田様の流れ。蝦夷島にお渡りのご開祖武田信広公の御父君、若州お屋形さまこと大膳大夫陸奥守信孝公に遡るご系図などで、お家の尊貴を示す必要も出て参りましょう。」
「御寮人、よく覚えた。」
 新三郎はおかしげだ。
(あっ、この男、自分の家の由来などあまり信じてはおらんのか。)
「御寮人。よい機会だから教えておくが、津軽にも蠣崎という土着の家があってな。儂は若い頃、そこで世話にもなったことがある。甲斐源氏の裔をそれらも称しておったが、系図などあったかな? 信広公お渡りの前から蝦夷島にいた渡党の蠣崎という家は、どうもそこと関係があるらしい。そして、その信広公だが、……まあ、色々と調べさせてはおる。」
(こやつも、乱世の男じゃな。おそらく武田家の一子が蝦夷島に渡って来たなど信じておらんし、そもそも先祖の尊卑など大して気にしておらんのじゃ。)
「まことに結構なことと存じます。叙位任官のことともなれば、そうしたことも、いずれは入用になってまいりましょう」
「あいわかった。お家の来歴、系図などは、家中の詳しい者に、整えさせよう。」
「有り難き幸せにて。」

 新三郎はなにか上機嫌で、下げたあやめのつやつやした黒髪の頭を眺めていたが、
「しかし、御寮人。なにが望みじゃ。」
とは、気づいて聞いてみる。
「では、大舘にお仕えする蝦夷―アイノの士を二人ほどお選び下さい。敦賀より前田様のところに向かわせましょう。見栄えのよい、強そうな者がよろしかろう。次の戦で、筑州様のお目に入ります。そのお目付けをおひとり、お侍さまの中からお願いしとう存じます。」
「さにはあらず。蠣崎の家のために手を尽くしてくれようとするが、納屋今井殿としてはこのたび、それにて、なにを望んでのことか?」
「お尋ねを申し上げてよろしうございますか。……それは、ご褒美をくださるということで?」
「首尾よければ、無論、そのようなことになろう。」
 どのような存念があって、蠣崎を大名にする斡旋をしてくれるのか、と新三郎は尋ねたい。
「……ここでは、申し上げにくきこと。お人が……」
 あやめは微笑んで、低頭する。
 新三郎は何を勘違いしたものか、妙な表情になった。そばにいた弟や家老格の家臣らも、少し驚いた表情になるのは、新三郎と似たような考え違いをしたらしい。
 それに気づいたあやめは内心であきれた。腹立たしい。好色な新三郎の自惚れも、男どもが揃って自分という女を見損なっているのも、なんという愚劣さかとおもった。片腹が痛いとはこのことかと思う。
「松前納屋は新参にて、蝦夷地の商売はまだまだにてございます。蠣崎さまが天下さまの忠臣として唐子、日ノ本までにもご政道を及ぼされました暁には、今以上のお引き立てを、とお願い申し上げたく……。新参者の分際に過ぎた願い、お恥ずかしき限りにて……」
 営利の欲を打ち明けて恥じる口調にくわえて、頬すら染めんばかりの仕草をみせたのは、馬鹿が騙されよ、という内心の腹立ち紛れだ。
 新三郎は当てが外れたようなつまらぬ気がしたが、なるほど、蝦夷地でのなにかの特権をよこせといいたいのか、と得心がいった。それはそうだろうし、新三郎は内心でそのつもりでいた。鷹揚に首肯してやる。
 そして、ふとあることに勘付いた。商いの欲得だけでは、あるまい。
(あやめ、お前はまだ、十四郎のためにと、おれの機嫌をとるつもりか?)
 きっとそうだ、と得心がいくと、女に問いかける声が妙に濁る。
「堺に戻るのか。」
「左様でござりまする。」
「いつ松前に帰る。蝦夷下りの船は、次の春か。」
「はい。」
「とく(はやく)戻るがよい。」
 その口調に、おや、とあやめは思ったが、新三郎は続けて、胸をそらし、
「上ノ国の蝦夷どもの首を見せてやろう。」
 あやめは眉をひそめてみせた。
 おやかたさま、そのようなことを納屋殿の前で、と宿老の南条老人が袖を引くようにして、たしなめる口調でいう。官位のことを聞く前から、新三郎は、あきらかに気が横溢している。大規模な軍事行動の計画をたてているらしい。まずは近隣のアイノの勢力を削ぎたいのであろう。蠣崎家の宿願は、かつてこの半島全体に及んでいた渡党の旧領の回復であろう。その手始めなのだ。
(早ければこの秋までに? 冬になれば兵はなかなか出せぬから、まさしく春か。)
(よい具合に調子にお乗りだ。そうでなくてはならぬ。)
 ところが、どうしたものか新三郎は、妙にしみじみした口調でいった。
「村こそ違おうが、不逞のアイノは皆、弟の仇にも思える。」
(なにをいいやがる。)
 あやめの中で怒りが炸裂した。十四郎がアイノと戦って死んだと思っているのは結構だ。だが、そこまで弟を追いこんだのは、ほかならぬ自分だと忘れているとしたら許せない。
 あやめはつい、硬い表情になるのを抑えきれない。それを隠そうと、やや低頭する。
 新三郎は、そのまま押し黙ってしまったあやめをみると、何やら考えている様子だったが、
「今から、儂らはその話になるのじゃ。まずは下がっておれ。」
(まずは、か。)
 あやめは嘆息する思いだ。
(今宵は帰れぬか……)
 
 
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