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二の段 蠣崎家のほうへ 小さな琥珀の玉(二)
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その日、大舘で夜を過ごして戻ったあやめは、あまり休むこともない。まず留守中のことを番頭から手短に尋ねると、あとは奥の自分の部屋にひとりで籠もることが多い。躰の節々がまだ重いが、南蛮机で脚を伸ばして、自分の帳をめくりながら細い筆を動かしていると、新三郎の相手をした昨夜の無惨が忘れられた。
大黒帳の漢数字をどうあってもそのまま自分の帳の南蛮数字に置き換えられるわけではなく、写しかえるたびに概念も飛躍をともなうが、そこがあやめの才や閃きの働くところであった。
あやめは近頃、カド、こちらでいうニシンという魚に商機があるとみている。塩漬けや干し魚にしようというのではない。その手間は、このさほど人気のない魚には、これ以上は惜しい気がした。帳をつけてみると、そうであった。投資の必要は薄い。
(だが、もしもこの魚が木綿に化けることになれば……?)
大舘は店や屋敷よりも火の気がはるかに乏しく、「堺の方」の部屋では綿入れが手放せなかった。このつらいばかりの三度目の冬から、木綿に考えが及んだ。
あやめの持つ綿入れのなかの綿は唐でつくられたものだが、すでに大和や河内で木綿栽培はかなりの規模ではじめられていた。最初から商品作物であり、すでに戦国の最大の混乱期が近畿では―天下統一の大きな戦こそ絶えないが―すぎ、政治的な安定下、市場経済社会への見通しが立っているのがわかる。
(木綿は、のびる。)
繊維製品としての綿は、あきらかに優れている。天下静謐がなれば、消費は必ず伸びる。それに応じて生産は拡大し、一大産地が遠からずできるだろう。
そして、干鰯を畑の肥料とすることは、すでに西日本の豊かな農村でははじまっている。ニシンを干鰯のように加工して土地に投じれば、木綿のとれが上がるのではないか。
(もっとも、堺の今井自身が棉作に手を出すわけではない。出してもいいが、わたくしたち松前納屋にやれるのは、ニシンを干鰯の代わりになる肥料のかたちで西へもっていくことだろう。)
(だが、高価な肥料をわざわざ買って棉作に専念する農家は、上方にもまだ少ないのではないか?)
(これを肥料にするにはどうする? そうしたワザは蝦夷島にはない。奥州にはあるのか? 連れてこれるか? 働き手は?)
あやめは自分の考えがまだひどく空想的であるのに気づいた。そして、木綿のことばかり考えたのは、温かい故郷の土地へのあこがれからかもしれないことに考えが及んだ。
(やはり、気が弱っているか。)
あやめはひとり苦笑した。それほどうれしくも楽しくもない少女時代の思い出が沁みついている堺や、長じて納屋の一族経営の末端で、女だてらにと白眼視されながらじたばたと飛び回っていた頃にみた上方のあちらこちらが、なにもそれほど懐かしいわけではない。
あやめが飛んで帰りたい過去は、この地での最初の冬、天正八年の冬であり、一昨年、天正九年の秋から冬であった。十四郎と共に過ごした松前に帰れるものなら帰りたいのである。
いや、あの日々に帰らねばならない、あれらの輝くような冬の日々をもう一度手繰り寄せたいという一心で、今はあがいているのだ。
(それにも、もう飽いたか、あやめよ。)
自嘲する癖が出た。
やはりひと眠りした方がいいのだろうと考えなおした。
賑やかな堺にある、瀬戸内につづく温和な海の色や潮の匂いを思った。濠を渡ると自分をとりまく、和泉や河内や摂津の野の濃い緑が、思い返すと目に眩しい。肥えた土の匂い、山あいの一面の田圃に吹き渡る爽やかな風、遠くに青くみえる、二上や葛城の優しい山並み。それらすべてが、たしかになつかしくてならないのがわかった。疲れているのだろうと思う。
(帰ってしまおうか。なにもかも振り捨ててしまっても、もう構わないのではないか。もう……)
「御寮人さま。」
コハルがやってきた。
「よいお知らせにございます。トクどんが湊から持って来よりました。」
コハルは眉をひそめた。あやめは筆を投げ出して、突っ伏している。眠っているらしい。
(身も心もくたくたになられているのだ。無理もない。)
「……コハルか? 起きている。すまぬ。折り目が立たぬ(行儀が悪い)が、このままで聴きたい。」
「御寮人さま。少しお休みになったほうがよろしうございます。」
「店のあるじが陽の高いうちから夜具に潜って寝ていては、示しがつきませぬ。」
腕を伸ばして目を閉じたままで、消え入りそうな声でいった。
「お体を壊します。」
「……」
「お夜着にお入りなされ。よい夢が見られるお話です。」
「……まさか?」
「左様でございますよ。」
「お戻りか? それは、寝ているわけにはいかぬな。」
あやめは体をすぐに起こした。コハルがにこにこ笑っている。
「山丹より、無事にヨイチの湊に戻られたそうです。いま、蝦夷船が伝えてくれました。」
「ああ。……」
あやめは突然の吉報に気が一瞬遠くなるほどだが、ふと気づいて、
「お手紙はあるかえ?」
「ございます。」
コハルの手に、白樺の木の皮で防水した小さな包みがある。
「読む。渡しなさい。」
「夜具でお眠りください。そうしたらお渡しします。」
「あのお方のお文を、寝ながらなど読めるものか。よこしなさい。……わかった。読んだら、きちんと眠る。それでよいであろう?」
「よろしうございます。」
大黒帳の漢数字をどうあってもそのまま自分の帳の南蛮数字に置き換えられるわけではなく、写しかえるたびに概念も飛躍をともなうが、そこがあやめの才や閃きの働くところであった。
あやめは近頃、カド、こちらでいうニシンという魚に商機があるとみている。塩漬けや干し魚にしようというのではない。その手間は、このさほど人気のない魚には、これ以上は惜しい気がした。帳をつけてみると、そうであった。投資の必要は薄い。
(だが、もしもこの魚が木綿に化けることになれば……?)
大舘は店や屋敷よりも火の気がはるかに乏しく、「堺の方」の部屋では綿入れが手放せなかった。このつらいばかりの三度目の冬から、木綿に考えが及んだ。
あやめの持つ綿入れのなかの綿は唐でつくられたものだが、すでに大和や河内で木綿栽培はかなりの規模ではじめられていた。最初から商品作物であり、すでに戦国の最大の混乱期が近畿では―天下統一の大きな戦こそ絶えないが―すぎ、政治的な安定下、市場経済社会への見通しが立っているのがわかる。
(木綿は、のびる。)
繊維製品としての綿は、あきらかに優れている。天下静謐がなれば、消費は必ず伸びる。それに応じて生産は拡大し、一大産地が遠からずできるだろう。
そして、干鰯を畑の肥料とすることは、すでに西日本の豊かな農村でははじまっている。ニシンを干鰯のように加工して土地に投じれば、木綿のとれが上がるのではないか。
(もっとも、堺の今井自身が棉作に手を出すわけではない。出してもいいが、わたくしたち松前納屋にやれるのは、ニシンを干鰯の代わりになる肥料のかたちで西へもっていくことだろう。)
(だが、高価な肥料をわざわざ買って棉作に専念する農家は、上方にもまだ少ないのではないか?)
(これを肥料にするにはどうする? そうしたワザは蝦夷島にはない。奥州にはあるのか? 連れてこれるか? 働き手は?)
あやめは自分の考えがまだひどく空想的であるのに気づいた。そして、木綿のことばかり考えたのは、温かい故郷の土地へのあこがれからかもしれないことに考えが及んだ。
(やはり、気が弱っているか。)
あやめはひとり苦笑した。それほどうれしくも楽しくもない少女時代の思い出が沁みついている堺や、長じて納屋の一族経営の末端で、女だてらにと白眼視されながらじたばたと飛び回っていた頃にみた上方のあちらこちらが、なにもそれほど懐かしいわけではない。
あやめが飛んで帰りたい過去は、この地での最初の冬、天正八年の冬であり、一昨年、天正九年の秋から冬であった。十四郎と共に過ごした松前に帰れるものなら帰りたいのである。
いや、あの日々に帰らねばならない、あれらの輝くような冬の日々をもう一度手繰り寄せたいという一心で、今はあがいているのだ。
(それにも、もう飽いたか、あやめよ。)
自嘲する癖が出た。
やはりひと眠りした方がいいのだろうと考えなおした。
賑やかな堺にある、瀬戸内につづく温和な海の色や潮の匂いを思った。濠を渡ると自分をとりまく、和泉や河内や摂津の野の濃い緑が、思い返すと目に眩しい。肥えた土の匂い、山あいの一面の田圃に吹き渡る爽やかな風、遠くに青くみえる、二上や葛城の優しい山並み。それらすべてが、たしかになつかしくてならないのがわかった。疲れているのだろうと思う。
(帰ってしまおうか。なにもかも振り捨ててしまっても、もう構わないのではないか。もう……)
「御寮人さま。」
コハルがやってきた。
「よいお知らせにございます。トクどんが湊から持って来よりました。」
コハルは眉をひそめた。あやめは筆を投げ出して、突っ伏している。眠っているらしい。
(身も心もくたくたになられているのだ。無理もない。)
「……コハルか? 起きている。すまぬ。折り目が立たぬ(行儀が悪い)が、このままで聴きたい。」
「御寮人さま。少しお休みになったほうがよろしうございます。」
「店のあるじが陽の高いうちから夜具に潜って寝ていては、示しがつきませぬ。」
腕を伸ばして目を閉じたままで、消え入りそうな声でいった。
「お体を壊します。」
「……」
「お夜着にお入りなされ。よい夢が見られるお話です。」
「……まさか?」
「左様でございますよ。」
「お戻りか? それは、寝ているわけにはいかぬな。」
あやめは体をすぐに起こした。コハルがにこにこ笑っている。
「山丹より、無事にヨイチの湊に戻られたそうです。いま、蝦夷船が伝えてくれました。」
「ああ。……」
あやめは突然の吉報に気が一瞬遠くなるほどだが、ふと気づいて、
「お手紙はあるかえ?」
「ございます。」
コハルの手に、白樺の木の皮で防水した小さな包みがある。
「読む。渡しなさい。」
「夜具でお眠りください。そうしたらお渡しします。」
「あのお方のお文を、寝ながらなど読めるものか。よこしなさい。……わかった。読んだら、きちんと眠る。それでよいであろう?」
「よろしうございます。」
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