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一の段 あやめも知らぬ 破約(七)
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それが最後にはならなかった。いま一度、たがいの唇は甘く、貪りあわずにいられないと思えるときがあった。
もはや十四郎の出立の日取りも決まった。寺を離れて大舘に呼ばれさえしたのは―コハルは警戒したが―あくまで表面上は巡察の出発だからであり、かつポモールの村への加勢に、三人の若い蝦夷侍をつけてくれたからでもある。それに、馬を一頭。
わずか三人であったし、その役目自体、知れたものではない。密命を帯びていて、どこかで十四郎を押し包んで斬ってしまうかもしれないのであった。
だが、十四郎は兵を得たのに喜んだ様子であり、顔見知りもいるらしいこの部下たちと、なにやら相談もあるようだ。
あやめは松前の小さな民家を一晩、借り切っていた。そこで二人だけの別れの宴を張るつもりであった。
いつも逢瀬はどこか声を潜めるようであったし、それはこっそりとこの家に入った今日も変わりはないのだが、それにしても気兼ねが薄いのがうれしかった。十四郎の姿を一時見失って、もしかすると大舘は慌てるかもしれないが、それはむしろ愉快に思えた。十四郎も同じ思いだろう。
(こんなふうに食事をとったのは、母と死に分かれる前以来ではないか。)
二人だけで膳に向った時、そう気づいた。今井に引き取られて以来は商家だから、諸事大人数であった。今井家の者ですら大旦那様と若旦那、その御寮人(妻)以外は、普段は使用人たちと同じ場所で食事をとった。一人で黙々と食べていても、横に誰かがあわただしく飯をかきこみ、広土間では丁稚たちが騒いでいた。長じて松前では、主人はひとりであつらえられた膳に向う。でなければ宴席であった。
「もしも十四郎さまとわたくしが、小さな店でも夫婦で切り盛りしていたら、毎日こんなふうに二人でお膳に向っていたのでございますね。」
「左様だな。もっとも、そんな店では、毎日こんな結構なものはいただけまい。」
「案外、わたくしはお料理が上手になれたかもしれませぬよ。」
「拙者は自分でつくれるよ。」
「まあ。」
「旅先ではそれが要るのだ。野宿もある。」
「……」
「すまぬ。」
「謝られてばかり。」
少し酒を飲んだ。あやめは宴席の必要があって飲むし、体質的に飲めるほうでもあった。ただ、こちらの人間は寒い国の常か、ひどく強い。
ところが、十四郎はさほどでもないようだった。それをいうと、そう沢山飲んだことも、飲まされたこともないからわからない、という。
「北国のおひとはお強いとうかがいました。」
いいながらあやめは、話柄を誤った気がしたが、仕方がなかった。
「はて、わたしはどうなのだろう? 堺の南蛮人はどうでござったか。」
「パーデレ……南蛮僧の方々はときおり、赤い酒を少し飲まれるだけでしたから、存じませぬ。船乗りどもの呑むのはまた違う白い酒のようでしたが、あの酒はどうやら濃いようで。」
「その酒、飲んでみとうござるな。わたしのような者の躰には、合うのかもしれぬ。」
「……ソヒィアさまは、いかがでございました?」
ソヒィアは一足先に立っていた。か細いながら加勢の約束を取り付けたところで、腹を括ったのであろう。(ゴミョーダイには憐みの心がない、とだけいったそうだ。それをコハルから聞いて、あやめは思わず頷いてしまった。)どこかで十四郎の一行を迎えて落ち合うことにして、村にいったん戻るのだそうだ。
(あの後、会うこともなかった。それきりであったな。)
(当たり前だが、お顔がよく似ていた。同族のなかでも、お血筋が近いのではないか。)
(あの女は刀を帯びていた。可哀想だが戦いで死ぬだろう、とわたくしは確信している。あれはなぜだか、死の影が濃い。病だとかのせいもあろうが……。)
(……では、十四郎さまはどうなるのだっ?)
「あれと酒を飲んだりはしなかった。そうした宴のようなことは、一度や二度は大舘でされたのではないか。」
「それは大舘のお方々が、冷たい。」十四郎に、である。「お呼ばれもなかったのでございますか。」
「兄者たちとの席なら、気づまりだから、呼ばれずにありがたい。ソヒィアから話も山ほど聞かされた。」
「あら、十四郎さまこそ、ポモールの村のことを、山ほどもお尋ねになったでございましょう?」
「左様であった。」十四郎は苦笑いして、小さな盃を干す。注いでやろうとするあやめを手で制して、「向こうが呆れるほど尋ねた。だから、最後は、であれば村に来て自分で見よ、といわれた。そうだ、お前も切支丹になれ、ともいわれたな。村には切支丹の寺があるそうな。」
「南蛮寺でございますか。」
あやめには懐かしい。
「困った。口説かれるといえば、そちらがうるさい。」
「おや。」
「だから、あれと大舘で宴などといったら、どうもいかぬなと思っていたところでござる。」
「ではございましても、お呼びもないというのは……」
「こうして、納屋の御寮人殿がお招き下さっている。拙者はそれが何より有り難い。うれしい。うれしくて、ならない。」
「お上手をいわれます。」
ならば、……と詮無いことをいいかけたが、あやめはその言葉はおさえる。
「あやめ殿。」
十四郎はあやめを抱き寄せた。無言でこたえた、柔らかな躰が震える。
あやめは息が尽きそうになるほどに長く口を吸われ、のぼせ上がるほどになってしまった。その場で裾を割られたが、
「あ、お床を、あちらに……。」
十四郎は頷いて、あやめの躰を抱いて、続く部屋に延べられた床まで運ぶ。
もはや十四郎の出立の日取りも決まった。寺を離れて大舘に呼ばれさえしたのは―コハルは警戒したが―あくまで表面上は巡察の出発だからであり、かつポモールの村への加勢に、三人の若い蝦夷侍をつけてくれたからでもある。それに、馬を一頭。
わずか三人であったし、その役目自体、知れたものではない。密命を帯びていて、どこかで十四郎を押し包んで斬ってしまうかもしれないのであった。
だが、十四郎は兵を得たのに喜んだ様子であり、顔見知りもいるらしいこの部下たちと、なにやら相談もあるようだ。
あやめは松前の小さな民家を一晩、借り切っていた。そこで二人だけの別れの宴を張るつもりであった。
いつも逢瀬はどこか声を潜めるようであったし、それはこっそりとこの家に入った今日も変わりはないのだが、それにしても気兼ねが薄いのがうれしかった。十四郎の姿を一時見失って、もしかすると大舘は慌てるかもしれないが、それはむしろ愉快に思えた。十四郎も同じ思いだろう。
(こんなふうに食事をとったのは、母と死に分かれる前以来ではないか。)
二人だけで膳に向った時、そう気づいた。今井に引き取られて以来は商家だから、諸事大人数であった。今井家の者ですら大旦那様と若旦那、その御寮人(妻)以外は、普段は使用人たちと同じ場所で食事をとった。一人で黙々と食べていても、横に誰かがあわただしく飯をかきこみ、広土間では丁稚たちが騒いでいた。長じて松前では、主人はひとりであつらえられた膳に向う。でなければ宴席であった。
「もしも十四郎さまとわたくしが、小さな店でも夫婦で切り盛りしていたら、毎日こんなふうに二人でお膳に向っていたのでございますね。」
「左様だな。もっとも、そんな店では、毎日こんな結構なものはいただけまい。」
「案外、わたくしはお料理が上手になれたかもしれませぬよ。」
「拙者は自分でつくれるよ。」
「まあ。」
「旅先ではそれが要るのだ。野宿もある。」
「……」
「すまぬ。」
「謝られてばかり。」
少し酒を飲んだ。あやめは宴席の必要があって飲むし、体質的に飲めるほうでもあった。ただ、こちらの人間は寒い国の常か、ひどく強い。
ところが、十四郎はさほどでもないようだった。それをいうと、そう沢山飲んだことも、飲まされたこともないからわからない、という。
「北国のおひとはお強いとうかがいました。」
いいながらあやめは、話柄を誤った気がしたが、仕方がなかった。
「はて、わたしはどうなのだろう? 堺の南蛮人はどうでござったか。」
「パーデレ……南蛮僧の方々はときおり、赤い酒を少し飲まれるだけでしたから、存じませぬ。船乗りどもの呑むのはまた違う白い酒のようでしたが、あの酒はどうやら濃いようで。」
「その酒、飲んでみとうござるな。わたしのような者の躰には、合うのかもしれぬ。」
「……ソヒィアさまは、いかがでございました?」
ソヒィアは一足先に立っていた。か細いながら加勢の約束を取り付けたところで、腹を括ったのであろう。(ゴミョーダイには憐みの心がない、とだけいったそうだ。それをコハルから聞いて、あやめは思わず頷いてしまった。)どこかで十四郎の一行を迎えて落ち合うことにして、村にいったん戻るのだそうだ。
(あの後、会うこともなかった。それきりであったな。)
(当たり前だが、お顔がよく似ていた。同族のなかでも、お血筋が近いのではないか。)
(あの女は刀を帯びていた。可哀想だが戦いで死ぬだろう、とわたくしは確信している。あれはなぜだか、死の影が濃い。病だとかのせいもあろうが……。)
(……では、十四郎さまはどうなるのだっ?)
「あれと酒を飲んだりはしなかった。そうした宴のようなことは、一度や二度は大舘でされたのではないか。」
「それは大舘のお方々が、冷たい。」十四郎に、である。「お呼ばれもなかったのでございますか。」
「兄者たちとの席なら、気づまりだから、呼ばれずにありがたい。ソヒィアから話も山ほど聞かされた。」
「あら、十四郎さまこそ、ポモールの村のことを、山ほどもお尋ねになったでございましょう?」
「左様であった。」十四郎は苦笑いして、小さな盃を干す。注いでやろうとするあやめを手で制して、「向こうが呆れるほど尋ねた。だから、最後は、であれば村に来て自分で見よ、といわれた。そうだ、お前も切支丹になれ、ともいわれたな。村には切支丹の寺があるそうな。」
「南蛮寺でございますか。」
あやめには懐かしい。
「困った。口説かれるといえば、そちらがうるさい。」
「おや。」
「だから、あれと大舘で宴などといったら、どうもいかぬなと思っていたところでござる。」
「ではございましても、お呼びもないというのは……」
「こうして、納屋の御寮人殿がお招き下さっている。拙者はそれが何より有り難い。うれしい。うれしくて、ならない。」
「お上手をいわれます。」
ならば、……と詮無いことをいいかけたが、あやめはその言葉はおさえる。
「あやめ殿。」
十四郎はあやめを抱き寄せた。無言でこたえた、柔らかな躰が震える。
あやめは息が尽きそうになるほどに長く口を吸われ、のぼせ上がるほどになってしまった。その場で裾を割られたが、
「あ、お床を、あちらに……。」
十四郎は頷いて、あやめの躰を抱いて、続く部屋に延べられた床まで運ぶ。
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