えぞのあやめ

とりみ ししょう

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一の段 あやめも知らぬ   春を待つ(五)

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「斯様なこともあった。」
「よい加減にせよ。聞かぬぞ。」 

 十四郎がいきり立ちすぎて、あやめの中に入ったとき、慌てたことがある。
「あ、いかぬ……!」
 すぐに吐き出してしまった。驚いたあやめと目があい、下半身を意志とは関係なく痙攣させながら、恥ずかしさに目を背けるようにする。
「かわいいな!」
 あやめは若者の表情に笑み崩れ、つい口に出した。十四郎の頬を両手で挟み、いとおしげに撫でた。
(この世で一番に美しいお顔……!)
 ばつがわるい十四郎はあやめの躰から離れる。名残惜しげにあやめの汗ばんだ肌を吸ったりしていたが、そのうちに、あやめのほうがまた昂ぶってきた。
「十四郎さま……」
 目を閉じて、絞るような声が出た。
「……?」
「もういっぺんくらいやったら、できるで?」
「え?」
「いえ、いえ……今一度ならば、まだ……お願い、できまする。」
 上気しながら、微笑んで、十四郎の二の腕に手を添えた。

「へんな上方言葉をおぼえよって。……つらい事と喜びは表裏一体とは、当然のことであろう。御寮人さまの、あのわけのわからぬご帳簿も、そうなっているそうだが、しかし、おぬし……」
「どうして、御寮人、だの、あやめ殿、と呼ばれるのか、呼び捨てになさってください、と頼まれるのだ。御曹司さまはしかし、やはりそなたを呼び捨てはできぬな、とお断りであった。まだ今井のお家のお許しもいただいていない以上、夫婦も同然とはいえ、夫婦ではない。」
 なんの興が乗ったものか、寺男は声色まで使いだした。聞かされているコハルはあっけにとられる。
「あやめ様、いや、御寮人さまは拗ねられての、いつまでもあまりにも他人行儀というものではないですか、とおっしゃった。いわれる通り、おふたり、生まれたままのお躰で寄り添って毛皮をかぶり、その下で手をつないでおられるのだ。ところが、御曹司さまは、ではそなたは拙者のことを十四郎と呼び捨てるか、それならば、こうしてふたりだけのときは、あやめとお呼びしよう、と。御寮人さまはご苦吟のご様子になられる。どうなされた、弟でもお呼び捨てのようになさればよろしかろう、などと、御曹司はおからかいになる。それが効いたのか、とても無理にございます、と御寮人さまは、頭を下げられた。でも、もう一度だけ、いまのように、あやめ、と呼んでいただけませぬか。御曹司さまは頷かれて、あやめ、と呼び捨てられると、御寮人さまはいつものごとくはにかまれてお顔を伏せたが、我が名でございますのに、お口から出ますと、えならぬ(素敵な)響き、とうっとりなされるご様子。」
「……おぬしな。」
「こと果てたあと、並んで寝ながらしばし、物語りをされるのだが、見まがうほどにひとしきり痴れられてしまい、時も経ったというに、なかなか日頃の凛とした御寮人さまのご様子にはお戻りにならんのだ。御曹司さまの乳の毛などにお指を巻いて、面白そうに微笑まれる。」
 コハルには、あやめのあどけない表情が目に浮かぶのだった。
「上方者には、乳の周りの毛が珍しいのか。」
「知らぬな。だが、今のお前の話は、儂の聞きたいものと思うたか?」
「御寮人さまが、新しいお召し物をお見せになられたとき、お胸のことをお気にされた風でな、どうも少し大きくなってしまったようでございます。どなたのせいで、とおからかいになる。御曹司さまが閨のお振る舞いに思い当られてか、いや、そんなことはなかろう、といわれると、御寮人さまは、なんの、そうでございます、今度おみせいたします、といわれてしまい、おふたりとも揃って赤面されたのがな。」
「もうよいわ。しかし、おぬしは、もはや……」
「口約束の行き違いがあって、御曹司さまがおれに呼びかけた話はしたか?」
「もう要らぬことは申すな。」
「御曹司さまも御寮人さまを二なき者と思われている証ともなろう、いい話だ。」
「聞かねばならぬか。」
「どうも御曹司さまがおひとり、お倉のなかでそぞろわしき(落ち着かぬ)ご様子。はて、と思っていたら、中空に向かって、いるであろう、頼まれてはくれぬか、との思し召し。納屋の御寮人殿とのお約定があったが、なにか御身にありはしなかったか、知らぬか。であれば、納屋に行ってご安否を確かめてはもらえぬか。おれもついぎくりとしたが、なに、口約束の行き違いがあったのみよ。お店の中に入って、……」
「待て。おぬし、お店の中に忍び込めたというか。」
「できたとも。おかしら子飼いの、上方から渡りの者どもを叱ってやることだな。……御寮人さまに、御曹司さまとの逢瀬のご約定の日がおくい違いのようでございますが、といって差し上げると、宵までお仕事のごさいちゅうだったが、跳ねとぶように南蛮椅子より立ち上がられて、おろおろとなされるさまは、いと愛らし。疾く参りますと、どちらの過ちともたしかめもせず、ただ御曹司さまがお待ちというだけで、その足で寺町まで駆け上がろうとのご様子であった。」
「あの日はお屋敷で宴席があったのだ。御寮人さまはお忙しい。」
「おれもそれは知っていたものでね。おそれながらお待ちあれ、と申し上げた。宴果て、お客をお見送りしたのちでも、遅くはござりませぬ。もしお命じあらば、御曹司さまを人知れずお連れ申しまする。」
「出過ぎた真似をしおる。儂に一言もなしに。」
「御寮人さまのお喜びのお顔を、おかしらも見たかっただろう。」
「儂もそのあと、拝んだわ。茶室に内々に膳を運んだり、なかなかに手間であったが、おぬしのせいか。」
「御曹司さまは足摺りしながら待っておられたが、御寮人さまのご無事ご息災を告げると安堵され、なるほど、おそらく拙者の覚え違いであろう。おぬしの顔も見えぬが、大儀であった。納屋殿のご家来なるに使い立てして悪いことをした、と。」
「おぬしの柄にもない。お言葉をいただき、冥利をおぼえたか。」
「おぼえたな。あのお二人を見守っていると、松前まで流れてきた甲斐があったとおもえる。」
「しかし、それではおぬしには、もはや、この役は……」
 コハルはいわねばならなかった。
「わかっておる。」
 対象に対して心臓があまりに温かく鼓動しすぎると、仕事は完全な失敗に終わる―という意のことを、この稼業に長い二人はともによく理解していた。
「おかしらに、それを告げてもらおうと、お呼び出しした次第じゃ。」
「おぬしの奥州言葉は重宝じゃ。また御寮人さまのお役に立ってもらおう。」
「ほう、あの……」と男はコハルの別の名を呼び、「が、えらく、やさしいの。」
「秋田に行って貰おう。」
「安東様か。また、いまさら面白いところに碁の石を打つものだな。」
「なんの、“駄目”かもしれんがな。念のためだ。」
「おかしらは、やはり安心しておられんようでござるな。」
「おぬしも、実はそうであろう。」
 だからこそ、稚ないふたりの痴愚ともいえるやり取りにはかなさを覚えて、このような稼業の男が、胸の琴線をかき乱されているのだ。
「おれの懸念をひとつ、いうぜ。」
「それこそ聞かせよ。」
「なんの、カンでしかないが。へんな胸騒ぎがしたのよ。」

「美しい。」
 灯火のつくる薄闇の中で重なり合いながら、十四郎は感に堪えて呟いた。闇の中で瞳が大きく開いた女の顔が、若者の目に、戦慄するほど美しい。
(これほど美しいひとだったか。)
 まだ躰はつながっていない。
 あやめのほうが、十四郎の胸板にのしかかり、唇を当てていた。愛撫をくりかえしながら、あやめは男のつぶやきに微笑んだ。上にかぶさるその笑顔の美しさに、十四郎は驚いた。
「こんなに、美しくなられたとは。」
「あら。」
 肌を這う十四郎の指の動きのせいで、ときおり襲う快感に顔をしかめながらも、まだ余裕のあるあやめは、感動しているかのような男をからかう。
「お心違いを。あやめは堺におりますときから、なかなかの見目良しとだけはいわれておりましてよ。」
「さもあらん。だが、ほんとうに、以前よりはるかに、はるかに綺麗になられた。」
「どなたのおかげでございましょう?」
 あやめはうれしさに胸がはち切れそうになりながら、男の胸を擦りあがり、その顔を両手で挟んだ。眺めて、うっとりとする。
「十四郎さまのお顔こそは、ほんとうにお美しい。」
「まさか。おれは、……烏天狗のような顔だといわれてきたよ。」
「堺の南蛮人にもお似かよいですが、あれらの方々よりも、ずっとお美しい。わたくしは、このお顔を拝見すると、世のものではない気がいたしまする。」

「あのお顔か。世のものではない、か。……おぬしのいわんとすること、わかったぞ。あのようなお顔は、たしかに天下六十余州には二つとなかろうが、しかし……」
「蝦夷地は広い。おれは、御寮人さまのために、そんなことが起こらぬを祈る。」
「まったく柄にもない。」
 この自分も要らぬことを喋りかけた、とコハルは苦笑いした。
 かれらが恐れていた、ひとの形をとった破綻は、突然訪れた。



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