えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ 三度目の冬―奈落の底(一) 

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 つらい冬がきた。あやめにとって三度目の冬は、昔、南蛮寺のパーデレのいった煉獄とはこれかとも思えた。

 ずいぶん遅れて秋の出航という冒険になってしまったものの、松前納屋は、敦賀行きの「戻り」の船をなんとか出すことができた。
 本能寺の変の大混乱が、羽柴筑前守を中心に急速に収束していき、上方は平穏に返っているらしい。商売は成り立つであろう。関東は荒れているようだが、寄港地の津軽、秋田、越後は旧来の支配が固く、北陸は柴田修理が割拠して、まずは落ち着いていた。羽柴と柴田の戦端はまだ開いていないので、雪にさえ塞がれなければ敦賀からの輸送もなんとかなるだろう。
 船体がうまく沈むように荷をいっぱいに積んだ今井の船が、松前の湊を去っていくのを見送りながら、それまでの数日を不眠不休に近かった松前納屋の一同はことごとく安堵する。あとは荒れはじめた海で危険を増した航海の、無事を祈るばかりだ。
「船頭はあの佐平どんだ。冬の航海ですらなんとかした男。心配はない。」
 あやめが、願望を込めていった。そうであってくれねば、荷は喪い、何人もの今井の店員が死ぬのである。
「ならば、御寮人さまがあれに乗られていてもよかったのでございますよ。」船影が消えるまで見送っていたあやめのそばに、コハルが立っていた。「そのまま、堺にお帰りになられても、別にようございました。御曹司さまを待つは、京でも堺でもできましょう。」
「待ってはおらん、といった。山丹(大陸・沿海州の一地方をこうも呼ぶ)よりお戻りの報があれば、すぐにでも北の蝦夷地に駆けつける。この蝦夷島におらねばならぬ。」
(それもあろうが、まずはお店のことが心配なのだろう。)と、コハルは思った。(蠣崎新三郎めが、何をするかわからぬ奴だというのは、文字通り身に染みていらっしゃる。)
 たしかに、そうであった。松前納屋の主人であるあやめにとって、やれやれというときに、大舘から使いが急にやってくるのである。商売の一段落を知っているからであろう。
 あやめは、ただの側妾ではない。使いがきても多忙を理由に断りを入れたりもするし、それが通るときすらあるのだが、今日の朝、納屋の船が無事出たことは松前中が知っている。断りようがなかった。
「手前をお呼び、とのことでございますが、どちらにでございましょう?」あやめは皮肉ぽく、使者に尋ねる。「納屋のあるじでございますか、それとも“堺の者”か。」
 使者の下士は困惑した顔になったが、おそらくは両方にござろう、と答えた。使者も気の毒で、商人であるあやめを呼びにくるならば下級とはいえ武士として少し権高にもなりうるが、「堺の方」となればたとえ身分上は使用人であっても主人の室のひとりであり、態度には気をつけねばならない。主君のせいで、このお侍もやりづらいことだ、とあやめは腹の底で嗤う。

 着替えを抱えて店の者が大舘の裏門まで付き添い、そこで大舘のあやめ付きの小女すずめが引き取る。
 納屋の御寮人として、新三郎に上方情勢の話を求められるときもあり、そんなときは一族重臣の待つ書院に通される。そうでないときは、あてがわれた薄暗い部屋ですぐに着替え、「堺の方」として待つことになる。
「奥」の一員としてのあやめの勤め方は不規則だからか、家の女たちの直接のあるじであるお方さまにはさほどのお呼びもかからない。なに、嫌われ、疎んじられているのだ、とあやめは腹で嗤っている。
 用もなく、「おやかたさま」を、暗くなるまで待つことになる。日が落ち、お呼びがかかれば、すぐに寝衣に着替えさせられる。

 こうして、長くて数日つづけて、少なくとも夜は「堺の方」として、新三郎に仕えねばならないのであった。

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