57 / 210
二の段 蠣崎家のほうへ 「堺の方」(二)
しおりを挟む
この日の夕は、あやめは大舘から店屋敷に帰して貰えなかった。
新三郎は直接あやめに意を告げることはない。家督相続の内輪の祝いの酒宴に顔を出した後、早々にあやめは寝衣に着替えさせられ、待たされた。
(コハルは来ぬか。)
いや、詮無いことだ、と首を振ったが、心のどこかでこの大舘から逃げだせぬかという期待がある。逃げ出したところで、それはそれで、どうともならぬ。この地の権力者の意に背いたことによって、全てをいずれ喪うことになる。いまはしかし、心のどこかで、あのコハルが潜入してくれはしないか、無理矢理に自分を連れ出してくれたらどうであろうか、自分はそれに従ってしまうのではないか、それでもいい、それがいいのではないか……、というぐるぐるとまわる思いは捨てきれない。
「御寮人さま。」
と、低い女の声がした。あやめははっとした。コハルはおそらく、大舘にも自分の仕事の部下をすでに潜らせている。その一人ではないか。
(ならば?)
「おいたわしく存ずる。」
あやめは唇を噛んだ。
女は何処に潜んでいるのだろう。ただ、声だけがした。
「それはよい。用があろう。」
「ならば、お伝え申し上げる。蠣崎ご家中の者が、すでにお店を囲んでおります。松明で赤々とお店を照らし、お屋敷に出入りを差し止める気配。」
(そうきたか。)
「倉や店には手をつけぬか。」
「番頭殿などがお体を張って、倉を開けるのは押しとどめなされた。蝦夷侍もお役目だけのことなれば、隙間から覗かせろといい、ただそればかりで済んだようでございます。」
「それはでかした。」
いつになれば褒めてやれるものか、明日か、明後日か。見当がつかないのがあやめは悔しい。
「おかしらは、御寮人さまの御下知を待つのみとのことでございます。」
コハルのことであろう。
「……おぬしのおかしらに伝えなさい。先刻承知の通りである。つまり、……つまり、なにごともない。大儀であった。」
あやめにも感じられていた、女の気配は消えた。何者なのか、いかなる形でこの大舘に入りこませているのかは、コハルに尋ねたこともない。
あやめは再び、ひとりだ。遠くから聞こえてくる宴の騒ぐ声が、また聞こえてきた。
あてがわれた広くもない部屋には、板の間に薄い寝具が敷いてある。燭台のとぼしい光のなかで、あやめは死んだように無感動でいた。
自分の描いた「図」がこれで、その分だけ確かなものになるとは、黄色い闇のなかのあやめは思えない。
いまはどうにもならぬと未練の糸を切った先刻から、己というものがついに死んでしまったかのように感じられ、 なにも思えないのである。
足音と、酒の匂いが近づいた。自然に身が固くなる。
新三郎がどこか上機嫌の様子であらわれた。
「納屋の御寮人。……いや、あやめ。仔細は聞き及んだか。」
「仔細、というほどには……」
あやめは気を取り直したわけではないが、無感動のままで答えた。
酔いのある新三郎は、鼻で笑った。こういうところが、この女はたまらない、とでも思ったのだろう。
「よかろう、仔細はこれからじゃ。」
「……。」
あやめは黙ったままである。何か口上でもいわされるかと思ったが、新三郎はそうした決まりきった儀式に身を置くつもりはないようだった。自分の思うままにいくと決めているようだ。
まず、あやめは立たされた。寝衣を解くようにいわれる。
「北国の流儀じゃ。存じておろう?」
(この男は! あてつけのつもりか。)
あやめは無言で寝衣をすべて落として、いわれるままに燭台の横に立った。
(すべて脱いでしまっても、少しも恥ずかしくはない。このような畜生の前では、何も思うことはない。)
新三郎は、茶道具でもみるような眼を、黄色い光のなかに浮かび上がった裸体にむけた。柔らかみを帯びながらもほっそりと伸びた肢体が、手で前だけは隠そうとして縮こまっている。
「あやめ、そなたは美しいと思う。」
「……」
「来い。」
寝衣の前をはだけて羽織った新三郎は、促す素振りを見せた。しばらく待つ。
あやめはすくんでしまったように動けない。自分から、憎い相手の胸にしなだれかかるなど、どうしてもできない。
「来ぬか。来られぬ、左様か。ならば、こうする。」
新三郎は立ち上がって近づくと、あやめの躰を横抱きにした。敷かれた寝具の上に落した。裸の尻が跳ね上がる。
新三郎は直接あやめに意を告げることはない。家督相続の内輪の祝いの酒宴に顔を出した後、早々にあやめは寝衣に着替えさせられ、待たされた。
(コハルは来ぬか。)
いや、詮無いことだ、と首を振ったが、心のどこかでこの大舘から逃げだせぬかという期待がある。逃げ出したところで、それはそれで、どうともならぬ。この地の権力者の意に背いたことによって、全てをいずれ喪うことになる。いまはしかし、心のどこかで、あのコハルが潜入してくれはしないか、無理矢理に自分を連れ出してくれたらどうであろうか、自分はそれに従ってしまうのではないか、それでもいい、それがいいのではないか……、というぐるぐるとまわる思いは捨てきれない。
「御寮人さま。」
と、低い女の声がした。あやめははっとした。コハルはおそらく、大舘にも自分の仕事の部下をすでに潜らせている。その一人ではないか。
(ならば?)
「おいたわしく存ずる。」
あやめは唇を噛んだ。
女は何処に潜んでいるのだろう。ただ、声だけがした。
「それはよい。用があろう。」
「ならば、お伝え申し上げる。蠣崎ご家中の者が、すでにお店を囲んでおります。松明で赤々とお店を照らし、お屋敷に出入りを差し止める気配。」
(そうきたか。)
「倉や店には手をつけぬか。」
「番頭殿などがお体を張って、倉を開けるのは押しとどめなされた。蝦夷侍もお役目だけのことなれば、隙間から覗かせろといい、ただそればかりで済んだようでございます。」
「それはでかした。」
いつになれば褒めてやれるものか、明日か、明後日か。見当がつかないのがあやめは悔しい。
「おかしらは、御寮人さまの御下知を待つのみとのことでございます。」
コハルのことであろう。
「……おぬしのおかしらに伝えなさい。先刻承知の通りである。つまり、……つまり、なにごともない。大儀であった。」
あやめにも感じられていた、女の気配は消えた。何者なのか、いかなる形でこの大舘に入りこませているのかは、コハルに尋ねたこともない。
あやめは再び、ひとりだ。遠くから聞こえてくる宴の騒ぐ声が、また聞こえてきた。
あてがわれた広くもない部屋には、板の間に薄い寝具が敷いてある。燭台のとぼしい光のなかで、あやめは死んだように無感動でいた。
自分の描いた「図」がこれで、その分だけ確かなものになるとは、黄色い闇のなかのあやめは思えない。
いまはどうにもならぬと未練の糸を切った先刻から、己というものがついに死んでしまったかのように感じられ、 なにも思えないのである。
足音と、酒の匂いが近づいた。自然に身が固くなる。
新三郎がどこか上機嫌の様子であらわれた。
「納屋の御寮人。……いや、あやめ。仔細は聞き及んだか。」
「仔細、というほどには……」
あやめは気を取り直したわけではないが、無感動のままで答えた。
酔いのある新三郎は、鼻で笑った。こういうところが、この女はたまらない、とでも思ったのだろう。
「よかろう、仔細はこれからじゃ。」
「……。」
あやめは黙ったままである。何か口上でもいわされるかと思ったが、新三郎はそうした決まりきった儀式に身を置くつもりはないようだった。自分の思うままにいくと決めているようだ。
まず、あやめは立たされた。寝衣を解くようにいわれる。
「北国の流儀じゃ。存じておろう?」
(この男は! あてつけのつもりか。)
あやめは無言で寝衣をすべて落として、いわれるままに燭台の横に立った。
(すべて脱いでしまっても、少しも恥ずかしくはない。このような畜生の前では、何も思うことはない。)
新三郎は、茶道具でもみるような眼を、黄色い光のなかに浮かび上がった裸体にむけた。柔らかみを帯びながらもほっそりと伸びた肢体が、手で前だけは隠そうとして縮こまっている。
「あやめ、そなたは美しいと思う。」
「……」
「来い。」
寝衣の前をはだけて羽織った新三郎は、促す素振りを見せた。しばらく待つ。
あやめはすくんでしまったように動けない。自分から、憎い相手の胸にしなだれかかるなど、どうしてもできない。
「来ぬか。来られぬ、左様か。ならば、こうする。」
新三郎は立ち上がって近づくと、あやめの躰を横抱きにした。敷かれた寝具の上に落した。裸の尻が跳ね上がる。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
大江戸怪物合戦 ~禽獣人譜~
七倉イルカ
歴史・時代
文化14年(1817年)の江戸の町を恐怖に陥れた、犬神憑き、ヌエ、麒麟、死人歩き……。
事件に巻き込まれた、若い町医の戸田研水は、師である杉田玄白の助言を得て、事件解決へと協力することになるが……。
以前、途中で断念した物語です。
話はできているので、今度こそ最終話までできれば…
もしかして、ジャンルはSFが正しいのかも?
炎の稲穂
安東門々
歴史・時代
「おらたちは耐えた! でも限界だ!」
幾多も重なる税金に、不作続きの世の中、私腹を肥やしているのはごく一部の人たちだけだった。
領主は鷹狩りや歌に忙しく、辺境の地であるこの『谷の村』のことなど、一切知る由もない。
ただ、搾取され皆がその日を生き抜くのが精いっぱいだった。
そんなある日、村一番の働き手である 弥彦は 村はずれにある洞窟である箱を見つけた。
そこには、言い伝えでその昔に平家の落ち武者が逃げて隠れていたとされた洞窟で、刃の無い刀がいくつか土に埋まっている。
弥彦は箱を調べ、その場で開けてみると、中にはいくつもの本があった。 彼は字が読めないが村に来ていた旅の僧侶に読み書きを習い、その本を読み解いていく。
そして、時はながれ生活は更に苦しくなった。
弥彦の母は病におかされていた。
看病のかいもなく、他界した母の現場に現れた役人は告げた。
「臭いのぉ…。 悪臭は好かんので、ちと税を払え、皆の迷惑じゃ」
それを聞いた弥彦含め、村人たちの怒りは頂点に達し、どうせ今生きていても死ぬだけだと、自分たちの人生を賭け蜂起を決意した。
そして、村長が指名した村人たちを束ね導く存在に弥彦を。
そんな彼らの想いが駆け巡る。 歴史の中で闇に消えた物語。
融女寛好 腹切り融川の後始末
仁獅寺永雪
歴史・時代
江戸後期の文化八年(一八一一年)、幕府奥絵師が急死する。悲報を受けた若き天才女絵師が、根結いの垂髪を揺らして江戸の町を駆け抜ける。彼女は、事件の謎を解き、恩師の名誉と一門の将来を守ることが出来るのか。
「良工の手段、俗目の知るところにあらず」
師が遺したこの言葉の真の意味は?
これは、男社会の江戸画壇にあって、百人を超す門弟を持ち、今にも残る堂々たる足跡を残した実在の女絵師の若き日の物語。最後までお楽しみいただければ幸いです。
【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
座頭の石《ざとうのいし》
とおのかげふみ
歴史・時代
盲目の男『石』は、《つる》という女性と二人で旅を続けている。
旅の途中で出会った女性《よし》と娘の《たえ》の親子。
二人と懇意になり、町に留まることにした二人。
その町は、尾張藩の代官、和久家の管理下にあったが、実質的には一人のヤクザが支配していた。
《タノヤスケゴロウ》表向き商人を装うこの男に目を付けられてしまった石。
町は幕府からの大事業の河川工事の真っ只中。
棟梁を務める《さだよし》は、《よし》に執着する《スケゴロウ》と対立を深めていく。
和久家の跡取り問題が引き金となり《スケゴロウ》は、子分の《やキり》の忠告にも耳を貸さず、暴走し始める。
それは、《さだよし》や《よし》の親子、そして、《つる》がいる集落を破壊するということだった。
その事を知った石は、《つる》を、《よし》親子を、そして町で出会った人々を守るために、たった一人で立ち向かう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる