えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ 恥辱 (一) 

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 天正十年七月が終わった。
 あの暴行の日からひと月以上たって、あやめは再び大舘に召された。
(きたか。)
 ただ、納屋殿に役に立つ話を聴きたいというのである。これまでにも何度かあった召し出しで、たいていは納屋の御寮人に上方の政治情勢や景況について、当主の季広はじめ蠣崎家の主だった者たちを相手に本当に話をさせたのであった。
「今度はそれだけでは済みますまい。」行くな、とコハルなどはいった。
「……そうもいかぬ。」
 
 コハルに抱きかかえられるようにして大舘から戻った日、あやめは行水で身を清め、下半身の傷を手当てしてからはさすがに精根尽き果て、食事もとらずに死んだように眠った。
 だが、次の朝には変わらず店に出た。目を覚ました時、あれが悪夢であってくれればよいと瞬時願ったが、現実から逃避する思いは振り捨てた。まずは店の仕事だけで、やるべきことが多い。
 その間、店や隣接する屋敷の周りを、見るからに蠣崎の家のものらしい男たちの姿が見え隠れした。松前の湊界隈に普段見かけぬ風体であり、まともな用が、このそれなりに繁華で大小の店が乱雑に並ぶ商業地にあろうとも思えぬ。見張りのつもりであろう。
(わたくしの動きをみているのか。)
 このまま堺に奔られても困るのであろうし、もしも何か仕返しをしようとでもいうのなら、それなりの手を打とうというのでもあろう。
(何事もなかったかのように、おとなしくしていてほしいのだ。)
 しておいてやろう、とあやめは腹の中で嘲笑った。
 それに、遁走することも含めて、この松前という蠣崎家の土地で、あやめには表だって何もできぬのであった。
「私ども今井とはいえ、蝦夷代官さまのお召しを無碍に断ることはできない。」
「しかし。」
「店のことも、船のことも、荷のこともある。……店というのは、お前たちのことよ。」
 もしここで、何もかも打ち捨ててこっそり堺に逃げかえれば、今井家は松前にもつ全てを―店の者何名かの命すらも―投げ捨てることになろう。もちろん、あやめがまず、これまでに築いた全てを喪うのだ。
(幸い、余計なものまでは貰っていない。)
 あやめが狂うほどに恐れた妊娠だけは、どうやら避けられたようだ。それがわかったとき、あやめはひとりで安堵の息をついたが、それと同時に、自分をそんな目に遭わせた蠣崎新三郎への怒りに改めて火がつくのを感じた。
(これ以上、あ奴に奪われてたまるものか。)

「コハルは負けませぬ。」
 コハルは新三郎を闇討ちにも斬り殺してしまいたいし、御寮人さまがそうせよというのを待っている。
「コハル。……蠣崎のお家は、ご名代おひとりではない。」
 その、新三郎の弟たちが居並ぶ書院に、納屋今井あやめは手代ひとりを連れて伺候していた。
 辞儀をする相手は、五男正広、六男長広、七男定広、九男吉広、十男仲広、十一男守広、それにまだ少年の員広、貞広である。いずれもいわば蠣崎家の連枝として、父と新三郎に仕える者たちであった。
 前述のように、四男は仏門にあり、この松前の法源寺の随良住職である。この人とは、十四郎が去って以来、あやめも疎遠になっている。倉を見るのが、つらいのだ。
(八男の与三郎さまと、十四郎さまだけがいない。)
 ひとりは既に死に、ひとりは北の空の、さらにその果てであった。もう、海を越えてしまっただろう。
 上座が空いている。そこに近づく足音がしたので、あやめたちは平伏する。
 コハルはわざと連れてきていない。この不思議な力をもった古馴染の店の者や、この二年足らずで急に背の高くなりつつある丁稚のトクこそが、あやめの身を案じすぎるほど案じてくれているのを知っていた。だからであった。
 堺からついてきた番頭や手代、当地で雇った手代以下の使用人たちも、御寮人さまを主人として仰いではいたが、その身におこった出来事をうすうす知っても、それだけで命を捨ててひとりで行動を起こすほどではない。それでいい。 
 また、万が一そんなことをされては、悲しいかな、困るのだ。
(まだ、いまは……)

「大儀。」
 上座から、あの男の声が響く。
(新三郎か。)
 あやめは何食わぬ顔で挨拶を述べた。おやかたさまは来ぬようだ。
「お忙しかろうに、大儀でござるな。」
 謁見する形をとる新三郎は、前と大して変わらぬ丁寧な言葉遣いであった。それはそれで肚が煮えるのをあやめは覚えたが、こちらも変わらず笑みをたたえて挨拶をする。ただ、まずは無言で、出方を待った。
「納屋今井殿のお知恵をまた借りたいと存ずる。」
「知恵、とは、身に余る勿体なきお言葉でございまする。」
「いや、上方のことについて最も耳が効くは、やはり納屋よ。故右大臣家のご相続が決まったとか。それはわしらとて存じておるが、詳しくはどうであるのか、教えて貰いたいが。」 
(なんの、よく知っておるわ。) 
 新三郎慶広は、すでに六月半ば、明智光秀が羽柴秀吉に討たれたのは知っていて、それが前提の話であった。
「恐れ入り奉ります。……ご名代さまの仰られますは、尾張は清須のお城にて、故右大臣家ご重臣さまが集まられ、亡き岐阜中将(織田信忠) 様の御嫡男三法師様がご家督を継がれるとのお決めがあったことでございましょうか。まことにおめでたきことに存じまする。」
「その重臣がたよ。聞けば、老臣筆頭の柴田修理亮殿と、明智を討った大功ある羽柴筑前守殿との仲、必ずしもよろしからず、ここに故右大臣家の……」
(よくご存じのことじゃわ。)
 自分らには手の届かぬきらびやかな(本物の)官位の名をちりばめて、訳知り顔に朗々と中央政局の知識を披露する新三郎を、大蔵法印卿でもある今井宗久の娘は、腹の底でせせら笑った。こやつめは、こういうところこそがむしろ田舎者らしいのだ、と考える。
 と、その「田舎者」の手に簡単に落ち、哭くほどに弄ばれた自分は何だ、とも思わずにいられず、胸が裂けるほどに痛む。不快な体温の記憶が蘇り、思わず頭を振りそうになった。
 ただ、たしかに蠣崎新三郎慶広の把握は正確で、あやめが訂正してやらねばならない箇所もなかった。このあたりの情報把握の機敏は、やはり若狭武田氏というよりは蝦夷商人たる渡党の裔だな、とあやめは思う。
 十四郎にも強く感じたのは、蠣崎家の人びとに兼ね備わっている、武家と商人の双方の感覚であった。北辺の地にあって、諸国の情報に疎くはない。そうはいられないのであろう。
(それにしても、おやかたさまは蝦夷地と安東様や、せいぜい奥州諸国のことを考えていたようだが、この男はそれを飛び越して上方のことにまで目を配っている。)
 それは、かつて十四郎のいったことではないか。
「蠣崎のために、新三郎兄―ご名代は上方のこともみています。そこはおやかたさまに勝る。ただ、父は蝦夷島のことをまずみていたが、兄の眼中には蝦夷島はないのかもしれない。北の蝦夷地に関心を払われぬ。蝦夷地のお話をしようとすると、急に、至極不機嫌になられる。」
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