えぞのあやめ

とりみ ししょう

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一の段 あやめも知らぬ   春を待つ(三)

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「御寮人さまのお気持ちは、荒れた海の小舟のように右へ左へとかしいでおられるな。無理もないぜ。」
(ご不安とお喜びの間を揺れ動く、の意か。うまいことを言いおる。)

「十四郎さま。お文を頂戴いたしたいとお願い申しておりました。」
 ある日、珍しく諍いめいたものがあった。
 その前に十四郎が、蝦夷地のどこかに文を書いているのを倉の明り取りの下の文机に見つけたことがあり、不安に感じて尋ねると、文面をみせてくれた。ヨイチの、八郎右衛門という和名をもつアイノの“大将”(部族や地域集団の長・有力者)に、この春にも久しぶりに尋ねるつもりであったが、事情があってできなくなったということを詫びる文章であった。
 あやめの安堵と喜びは限りがなかった。
 その喜びのあまり、自分にも手紙が欲しいといい出したのである。恋文、ということになろうが、歌など書いていなくてもよい。そもそも、万が一、大舘の手にその手紙が落ちればと考えれば、おろそかなことを書かれてもまずい。無難な近況を暇に任せて書く態でよい。借銭の願いでもなんでもいいのだ。
「お手紙をいただきたいのでございます。店でも、ご手蹟をいつも身に着けて、お守りといたしたく。」
「難しい手紙でござるな。」
 筆まめなはずの十四郎は、なぜか億劫げであった。
「お願いいたしましたのに。」
「すまぬ。しかし、こうしてお目にかかれるではないか。」
「毎日ではございません。御曹司さまは、納屋に会ってやるなど、これくらいで十分でございますか。」
「あやめ殿。そう怒られるな。」
「畏れ多い。怒ってなどおりませぬ。たまに会ってやればそれでよい、というのが悲しく存じます。……やむを得ない? であればこそ、せめてお文を一度いただきたいと思っておりましたのに。」
「わたしが悪かった。今、書こうか。」
馬鹿にしてらあ、と思って、あやめは倉の中に転がっている、がらくた(お寺には悪いが、あやめにはそうとしかみえない)を眺めて、目をあわせない。
「いずれ堺では、毎日会えようし、……」
(わかっていらっしゃらない!)
「御曹司さま、堺とおっしゃいましたな。」
「こわや。……いや、……うむ、申した。」
「手前も畏れながら堺に御伴いたしとう存じますが、ご案内が済めば、どういたしましょうか。手前をどうなされますか。その足で松前に戻れ、大儀、というわけでございましょうか。」
「そんな筈がないではないか。いきなり、なにを申す。」
「手前……わたくしは十四郎さまに、きちんとご求婚の思し召しをいただいておりませぬ。夫婦になれるというのは、あるいは、あやめの心得違いかと思えば、いてもたってもいられませぬ。」
 半ば本音であった。
 十四郎にも、それは伝わったらしい。
「すまぬ。……許されよ。」
「許すなどと。ただ、……」
「わたしは、あやめ殿と一緒にいたいからこそ、堺に参るのだ。あやめ殿、どうか、末永く一緒にいてくださらぬか。」
 あやめは、いきなりの率直な物言いに驚いて、がくがくと首を縦に振った。声が出ない。
「わたくしも武家の育ちなので、誰かと夫婦になるとすれば、家と家との話が先だとばかり思っていた。」
(えっ、それをお気になさるのか?)
 あやめは内心でまた悲鳴をあげた。
「だが、いまはもう、そんなことはどうでもよく思えるのだ。もしも、あやめ殿もそう思って下さるのなら……」
「あたりまえでございまする。」
 あやめはうれしさにかえっておろおろとしてしまい、
「あやめは、十四郎さまとなら、たとえ野合と後ろ指を指されても構いませぬ。」
「野合とまでは。」
 十四郎は苦笑する。
「あ、あ、申し訳ございませぬ。それに、仲人さまなど堺でいくらでもお願いできまする。堺の町衆でも、しかるべきお武家さまでも。」
「ありがたし。……それに、仲人といえば、わたくしどもの間を最初にとりもってくれた人が、この蝦夷島にいたな。」
「エコリアチ様!」
 白磁を十四郎に託してくれた、あのアイノの船乗りだった翁がいるではないか。
「十四郎さまとわたくしのご縁は、あのお方がお結びくださっています。」
(わたくしを堺から蝦夷島に導いてくださった方が、宝物のようなこのお方も授けてくださった。なんというご縁……!)
 あやめは感動に微笑んだ。十四郎も微笑んだが、また少し悲しげな影がそこに浮かんでいる。
「無一文だから、ふさわしい婚儀なども、とてもできぬかと思う。すべきでもない。だが、あやめ殿のお立場をおもうと、心苦しい。」
「そ、そ、そんなことは……どうでも、……どうでもよろしいのでっ。」
「いや、少しでもあやめ殿のお恥にならぬようにとは思う。だが、そもそも、わたくしは、このような顔かたちで、しかもまずは牢人。そのときは牢人崩れか。ご商売でも、今井殿にお役に立てるようになるかもわからぬ。」
 あやめは青ざめて、ぶるぶると首をこんどは左右に振る。
「それでもよろしければ、どうか一緒になってくだされ。」
 十四郎は頭を下げる。
 あやめは平伏するようにしてそれに応じた。
 肩をとられ、抱き寄せられる。
「なかなかお会いできぬが、いつもこうしたいと思っている。」
「わたくしも。」
「すまぬ。」
「よろしいのでございます。堺では夫婦なのですから、毎日会えまする。」
「おれがそういったよ。」
 おもわず地の言葉でいって、十四郎は笑った。
「松前には参らねばなりますまいが、とんぼ返りして、いつも堺に戻ってまいります。」
 もう堺の町にいる十四郎の姿を思い浮かべている。
 十四郎もそれを想おうとし、どうも像を結ばないので弱った。上方の豪商のことなど、なにも知らないし、今調べようもない。しかし、いずれそうなることである。容儀も商人らしく直し、今度こそ一所懸命のつもりでやろう。
「おう、御商売をお教えあれ。」
「お教えさしあげます。」
「教わることばかりだの。」
 十四郎のいわんとした意味がわかり、あやめは真っ赤になった。
「にくし(ひどい)、にくし。そんなことはございませぬ。」
「左様か? はじめて口をあわせたとき、すぐに舌が入ってこられた。ああ、齢上の女の方だな、と思った。」
「いやらしいっ。」
 あやめは泣きそうになる。
「あれは……。店の悪い連中の話を小耳にはさんでしまい、……まこと躾けの悪い者どもが、子どもの前で廓の……いえ、どうせあやめは、年増の行き遅れでございますよ。」
「そんな無礼なことは申しておらぬ。よくご存じだ、お上手だ、と。」
「あなた様のせいだっ。」
あやめは十四郎の胸に熱い頬を押し当て、顔を隠すようにしなければならない。

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