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一の段 あやめも知らぬ 破約(三)
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「故郷。……やっと、故郷を見つけられたのでございますね、十四郎さま。」
「えっ。」
「お顔の色が、変わられました。」
あやめは涙に顔を濡らしたままで、からかうように笑った。
「拙者は、ポモールなどではない。母がそうだとしても、わたしは、もう……」
「その、亡き母君の故郷の村が、危ないのでございますね。」
「……そう、聞いた。しかし、あやめ殿、拙者は」
「行きたいのでございましょう?」
「違う。」
「すぐにお答えになった。そのポモールとやらの村のことが、もう、お頭を離れない。」
「あやめ……それは違うぞ、あやめっ」
「うれしい、呼び捨ててくださった。」
「からかわれるものではないぞ、御寮人殿。」
「あら。」
あやめは泣き濡れた顔に笑みを浮かべている。
「勿体ないこと。もっと怒っていただけばよかったか。」
「あやめ殿にはお見通しかもしれぬ。わたしとて、亡き母の生地らしい村を、救えるものなら救ってやりたい。が、それはできぬことなのだ。」
「……。」
「大舘は加勢をはっきりと断った。村は、テシオの大きなアイノの村々を抑える“惣大将”(アイノの大首長を指す名称)に攻められているという。唐子は、蝦夷代官の政道の及ばぬ地、そんなところにわざわざ加勢する謂れは何もない。そして、もしも松前からいくばくかの兵を差し向けたところで、強力なアイノの一団と対決して、必ず勝てるというものではない。要するに、大義も利得も何もない戦。そんなところで死ぬは、犬死。蝦夷侍の武勇はそう捨てたものではないと思うが、誰も、犬死はしたくない。」
「あなた様には、大義がござりませぬか。命も利得も何も捨ててもよいほどの、大義が。」
「……いや、なかろう。武家の大義は、主家に仕える忠義にある。母の故郷の村、こんな姿かたちの者どもの村であっても、大舘の判断があった以上、それを救うは忠義というものでもない。」
「もし、その村が滅んでしまうとしても、見て見ぬふりをされますか。」
「あやめ殿、どうされたか。おかしいぞ。そなたはまるで、わたしをその村に行かせたいようだ。」
「そんなはずがありましょうか。」あやめの目からまた涙が落ちた。「絶対に行かせたくございませぬよ、わたくしは。」
「ならば。」
「……別れたらへんわ。」
あやめは泣きながら笑い顔を作った。国のことばをわざと野卑に使う。
「えっ?」
十四郎には、あやめの地のことばはあまりわからない。
(別れる、といったのか?)
思えば、あやめも逆に、十四郎がくだけた調子になって土地のことばを使うと、とても聞き取れないのであった。こちらで雇った使用人同士の会話はもちろん、蠣崎の家の集まりで侍たちに交わされることばも、いまだに慣れぬ異国語のようであった。
標準語などない時代だから、室町幕府の格式に沿った武家ことばがその代わりになる。それだけではむろん足りないので、ふたりのような生地のかけ離れた間柄では、文章語や能狂言といった芸能のことばを交えて、わかりやすい音を心がけ、それぞれの共通語を探りさぐり、つくるしかなかった。
(思えば、それだけでも、なんとも遠い仲であったか……。)
あやめは苦い感慨に沈みそうになるが、いや、その共同作業もまた楽しかったではないか、と気をとりなおして、
「決してお別れはいたしませぬよ、と申しました。」
「無論のこと。」
「ソヒィア様は、村に帰られるのですか。」
「しばらくは、松前に残らざるを得まい。加勢を得なければ、戻れはしないのだ。」
「ああ……」
あやめは頭の中が、黒い絶望感に充たされていくのを覚えた。
(足掻いても、足掻いても、おそらく、日がたつほどに、どんどん悪くなっていくだろう。)
それからの一か月ほど、辛い日々はなかった。あやめの悪い予感通りになっていく。あやめは悲観と楽観、絶望とはかない希望、不信と信頼、愛情と憎悪の間をはげしく行き来し、へとへとにさせられた。
(十四郎さまがわたくしとの約束を違えるはずがない。きっとよくしてくださる。)
強く信じていたい。それなのに、会うたびに十四郎の態度がへんになっていく。
ソヒィアという女は、毎日のように大舘から寺に、十四郎を訪れていたようである。
寺の門から出てきたばかりのところに、また一度だけ出くわしたことがある。反射的に隠れるようになってしまう自分が、歯がゆい。十四郎の妻だと挨拶してやってはどうかと、埒もないことを思ううちに、長い背を丸めて厭な感じの咳をする女の影は、遠ざかってしまった。
憎らしくてたまらぬくらいに、たたずまいが十四郎そっくりで、眩暈がした。
「口説かれてはなりませぬよ。」
十四郎に後ろから抱かれて寄り添いながら、ことさらに冗談のような口調で、あやめはいってみたりした。
「どういう意味か。」
あやめの首筋のよい匂いを嗅いでいた十四郎も、笑う声を出す、
「躰だけの浮気なら、許してさしあげますが。」
「なにをいうやら。」
十四郎はあやめの耳朶を噛んだ。あやめはたちまち硬直してしまう。
「あやめ殿だけだ、おれは……」
十四郎は鳥肌のたった、あやめの首の後ろの肌に唇をあてる。息が熱くなりはじめたあやめの頭の底は、しかし冷え冷えと冴えていた。それだけに、一時の陶酔が欲しかった。
(お会いするたびに、どんどん悪くなっていく……!)
十四郎は、ソヒィアの村の場所をすでに聞いているようだった。しかし、あやめの知らぬところで、ふたりが何か示し合わせているということはない。ソヒィアはただ、村の話をしているそうだ。それが十四郎の心にどれだけはげしく、そして甘美に突き刺さるのか、あやめは考えただけで恐ろしい。
それ以外には、どう勘違いしたものか、大舘のお屋形や名代を説得して大量の兵を借りられるように、十四郎に口をきいてくれと言い続けているものらしい。十四郎は自分の立場を説明しようとしているが、話は通じていないらしい。ソヒィアは毎日同じことをくりかえすので、十四郎は弱っているようだった。
どうやら大舘―ご名代様の蠣崎新三郎らは、ソヒィアの話をていよく十四郎に押しつけるつもりだ。しかも十四郎がそれを受ければ、おそらく身は平穏無事ではないから、新三郎などにすれば好都合ということころなのだろう。ソヒィアの村に加勢せよ、と十四郎に役分として命じることすらありうるが、そこで多人数をつけてくれるわけでもあるまい。死ね、というようなものであった。
(大舘め。ご名代め。それほどに十四郎さまが邪魔か。憎いか。)
コハルらの集めてきた話を聞くたびに、あやめは拳を固めて怒りをおさえなくてはならない。
ソヒィアのほうから大舘に迷い込んで来たには違いないが、まるで新三郎の思う壺であった。おそらくは命からがら松前に辿りつき、旅塵にまみれたままのソヒィアを謁見したとき、その姿かたちをみて、新三郎は内心でほくそ笑んだのだろう。
ただ、こうしたことを十四郎が絶対に教えてくれないのには、あやめは強い不信感を抱いていった。
(なんてことだろう、このわたくしが十四郎さまを信じられなくなっている!)
「えっ。」
「お顔の色が、変わられました。」
あやめは涙に顔を濡らしたままで、からかうように笑った。
「拙者は、ポモールなどではない。母がそうだとしても、わたしは、もう……」
「その、亡き母君の故郷の村が、危ないのでございますね。」
「……そう、聞いた。しかし、あやめ殿、拙者は」
「行きたいのでございましょう?」
「違う。」
「すぐにお答えになった。そのポモールとやらの村のことが、もう、お頭を離れない。」
「あやめ……それは違うぞ、あやめっ」
「うれしい、呼び捨ててくださった。」
「からかわれるものではないぞ、御寮人殿。」
「あら。」
あやめは泣き濡れた顔に笑みを浮かべている。
「勿体ないこと。もっと怒っていただけばよかったか。」
「あやめ殿にはお見通しかもしれぬ。わたしとて、亡き母の生地らしい村を、救えるものなら救ってやりたい。が、それはできぬことなのだ。」
「……。」
「大舘は加勢をはっきりと断った。村は、テシオの大きなアイノの村々を抑える“惣大将”(アイノの大首長を指す名称)に攻められているという。唐子は、蝦夷代官の政道の及ばぬ地、そんなところにわざわざ加勢する謂れは何もない。そして、もしも松前からいくばくかの兵を差し向けたところで、強力なアイノの一団と対決して、必ず勝てるというものではない。要するに、大義も利得も何もない戦。そんなところで死ぬは、犬死。蝦夷侍の武勇はそう捨てたものではないと思うが、誰も、犬死はしたくない。」
「あなた様には、大義がござりませぬか。命も利得も何も捨ててもよいほどの、大義が。」
「……いや、なかろう。武家の大義は、主家に仕える忠義にある。母の故郷の村、こんな姿かたちの者どもの村であっても、大舘の判断があった以上、それを救うは忠義というものでもない。」
「もし、その村が滅んでしまうとしても、見て見ぬふりをされますか。」
「あやめ殿、どうされたか。おかしいぞ。そなたはまるで、わたしをその村に行かせたいようだ。」
「そんなはずがありましょうか。」あやめの目からまた涙が落ちた。「絶対に行かせたくございませぬよ、わたくしは。」
「ならば。」
「……別れたらへんわ。」
あやめは泣きながら笑い顔を作った。国のことばをわざと野卑に使う。
「えっ?」
十四郎には、あやめの地のことばはあまりわからない。
(別れる、といったのか?)
思えば、あやめも逆に、十四郎がくだけた調子になって土地のことばを使うと、とても聞き取れないのであった。こちらで雇った使用人同士の会話はもちろん、蠣崎の家の集まりで侍たちに交わされることばも、いまだに慣れぬ異国語のようであった。
標準語などない時代だから、室町幕府の格式に沿った武家ことばがその代わりになる。それだけではむろん足りないので、ふたりのような生地のかけ離れた間柄では、文章語や能狂言といった芸能のことばを交えて、わかりやすい音を心がけ、それぞれの共通語を探りさぐり、つくるしかなかった。
(思えば、それだけでも、なんとも遠い仲であったか……。)
あやめは苦い感慨に沈みそうになるが、いや、その共同作業もまた楽しかったではないか、と気をとりなおして、
「決してお別れはいたしませぬよ、と申しました。」
「無論のこと。」
「ソヒィア様は、村に帰られるのですか。」
「しばらくは、松前に残らざるを得まい。加勢を得なければ、戻れはしないのだ。」
「ああ……」
あやめは頭の中が、黒い絶望感に充たされていくのを覚えた。
(足掻いても、足掻いても、おそらく、日がたつほどに、どんどん悪くなっていくだろう。)
それからの一か月ほど、辛い日々はなかった。あやめの悪い予感通りになっていく。あやめは悲観と楽観、絶望とはかない希望、不信と信頼、愛情と憎悪の間をはげしく行き来し、へとへとにさせられた。
(十四郎さまがわたくしとの約束を違えるはずがない。きっとよくしてくださる。)
強く信じていたい。それなのに、会うたびに十四郎の態度がへんになっていく。
ソヒィアという女は、毎日のように大舘から寺に、十四郎を訪れていたようである。
寺の門から出てきたばかりのところに、また一度だけ出くわしたことがある。反射的に隠れるようになってしまう自分が、歯がゆい。十四郎の妻だと挨拶してやってはどうかと、埒もないことを思ううちに、長い背を丸めて厭な感じの咳をする女の影は、遠ざかってしまった。
憎らしくてたまらぬくらいに、たたずまいが十四郎そっくりで、眩暈がした。
「口説かれてはなりませぬよ。」
十四郎に後ろから抱かれて寄り添いながら、ことさらに冗談のような口調で、あやめはいってみたりした。
「どういう意味か。」
あやめの首筋のよい匂いを嗅いでいた十四郎も、笑う声を出す、
「躰だけの浮気なら、許してさしあげますが。」
「なにをいうやら。」
十四郎はあやめの耳朶を噛んだ。あやめはたちまち硬直してしまう。
「あやめ殿だけだ、おれは……」
十四郎は鳥肌のたった、あやめの首の後ろの肌に唇をあてる。息が熱くなりはじめたあやめの頭の底は、しかし冷え冷えと冴えていた。それだけに、一時の陶酔が欲しかった。
(お会いするたびに、どんどん悪くなっていく……!)
十四郎は、ソヒィアの村の場所をすでに聞いているようだった。しかし、あやめの知らぬところで、ふたりが何か示し合わせているということはない。ソヒィアはただ、村の話をしているそうだ。それが十四郎の心にどれだけはげしく、そして甘美に突き刺さるのか、あやめは考えただけで恐ろしい。
それ以外には、どう勘違いしたものか、大舘のお屋形や名代を説得して大量の兵を借りられるように、十四郎に口をきいてくれと言い続けているものらしい。十四郎は自分の立場を説明しようとしているが、話は通じていないらしい。ソヒィアは毎日同じことをくりかえすので、十四郎は弱っているようだった。
どうやら大舘―ご名代様の蠣崎新三郎らは、ソヒィアの話をていよく十四郎に押しつけるつもりだ。しかも十四郎がそれを受ければ、おそらく身は平穏無事ではないから、新三郎などにすれば好都合ということころなのだろう。ソヒィアの村に加勢せよ、と十四郎に役分として命じることすらありうるが、そこで多人数をつけてくれるわけでもあるまい。死ね、というようなものであった。
(大舘め。ご名代め。それほどに十四郎さまが邪魔か。憎いか。)
コハルらの集めてきた話を聞くたびに、あやめは拳を固めて怒りをおさえなくてはならない。
ソヒィアのほうから大舘に迷い込んで来たには違いないが、まるで新三郎の思う壺であった。おそらくは命からがら松前に辿りつき、旅塵にまみれたままのソヒィアを謁見したとき、その姿かたちをみて、新三郎は内心でほくそ笑んだのだろう。
ただ、こうしたことを十四郎が絶対に教えてくれないのには、あやめは強い不信感を抱いていった。
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