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一の段 あやめも知らぬ 破約(四)
しおりを挟む「ソヒィアなる者ですが、御寮人さま、始末いたしましょうか?」
コハルはある時、ずばりと聞いてきた。長い冬がさすがに緩む気配が濃い。青空も珍しくなくなっている。コハルたちにすれば、かねてよりの十四郎を連れ出す計画を進めるのであれば、思わぬ障害物は早めに除くべきであった。
(悪い予感があたってしまった。)
という思いが、コハルには強い。見るからに憔悴していく女主人の姿が、つらかった。
「そんなことはできぬ。……十四郎さまの御同族でいらっしゃる。」
「なにをおっしゃいまするか。……そないにお人のよいことで、どないしはりますねん。」
あやめは小さく笑った。
「コハルはわたくしなどより泉州堺が長いのに、忙しく他国を回りすぎたの。その言葉は、なにじゃろうか、ちょっと、へん。」
「御寮人さま。御曹司さまのお心を取り戻さねばならんのでございます。多少の荒い手をお許しください。」
女主人は黙って首を振った。
「あいつはどうも、病でございましょう。労咳に違いない。放っておいても、遠からず血を吐いて死にます。ここで楽に死なせてやったほうがいいくらいかもしれぬ。」
「いま、あのひとを殺したとて、十四郎さまを繋ぎ止めることができるかえ。もう村の場所もあらかたご見当がついていようし、村というからには、御同族は、あのソヒィアさまだけではないのだ。」
「ならば、どうされます。……そうだ、もう今日明日にも御曹司さまをなんとか船に乗せてしまいましょうか。眠らせて、目が覚めれば海の上、というのも」
「コハル。……できるものならわたくしもそうしたい。何度も同じことを考えました。されど、……そんな真似ができますか。わたくしが、十四郎さまのお心を知りながら、無理矢理に、そのような真似を……」
「御寮人さま。コハルめ以外に余人はありませぬ。どうか、お泣きになってくださいませ。堪えられるのは、かえっておつらいでございましょう。」
「すまぬ。だが、泣かぬよ。泣いたとて、どうにもならぬ。……もう、わたくしから、いってしまったのだし。」
「え。」
「なんと、知らなんだか。これはコハルともあろう者が、ぬかったな。」
(あやつめが去ってから、おふたりの睦言までは手の者の誰にも聞かせておらなんだ。これは、たしかに儂の手抜かり。しかし、御寮人さま、何を……?)
「夫婦になるのはやめましょう、と。」
「なんということをっ!」
「亡き母君の故郷の村、ポモールとやらの村にお行きなさいませ、と。あやめはお帰りを待っております、と。」
「待つ、といわれたのかっ? しかし、そんな、五年たてば帰れるなどとは空証文。それに、……なにより、そのポモールとやらの村は、危ないのでございますぞ。」
「それが聞きたいのう。なにかわかったか。」
「あとでお話しします。そんなことより、なぜ、ご自分からそのようにいわれたのか?」
「十四郎さまは、それを聞いて、……」あやめは声を詰まらせた。「すまぬ、と頭を下げられたのじゃ。床に手をつかれたのじゃ。かたじけない、とっ」
あやめはがくりと首を落としてうつむいた。
「あやめ様!」
「……仕方がないではないか。すぐに、そういわれてしまっては……。もう、お心は堺などを離れてしまわれている。あやめは欲しくないでもないが、それよりもまず亡き母君の故郷の村に行きたい。行って、かけがえのない同族を救いたい。そのお心を、どうやって変えればいい? 待っているから、好きなようになされよ。そういうしかないではないか?」
(この方は、十四郎さまに対して、物わかりがよすぎる。やさしすぎる。やはり、どこかで姉が弟をみるようなところがあるのだ。しかし、深すぎる慈しみは、おのれの身を切る。)
「……やはり力づくしかございませぬな。お許しをください。」
「ならぬ。決してならぬ。それに、無理というものじゃ。身のみならず、心まで堺に持っていけるのか、コハルといえども?」
「あやめ様……。」
コハルの目に涙が光った。おや、儂が本当に泣いているのか、とコハルは驚いた。目の前で必死に男女の悩みに耐えている女主人が、逆に小さい子どもに戻ってしまったようにみえてならなかった。店の大土間の片隅に座っていたあの子だ。
(なんと御不運のお子だろうか?)
「五年も待ちはしませぬよ、村のことが片付かれたら、きっと蝦夷地のどこかでお目にかかれましょうね、とはいった。十四郎さまも頷かれた。……なあ、もしもそうなったら、どこぞの湊にいって、ともに堺に行けるかもしれぬの。その時はどうか頼むぞ、コハル。」
「それは、おっしゃるにや及びませぬ。」コハルは低頭した。「しかし、村でございますが。」
「そうであった。気になる。」
「ソヒィアさまの話をアイノに聞き取らせました。また、かの人の従者どもからも話を聞いた。蝦夷商人どもの噂も、ポモールという名を出せば簡単に引き出せました。名前というのは大事でございますな。なにやら川の曲っただの折れただのという地名などでは、誰もわからぬ。これまで、十四郎さますらもご出自の地を探しだせませんでしたものを。……細いながら、大舘の集まりのことも入って参ります。」
「それで?」
「どうしてもお止めになれませぬか。十四郎さまを。」
「……それほどに。」
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