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一の段 あやめも知らぬ 約束(一)
しおりを挟む納屋の御寮人に、泣きふしている暇はない。そもそも、あやめは本当に泣き顔をひとにさらしたことなど、成人してからたしかに一度もない。
コハルは別だ。
昔から何度となくあやめの泣くのをみていた。堺・納屋でコハルは、裏表二つの顔を使い分ける繁忙のなか、風変わりで孤独な少女の面倒をみるところから仕えてきたのだ。無口で物静かな子どもで、どこかひとの目のつかぬ片隅に籠って泣いていることが多かった。
成長し、蔵の番や小商いでいっぱしの商人面をしはじめた頃も、だからこそひとり忍び泣く夜が多いのも、実は知っていた。
松前に来てからはそれが減ったように思えた。コハルはうれしかった。
ところが、このところの十四郎の件である。
コハルなどの目に、あきらかに「女」になって店屋敷にこっそり戻ってきたあの日の御寮人さまは、しかし、寺では泣きに泣いていたようだ。
首尾は想像もつくので、ひそかに法源寺に「つけて」いる者の報告を聞くまでもなかった。
コハルたちのような稼業の者の倫理感はやはり歪んではいて、この者はきっと若者二人の閨の仕草や息遣い、歔欷の全てまでを聞いたに違いない。だが、そんなことはコハルが訊きでもしない限りは答えないし、そうでなければ記憶にこそあっても、自分も興味をもっていないのである。
コハルが耳をそばだてたのは、ふたりの会話が、危険な領域に踏み込みかけたことだ。
「十四郎さまがお止めになったか。」
「そのお話は、それまでにて。御寮人さまも、お拘りはさほどにございません。」
(……さもあらん。そして、それでよい。)
(だが、いずれは、そうした荒事を考えねばならぬのではないか?)
コハルは、事態がさらなる異変に向かって流れていくのを恐れている自分に気づいて、乱を飯の種にするわが身が、どうしたことかと嗤った。
(小娘の色恋沙汰につきあっているうちに、儂ともあろうものが、すっかり鈍ったわい。)
コハルは呼ばれない以上は行くまでもないかと思い、御寮人さまの働きぶりをみている。普段と変わりがないようだった。心のなかはともかく、体調も大きくは崩していない。
あとは万が一、ただの一度で子を孕んでいたりすれば、ということくらいだが、こればかりはもっと日がたたねばわからぬし、まずはどうしようもないことだ。
(もしもそうなっていたら、御曹司さまを眠らせてでも船に積み込み、有無をいわさず堺に連れ去るまでよ。)
いま、納屋の御寮人が熱中しているなのは、松前の和人商人が蝦夷船の商売に参加するさいに生じる紛争を減らす仕組みをつくることのはずだった。アイノ商人―多くはオヤカタとかタイショウとか言われる、村のおさたち―の村単位の把握が必要なのだ、かれらを評判と連帯責任で縛る、わたくしども商人も縛られる、などと番頭や同業の者たちに説明していた。
「アイノ……蝦夷の村々をよく知らねばなりますまい。」
北に長く住むはずの十四郎をせめて盛り立てようというつもりではないらしく、蠣崎のお代官さ畏まはれながらたいして役にたたれぬ、こんな南の端に引き籠られるばかりで、と冗談のように笑い、これはわたくしども商人が自分でやらねばならぬ仕事でございましょう、まずは上ノ国のアイノたちから、などといっているのが聞こえた。
(無理をされていないか。呼んでくれれば、いってさしあげたいのだが……)
まだ絶望されるにはおよびませぬ、ということであった。
十四郎の言葉に嘘はなかろうが、立派過ぎるであろう。世に慣れぬがゆえに純粋な若侍は、そうなりやすい。だが、男子の鉄腸が簡単にとろけるのなど、コハルは何遍も見てきましたよ、と。
二日たった。御寮人こそは眠れないらしい。腫らしたことがわかる目をいつもより濃い化粧で誤魔化し、働く姿もそろそろ精彩を欠きだした。
法源寺の寺男のひとりが、お遣いに寺町から湊のあたりに降りてきたらしい。店の前を通り過ぎる。コハルはもちろん、あとを追う。
「不覚でございました。」
「どうしたというのだ。」
言葉の割に、男の声に切迫感がない。
「昨夜、十四郎さまに声をかけられた。」
「なぜお前の正体が知れた?」
「そういうわけではございませぬ。それはあり得ぬ。」
男なりの矜持があるらしく、声が尖った。長年の子飼いの者ではないから、コハルもそこは謝ってやる。奥州生まれは言葉からしてここでは潜らせるに重宝なので、せいぜい大切に使ってやらねばならぬ。
「ではどういうことじゃ。」
十四郎がひとり床に入る前に、そこにたれかいてくれるのであろう、用件を頼まれたい、と聞こえるように呟いたのだという。
「ほう。」
「おれのような者が張っているというのは、お気づきだった御様子。それは、おれのしくじりではないぜ。当然、そういうものを、納屋がつけてくれていると考えていたご様子。」
(わかっていて、御寮人さまを抱いたか。)
やはり、並みの神経ではない。ああみえて、我らのような種類の者など人のうちに入らぬくらいの感覚がなければ、まぐあいの様を覗かせて構わぬなどと思えることかとも思える。御寮人のために、コハルは―この男を、自分が使っておいておかしいのだが―やや不快に感じた。
(ただ、ここはさすがにお武家の豪胆ぶりというべきであろう。)
「ときに、十四郎さまのご様子はどうか。」
「兄君の和尚にいわれたとおりの毎朝のご読経、ご勤行と、あとは蝦夷地のオヤカタやタイショウへのお手紙ですな。すべて、大舘がお読みになっても大過なき内容。」
(用件というのは、これでは見当がつかぬな。)
「で、用件とは。」
「呟かれるに、かの人にお会いしたい、頼まれてくれ、と。それだけいって、あとはすぐに寝息ばかり。」
(ほら、釣れ申した。)
コハルは内心で手を打った。女主人のために、まずは喜びたい。
「どちらが、楽か。」
二人を会わせてやるのに、店か、寺か。
「昼、暫時ならこちらならお連れできます。ただ、逢瀬の時間をとるのは、まだ難しい。そこで夜であれば、御寮人さまをお運び申すはできる。そして夜は長い。」
男は、何だかうれしげにいった。
「いきなり御寮人さまをお連れしてよいものかの。」
「おれに訊かんで貰いたいな。それより、お輿が欲しいですな。」
女の乗り物があれば、誰をどう運ぶにせよ、便利であろうというのである。
主人みずから店の倉の中に入り、若い手代の与平が出してきた勘定に持った疑いをたしかめてみた。自分の間違いにすぐ気づく。古馴染のかれを呼びつけて叱らずにいてよかった。あやめだけが心覚えにつけている異様な帳面に、手代たちはやはり疑いを持っているから、むかしながらの正式の勘定帖のほうが合っております、という事態は避けておきたい。
ことに齢の近い与平あたりなら、そのあと、どんなきつい皮肉をいうかわからぬ。どうもあの男は、主人を女とみて侮るところがあるのか、番頭に対するよりもむしろ主人のあやめに妙に余計な口を叩くところがある。物堅い手代だから慎重な正論が多いが、それがまた余計だと思えるのだ。
(あいつに何かいわせぬで、まあ、助かったわ。)
(やはり、頭がまわらぬ。)
倉の中であやめは、自分を叱った。あの日以来、十四郎のことがどうしても頭をよぎる。足の間の違和感は昨日で消えたけれども、それをふと思い出すと、かえってつらい。うまくいかなかった、という哀しみがつきあげると、どうもならない。
「御免。」
そばに十四郎が立っている。一瞬、恋しさのあまり自分が狂したかと怯えたが、すぐにコハルらの手妻(手品)だとわかった。
「いらしたのでございますか。」
うれしさを抑え込み、冷静な声を作った。
「なぜ、来たものかな。考えてみれば、神隠しにあったようだ。」
あやめは笑った。
「そう長くはおられぬ。」
「あら。」
「今宵。お話がある。お越しくださって、よろしいか。」
あやめは思わず震えた。一瞬で汗をかき、匂いが自分の躰から立ち上がるのをおぼえた。
「参りまする。」
いって、顔を伏せた。
「……よかった。」
十四郎の安堵するような声に、救われた気持ちになる。
「では、これにて。」
「もうお戻りですか。お茶をたてましょうかと。」
「それは、またのときに、是非……」
「是非、でございますよ。」
十四郎が出ていくのを見送った後、自分の部屋にいそいそと戻って、コハルを呼んだ。
「大儀であったな。」
「なんの、まだ今宵がございます。」
「……」
「御寮人さま。」
「うれしい。また、お目にかかれた。」
手で顔を覆っている。
「御寮人さま。今宵がございますよ。」
「おかげでな。」
そこであやめは気づいたのか、手を顔から離さずに、しかし妙に低い声で尋ねた。
「ところで、コハル?」
(あっ、しまったか。)
「尋ねるが、……」十四郎を連れてくるような真似ができる以上は、「法源寺さまにも、おぬしの手の者を潜らせておりますな?」
コハルはやや答えに窮した。
「ご名代様はさすがにさる者にて、なかなかに大舘には手が及びませぬ。」
「が、お寺くらいならば、やすやすと?」
あやめの声は冷たい。
「しかし、御安堵ください。大舘の中から、ぼつぼつと面白いことも出てまいりました。いずれ調略が済みましょうから、長く潜らせることも、じきにできますゆえ。」
「お寺さまに着けている者だが、……とくにそうとは、聞いてはおらなんだ。まあ、これはコハルの仕事では、いつものことですが。」
「御寮人さま。御曹司さまをお守りするためでございます。お寺の中だから案じるに及ばないとは、この松前ではいえますまいぞ。女子の御寮人さまに禅寺に楽に忍んでいただくにせよ、手引きはあったほうがよろしかろう。」
「それはおおきに。……さて、聞きたいのは、その者、一昨日もお寺におったかな?」
「それは御寮人さまにも、申し上げられませぬ。」
「何を、どこまで、聴いた?」
あやめの両手で隠してつづけている顔は、きっと赤くなったり、怒りに青ざめたりしているのだろう。
「まさか、覗いて確かめたか?」
「それも、申しあげられ……いえ、コハルはそのようなことは特に聞き出しませんでしたので。」
「聞き出されてたまるかえっ!」
あやめはこちらに向き直る。
「ご容赦くださいませっ!」
コハルは低頭する。
「今宵は、その者を必ず下がらせよ。大事はなかろう。」
「大事はない? さて、さて?」
「あざかえす(まぜかえす)でない。相談したいことができれば、あやめの口から必ず伝える。向後も同様。」
あやめは背筋を伸ばし、顔から外した手の拳を握りしめて、コハルをみた。
「ははっ。……向後。次も、その次も、がございますね。」
「ある。……ある、と信ずる。そうしたい。……そうではないのか? どうなのじゃ、どう思う、コハル?」
「やっとお尋ねくださいました。」
(ああ、かわゆいの、この御主人は。)
コハルは不安に揺れているあやめの、怒ったような、笑ったような、はにかむような表情に、笑みが抑えらない。
「何を笑っておりますか。」
「御寮人さま、きっとご心配はご不要です。ときは要りましょうが、御寮人さまのお気持ちは必ず通じまする。」
「おお。」
「そうでなければ、御曹司さまも、ああやって無理を通してお越しになりません。」
「そうよの!」
一度、柔らかい肉を掻き抱いてしまえば、若い男がそう簡単に女から離れられるものではない。コハルはそう思っている。蝦夷侍である自分、などという愚にもつかぬ思いにこだわって、想い人と身の安寧を振り捨てようと本当にするのなら、ご立派なれど、痴愚もきわまれりで、阿呆らしい限り。
(それも、もつまい。)
女の躰と情とに触れるうちに、男の一番大事と思えるものも、やがて変わっていかざるをえないのだ。きらきらとした理念が、色と欲にいつのまにか場を譲る。本人はえてしてそれに気づかないから、それでいて結構、自分は立派だと思い込んで満足している。そんな例を何度みたことか。
(ただ、斯様なことは、恋をしている娘に決していうべきにあらず。)
「ときを重ねなされ、御寮人さま。コハルもお助けいたします。」
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