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二の段 蠣崎家のほうへ 三度目の冬―奈落の底(七)
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新三郎が身づくろいをはじめても、あやめは横向きに転がったままだった。新三郎の位置から、濡れたあやめの叢に、流れ出した体液がこびりついていくのがわかる。顔は髪の下になかば隠れているが、息をしていることはたしかだ。
その息が、やがて大きく聞こえだし、嗚咽するように響きだした。
(また、泣きよるか?)
(どうしようもない。おれにはどうしようもないわ。)
打ち捨てて自分の寝所に行こうかと迷った末、せめて褥でもかぶせておくかと立ち上がると、女の様子が違う。
あやめは忍び笑いをしていた。涙を顔に残しているが、声を抑えて、おかしげに笑っていた。
(狂したか?)
「あやめっ。なにがおかしいかっ。」
あやめの乱心を打ち払う勢いで、新三郎は声を投げる。
あやめはゆっくりと起き上がった。全裸のままで、前を隠そうともせず、きちんと座り直す。
「これは失礼を。今宵はお帰りでございますか。」
笑いが顔にも息遣いにも残っている。新三郎が安堵したことに、あやめは別に狂ったわけでもないらしかった。それでも不審ではある。
「なにを笑っておったか?」
「いえ、思い出すと、今宵はおかしくて。」
「なにがおかしいというのか?」
「前の男のことがそれほど気になるとは、男の方は面白い。」
「なんだと?」
「この堺の、前の殿方のことを、よほどお気になさっておられるご様子でした。おやかたさまともあろうお方が、それは面白い、と。」
「……前の、と申したか。」
「左様でございましょう? すでに半年もこのありさまで、」とあやめははばかりもなく、あらわになった胸の前で手を広げた。「いったい、どういえと申されるので?」
ばさり、と薄ものが飛んできた。新三郎が投げたのである。
「慎まぬか。」
「申し訳もございませぬ。」
腕を通して、体の前を覆う。
「十四郎は、それを聞いてどう思うかな?」
女を試している。
「御曹司さま。」
あやめは呟いた。呼び名を口にのぼせたことでその表情に輝きがみえたので、新三郎は、やはり、と思ったが、
「……お懐かしい。」
「懐かしい、か。」
「お懐かしうございます。あのような恋は、もう二度と手前にはございますまい。まことに、お懐かしい……。」
「だが、死んだぞ。」
新三郎は、断言した。泣くか、と思ったあやめは、微笑んで首を振る。
「信じませぬ。」
新三郎は、慄然とする。
(ああ、こやつは、信じられぬのだ。信じたくないのだ……!)
「生きておられるはずがない。おれは、たいして役にもたたぬのを、たった三人しかつけてやらなかった。」
新三郎は、いい聞かせるような口調になった。
「村ぐるみで立ち向かったのかもしれぬが、相手の蝦夷は惣大将とか名乗っておった。おそらくは大軍。とてもかなわぬ。」
「鉄砲をお持ちでございました。」
「お前は……上方者は知らんのだ。蝦夷の兵は強い。あなどってはならぬ。鉄砲の音を聞いたら逃げ出すわけではないのだ。」
「左様かもしれませぬが、現に、お骨もおかえりではございませぬ。お亡くなりになったと、決まったものではございませんね?」
あやめは、言葉も表情も作る必要がない。嘘をついているのではなく、知ることを喋っていないだけだから、自然なものであった。
だが、あやめが薄い笑いさえ浮かべているのを、新三郎はじっと見つめて、やがて溜息をつくようにいった。
「わかった。生きておるとしても、……」
「はい、きっとお元気でいらっしゃいます。」
「いま十四郎がどこにおるのか、知らぬのであろう?」
(儂の手の者らすら、見つけられなんだ。)
(見つかるはずもない。死んだのだから……)
「はばかりながら、蝦夷地の奥とはいえ、納屋今井ならそれも調べられぬこともありますまい。が、……」
目を伏せた。察せよ、とでもいうかのようであった。自分の身がこうなってしまっていては詮無い、と思っているとでもいうのだろうか。いや、そうではあるまい、と新三郎は考えた。
(探したに違いない。手の者をやって、必死になってあいつを探したはずだ。)
(だが、見つかりはしなかったのだ。死んでしまった者の消息はわからぬ。)
(だから、探すのをやめてしまったのか。)
(あきらめるのが厭さに……?)
(愚かだ。それは愚かだぞ、あやめ……!)
「ようやく、納得したのか。」
「……はい。」
「わかったな。見つかるはずもない。土の下では……。」
「いえ、そんなことはございませぬよ。きっと、生きておられますから。ただ、……」
「ただ?」
「おやかたさまのお手がこの身に付いたのも、なにかのご縁でございましょうから。」
(嘘をつけ!)
新三郎は肚の中であやめを叱りとばした。声に出す気には、なぜかならない。代わりに、訊いてみた。
「だが、先ほどは、死のうとしたな。十四郎を想ってのことであろうが。」
「恥ずかしいきわに追い上げられては、女はもう狂っておりまする。」
あやめの頬が染まったかにみえる。
「あのようなときに、前の男の名を出すとは、やはり、あまりにも、むごうはございませぬか?」
「たしかにな。」
頷いてしまったのは、新三郎の負けであった。
「あのお方のお名前をあげるのは、もうご勘弁を。やはり、まだ胸が痛うございまする。」
「さにしよう。」
「恐悦に存じます。お約束にございますよ。」
「いや、あれは儂も面白かった。ときどきは十四郎の名を出して、お前をよい具合に泣かせてやろう。ただし、舌はもう噛むな。」
「ああ、なんとも、おむごいことを。」
(真情ではあるまい。)
新三郎は気づいている。
(方便であろう。だが、これが納屋の御寮人あやめではないか。斯様でなくてはならぬ。当分はこれの方が、よい。)
(新三郎めはこんな猿楽に騙されてはおらぬ。)
あやめは思っている。低頭した表情が物凄い。
(ただ、当分は騙されているふりをするだろうし、それで、こやつもわたくしも構わない。見え透いた罠を避けて賢しらぶっているうちに、いずれ、もっと大きな罠にかかるのだ、こやつは。)
のろのろと着衣を直しながら、傷ついた舌を出してみせたが、その「いずれ」の日の宛てがまだたたないことに、内心で打ちのめされる。新三郎にいった通り、十四郎の帰島の知らせがなく、行方を掴めていないことにあらためて思いを馳せ、思わず顔を両手で覆った。
「……御寮人さまが、そんな狂言をうち、お心を隠してまで、守りたい『図』とはなんであろうな。」
「おかしらがご存じでありましょう?」
「聞いてはいる。だが、そんなに待てるのかと思った。迂遠ではないか、と。」
「待たれるのでしょうな。」
「あてもまだ、何もないようなものだ。御曹司さまが無事にお戻りになって、それからなのだ。」
「今度こそ、と信じておられるのでしょうな。お帰りはある、と。」
「どうも、儂はいかんな。おぬしのほうが、御寮人さまのお心がわかるようだ。すまぬことであった。」
「なんの。わたしは、こうして御寮人さまと―いや、堺の方さまと同じ屋根の下にいるのだぜ、わかるよ。」面を伏せた。「あれほどの地獄に耐えられているのだ。よほどの御決心よ。」
「……」
その息が、やがて大きく聞こえだし、嗚咽するように響きだした。
(また、泣きよるか?)
(どうしようもない。おれにはどうしようもないわ。)
打ち捨てて自分の寝所に行こうかと迷った末、せめて褥でもかぶせておくかと立ち上がると、女の様子が違う。
あやめは忍び笑いをしていた。涙を顔に残しているが、声を抑えて、おかしげに笑っていた。
(狂したか?)
「あやめっ。なにがおかしいかっ。」
あやめの乱心を打ち払う勢いで、新三郎は声を投げる。
あやめはゆっくりと起き上がった。全裸のままで、前を隠そうともせず、きちんと座り直す。
「これは失礼を。今宵はお帰りでございますか。」
笑いが顔にも息遣いにも残っている。新三郎が安堵したことに、あやめは別に狂ったわけでもないらしかった。それでも不審ではある。
「なにを笑っておったか?」
「いえ、思い出すと、今宵はおかしくて。」
「なにがおかしいというのか?」
「前の男のことがそれほど気になるとは、男の方は面白い。」
「なんだと?」
「この堺の、前の殿方のことを、よほどお気になさっておられるご様子でした。おやかたさまともあろうお方が、それは面白い、と。」
「……前の、と申したか。」
「左様でございましょう? すでに半年もこのありさまで、」とあやめははばかりもなく、あらわになった胸の前で手を広げた。「いったい、どういえと申されるので?」
ばさり、と薄ものが飛んできた。新三郎が投げたのである。
「慎まぬか。」
「申し訳もございませぬ。」
腕を通して、体の前を覆う。
「十四郎は、それを聞いてどう思うかな?」
女を試している。
「御曹司さま。」
あやめは呟いた。呼び名を口にのぼせたことでその表情に輝きがみえたので、新三郎は、やはり、と思ったが、
「……お懐かしい。」
「懐かしい、か。」
「お懐かしうございます。あのような恋は、もう二度と手前にはございますまい。まことに、お懐かしい……。」
「だが、死んだぞ。」
新三郎は、断言した。泣くか、と思ったあやめは、微笑んで首を振る。
「信じませぬ。」
新三郎は、慄然とする。
(ああ、こやつは、信じられぬのだ。信じたくないのだ……!)
「生きておられるはずがない。おれは、たいして役にもたたぬのを、たった三人しかつけてやらなかった。」
新三郎は、いい聞かせるような口調になった。
「村ぐるみで立ち向かったのかもしれぬが、相手の蝦夷は惣大将とか名乗っておった。おそらくは大軍。とてもかなわぬ。」
「鉄砲をお持ちでございました。」
「お前は……上方者は知らんのだ。蝦夷の兵は強い。あなどってはならぬ。鉄砲の音を聞いたら逃げ出すわけではないのだ。」
「左様かもしれませぬが、現に、お骨もおかえりではございませぬ。お亡くなりになったと、決まったものではございませんね?」
あやめは、言葉も表情も作る必要がない。嘘をついているのではなく、知ることを喋っていないだけだから、自然なものであった。
だが、あやめが薄い笑いさえ浮かべているのを、新三郎はじっと見つめて、やがて溜息をつくようにいった。
「わかった。生きておるとしても、……」
「はい、きっとお元気でいらっしゃいます。」
「いま十四郎がどこにおるのか、知らぬのであろう?」
(儂の手の者らすら、見つけられなんだ。)
(見つかるはずもない。死んだのだから……)
「はばかりながら、蝦夷地の奥とはいえ、納屋今井ならそれも調べられぬこともありますまい。が、……」
目を伏せた。察せよ、とでもいうかのようであった。自分の身がこうなってしまっていては詮無い、と思っているとでもいうのだろうか。いや、そうではあるまい、と新三郎は考えた。
(探したに違いない。手の者をやって、必死になってあいつを探したはずだ。)
(だが、見つかりはしなかったのだ。死んでしまった者の消息はわからぬ。)
(だから、探すのをやめてしまったのか。)
(あきらめるのが厭さに……?)
(愚かだ。それは愚かだぞ、あやめ……!)
「ようやく、納得したのか。」
「……はい。」
「わかったな。見つかるはずもない。土の下では……。」
「いえ、そんなことはございませぬよ。きっと、生きておられますから。ただ、……」
「ただ?」
「おやかたさまのお手がこの身に付いたのも、なにかのご縁でございましょうから。」
(嘘をつけ!)
新三郎は肚の中であやめを叱りとばした。声に出す気には、なぜかならない。代わりに、訊いてみた。
「だが、先ほどは、死のうとしたな。十四郎を想ってのことであろうが。」
「恥ずかしいきわに追い上げられては、女はもう狂っておりまする。」
あやめの頬が染まったかにみえる。
「あのようなときに、前の男の名を出すとは、やはり、あまりにも、むごうはございませぬか?」
「たしかにな。」
頷いてしまったのは、新三郎の負けであった。
「あのお方のお名前をあげるのは、もうご勘弁を。やはり、まだ胸が痛うございまする。」
「さにしよう。」
「恐悦に存じます。お約束にございますよ。」
「いや、あれは儂も面白かった。ときどきは十四郎の名を出して、お前をよい具合に泣かせてやろう。ただし、舌はもう噛むな。」
「ああ、なんとも、おむごいことを。」
(真情ではあるまい。)
新三郎は気づいている。
(方便であろう。だが、これが納屋の御寮人あやめではないか。斯様でなくてはならぬ。当分はこれの方が、よい。)
(新三郎めはこんな猿楽に騙されてはおらぬ。)
あやめは思っている。低頭した表情が物凄い。
(ただ、当分は騙されているふりをするだろうし、それで、こやつもわたくしも構わない。見え透いた罠を避けて賢しらぶっているうちに、いずれ、もっと大きな罠にかかるのだ、こやつは。)
のろのろと着衣を直しながら、傷ついた舌を出してみせたが、その「いずれ」の日の宛てがまだたたないことに、内心で打ちのめされる。新三郎にいった通り、十四郎の帰島の知らせがなく、行方を掴めていないことにあらためて思いを馳せ、思わず顔を両手で覆った。
「……御寮人さまが、そんな狂言をうち、お心を隠してまで、守りたい『図』とはなんであろうな。」
「おかしらがご存じでありましょう?」
「聞いてはいる。だが、そんなに待てるのかと思った。迂遠ではないか、と。」
「待たれるのでしょうな。」
「あてもまだ、何もないようなものだ。御曹司さまが無事にお戻りになって、それからなのだ。」
「今度こそ、と信じておられるのでしょうな。お帰りはある、と。」
「どうも、儂はいかんな。おぬしのほうが、御寮人さまのお心がわかるようだ。すまぬことであった。」
「なんの。わたしは、こうして御寮人さまと―いや、堺の方さまと同じ屋根の下にいるのだぜ、わかるよ。」面を伏せた。「あれほどの地獄に耐えられているのだ。よほどの御決心よ。」
「……」
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