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二の段 蠣崎家のほうへ 恥辱 (二)
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「……ゆえに、納屋の御寮人殿のお考えをうかがいたいということじゃ。」
そこで回想から醒めた、というそぶりも見せず、あやめはまずへりくだった。
「女の浅はかな考えをお伝えするのは憚りがござります。」
「考えある、と。」
「堺の商人なら、いえ、愚父のようにお武家との商いに身を削るものならば、こう心備えるであろう、とは些かの推量がございますが、それを考えといえましょうか。手前は久しくこの地にある身、天下の趨勢に、もとより自身の考えなどは……。」
あやめはわざとくどくどと能書きを垂れてやるが、新三郎の表情は別段の何の曇りもない。堺商人の情報網と読みを聞きたい、という気持ちばかりのようだ。
「それを、お聞きしよう。もしも宗久殿なら、今後をどうみるか。」
何か溜息をつく気分で、あやめは、知るところ考えるところを教えてやった。
今後織田家の相続の問題がどう転がろうと、柴田と羽柴の決裂は避けられず、近く戦となるだろう。避けるどころか、羽柴秀吉がそれを求めるからである。織田家主席家老の打倒によってのみ、織田家中において羽柴秀吉が首座を占めることができる以上、そうである。
「惟住(丹羽長秀)殿はどう出る。故右大臣家の次席だが。」
「おそれながら、噂では、惟住様はすでに筑前様のご上司というよりもご同輩、ないしは名実ともにご配下か、とも。」
「それでは、修理亮殿と筑州殿のどちらが勝つのか。」
「そのようなことは」商人などのわかるはずもないことです、と、あやめはとりあわなかったが、ここで蠣崎家に知恵を授けるべきだと思った。
「能登国主に前田さまがいらっしゃいます。七尾湊に近いところにお城をお持ちですが」これと誼を通じよという意味のことを、慎重に述べた。
「能登は無論、我らにとって縁のあるべき土地だが、まえだ殿?」
「前田、又左衛門、利家さま。前田さまは修理亮様の与力にして、聞くところによると、筑州さまの竹馬の友ともいうべき、義兄弟にも等しき間柄とか。」
「心得たぞ。」新三郎は嬉し気に頷いた。「なるほど、我らが今、目もじを請うとすれば、そのお方じゃな。」
つまりは日和見をすると決めたのだが、それでいて蠣崎家は、ついに主家である安東家の頭越しに、上方の来るべき権力にその手を伸ばそうというのである。この野心的な企てが、最初から一か八かの賭けになってはならない。織田家中筆頭を争う決戦の結果がどう出ようと、前田利家は勝った側にいて生き残り、越前や越中といった蠣崎家にとっての要地に、それ相応の力を伸ばすであろう。
「いかように転んでも損にならぬ買い物になろうな。」
「仰せのとおりかと。」
「納屋殿、礼をいう。」
(礼か? 礼ではなかろう! このわたくしにおのれがいうべきは、礼などではなく、まず、心よりの詫びであろうっ?)
あやめはこれも内心で毒づき、おそらく新三郎も似たようなことを全く別の含みで考えているだろうと気づくと苦々しかったが、
「おそれいり奉ります。ほどのすぎたことを申し上げました。」
「なんの、さすがは宗久殿のご一門。……いずれ、羽柴と柴田の戦の決着がつくが、」と雲の上にいるような中央の武将ふたりを呼び捨てて、「そのときには、また知恵を借りよう。」
(おや、それまではわたくしを呼ばぬつもりかえ?)
あやめは意外だった。両軍の決戦は、この秋でなければ、来年の春に持ち越されるだろう、と柴田勝家の本拠地の積雪のことを考えて教えてやったが、気の長いことだ。
(こちらとしては、今日、最初に餌を投げて、食いつかせた。つづけさまに餌を投げ続けたほうがよいのだが……)
残念なような、本能的に安堵するような気分に襲われたが、もちろん、新三郎があやめにいかなる用もないのなら、それはそれで有り難いことではある。
(……左様にはいかなかった。)
あやめが新三郎という男をまだ甘くみていたと知らされたのは、書院から下がり、帰り支度にかかったときだった。
そこで回想から醒めた、というそぶりも見せず、あやめはまずへりくだった。
「女の浅はかな考えをお伝えするのは憚りがござります。」
「考えある、と。」
「堺の商人なら、いえ、愚父のようにお武家との商いに身を削るものならば、こう心備えるであろう、とは些かの推量がございますが、それを考えといえましょうか。手前は久しくこの地にある身、天下の趨勢に、もとより自身の考えなどは……。」
あやめはわざとくどくどと能書きを垂れてやるが、新三郎の表情は別段の何の曇りもない。堺商人の情報網と読みを聞きたい、という気持ちばかりのようだ。
「それを、お聞きしよう。もしも宗久殿なら、今後をどうみるか。」
何か溜息をつく気分で、あやめは、知るところ考えるところを教えてやった。
今後織田家の相続の問題がどう転がろうと、柴田と羽柴の決裂は避けられず、近く戦となるだろう。避けるどころか、羽柴秀吉がそれを求めるからである。織田家主席家老の打倒によってのみ、織田家中において羽柴秀吉が首座を占めることができる以上、そうである。
「惟住(丹羽長秀)殿はどう出る。故右大臣家の次席だが。」
「おそれながら、噂では、惟住様はすでに筑前様のご上司というよりもご同輩、ないしは名実ともにご配下か、とも。」
「それでは、修理亮殿と筑州殿のどちらが勝つのか。」
「そのようなことは」商人などのわかるはずもないことです、と、あやめはとりあわなかったが、ここで蠣崎家に知恵を授けるべきだと思った。
「能登国主に前田さまがいらっしゃいます。七尾湊に近いところにお城をお持ちですが」これと誼を通じよという意味のことを、慎重に述べた。
「能登は無論、我らにとって縁のあるべき土地だが、まえだ殿?」
「前田、又左衛門、利家さま。前田さまは修理亮様の与力にして、聞くところによると、筑州さまの竹馬の友ともいうべき、義兄弟にも等しき間柄とか。」
「心得たぞ。」新三郎は嬉し気に頷いた。「なるほど、我らが今、目もじを請うとすれば、そのお方じゃな。」
つまりは日和見をすると決めたのだが、それでいて蠣崎家は、ついに主家である安東家の頭越しに、上方の来るべき権力にその手を伸ばそうというのである。この野心的な企てが、最初から一か八かの賭けになってはならない。織田家中筆頭を争う決戦の結果がどう出ようと、前田利家は勝った側にいて生き残り、越前や越中といった蠣崎家にとっての要地に、それ相応の力を伸ばすであろう。
「いかように転んでも損にならぬ買い物になろうな。」
「仰せのとおりかと。」
「納屋殿、礼をいう。」
(礼か? 礼ではなかろう! このわたくしにおのれがいうべきは、礼などではなく、まず、心よりの詫びであろうっ?)
あやめはこれも内心で毒づき、おそらく新三郎も似たようなことを全く別の含みで考えているだろうと気づくと苦々しかったが、
「おそれいり奉ります。ほどのすぎたことを申し上げました。」
「なんの、さすがは宗久殿のご一門。……いずれ、羽柴と柴田の戦の決着がつくが、」と雲の上にいるような中央の武将ふたりを呼び捨てて、「そのときには、また知恵を借りよう。」
(おや、それまではわたくしを呼ばぬつもりかえ?)
あやめは意外だった。両軍の決戦は、この秋でなければ、来年の春に持ち越されるだろう、と柴田勝家の本拠地の積雪のことを考えて教えてやったが、気の長いことだ。
(こちらとしては、今日、最初に餌を投げて、食いつかせた。つづけさまに餌を投げ続けたほうがよいのだが……)
残念なような、本能的に安堵するような気分に襲われたが、もちろん、新三郎があやめにいかなる用もないのなら、それはそれで有り難いことではある。
(……左様にはいかなかった。)
あやめが新三郎という男をまだ甘くみていたと知らされたのは、書院から下がり、帰り支度にかかったときだった。
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