えぞのあやめ

とりみ ししょう

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一の段 あやめも知らぬ   庫裡のふたり(四)

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 コハルにすら、ここまでのことは喋ったことはない。それどころか、口にしてはじめてあやめ自身が気づき、目まぐるしい勢いで考えはじめたのである。
「十四郎さまが、蠣崎の御家督をお継ぎになられては如何でしょうか。」
「如何、などといわれても。御寮人殿、たわぶれもすぎようぞ。」
「いまのおやかたさまはさておき、ご名代さまが御家督をおとりになるのは、いけませぬ。」
「……!」
「御身内にすら血を流させるような方でござりますよ。与三郎さま、十四郎さまのご処遇だけを申すのではない。蝦夷代官としても、望ましきことと申せましょうか。蝦夷島の者どもを、あのお方はどうなさるおつもりか。和人も、アイノも、その他の蝦夷も、あのお方に安んじて頼ることができましょうか。」
「御寮人殿。この倉の中ですら、ひとの耳というものはござろう。」
「おや、そんな場所でわたくしを、あのように裸にお剥きに?」
「たとえというものじゃ。」
「十四郎さまにだけ、申しあげるのです。亡き与三郎さまは、斯様にお考えの節はございませんでしたか。」
「ならば、あやめ殿にだけいう。故与三郎兄の名を出された以上は、お耳に入れる。」
 十四郎もさすがに閉口し、やや腹もたてたようだ。女に本当のことをいわれて腹を立てたか、怒ればよい、とあやめは思った。
「故与三郎兄には、謀反の企ても、その心すらなかった。与三郎兄は、……」その名を口にして、十四郎の気持ちも激してきたらしい。「ご名代を兄として、次の主君として、敬しておられた。むろん、アイノに対する考えは、まるきり違う。ご名代は奥州育ちにて、蝦夷島のアイノのことはよくご存じでない。あれらをご自分の治めるべき民とは、まるでお思いでない。また、新三郎兄は近ごろ急に」
 あやめははっとしたが、十四郎は続ける。風雲の思い(野望)、分限を越えた大望、とでもいいたそうにして抑え、
「……そうさな、大志を抱かれたようでもある。それはあやうい、と与三郎兄は心配もなさっていた。その大志を充たすためには、たれかが踏みつけにされねばならぬ。」
(お米のとれぬ土地でお大名にでもなろうというのなら、必ずそうなるだろう。搾られるのは、アイノという以外にはあるまい。)
「だが、だからといってご継嗣の兄を除こうなどという考えは、微塵もなかったのだ。」
「では、アイノに馬や鉄砲を与えられようというのは、なんでございましたか。」
「ご吟味より厳しい。」
 十四郎は苦笑いする余裕を取り戻したようだ。
「ただ、アイノを今よりも強くしたかった。新三郎兄に対抗させるためではない。そんなことはそもそもできぬ。新三郎兄が、おのがお望みのために後ろ盾にせんとしているのは、じつは背後で我々蠣崎家を操ろうとする者たちだ。この蝦夷島の土地が産む富を奪おうとする者たちが、兄に乗じて、われら蠣崎を恣ままに使役せんとするのではないか。」
 はっとしたのは、ふたり同時だった。上方の織田前右大臣家の御威光を笠に着て乗りこんできた堺の今井家なども、その最たるものということにならないか。
 もちろん、あやめ個人にそんなつもりはないし、十四郎もそんな風には少なくとも今は疑うまい。だが、十四郎は(そんな言葉はこの時代にないが)構造の話をしている。
「あやめ殿。」十四郎は、お前のことではないぞというつもりを込めてか。ことさらに呼びかけた。かれらに、と強調する。「与三郎兄は、アイノを、かれらに力で負けないようにさせたかったのだ。我々も、アイノも、そして、その他の数少ない蝦夷も、蝦夷島の者は、かれらに負けてはならぬ。……それだけの考えでござった。わたくしとて、同じだ。」
「ご立派なお考えをうかがいました。納屋今井は、決して蝦夷島の富を奪いにまいったのではございませぬ。商いというのは、そのようなものにはあらず、とわたくしも愚父より教わりました。」
「むろん、それは承知しておる。」
「そのお二人を、ご名代様は除かれようとなさりました。……与三郎さまは、はかなくなり、今も、あなた様を。」
「御寮人殿。今の話は聞かなかった。拙者もいらぬことを申した。お忘れありたい。」
「いらぬこと、でございますか。」
 おさまっていた涙がまた膨れあがってきた。泣き声を抑えると。しゃくりあげて、胸が上下する。
(あやめの、阿房め。途中から話があらぬところに行ってしまうた。肝心かなめは、このおひとが堺に来てくださることじゃのに。)
「申し訳ございませぬ。ただ、手前のこころをお察しくださいませ。お願いは、ひとつ。堺にお越しくださりたいのです。これは、いらぬことにござりませぬ。悪しくはない、と申されました。」
「あやめ殿。御礼を申し上げる。おこころ、この身に過ぎる。このような真心をくださり、これほどうれしいことはない。」
「では……? では……?」
「しかし、拙者は、蝦夷侍なのだ。もしも蝦夷島から離れてしまえば、わたくしは自分というものをなくすだろう。」
「そんなことがございましょうか?」
 あやめは頭を振った。
「あやめ殿。ひとにはなすべきことがあるという。わたくしは、こんな姿かたちを与えられて生まれてきた。この北の国でなければ、生まれようもない顔に。……だから、わたくしのなすべきことは、やはりこの蝦夷島にしかないような気がする。たとえ最果ての果ての地で埋もれても、のたれ死んだとしても、それは、おのれのなすべきことをした結果だと思える。あやめ殿と堺の町で暮らすのはさぞ楽しかろうが、そうなってしまえば、わたくしはもう蠣崎十四郎ではない。」
(…………!)
 あやめは心の中で長く引く悲鳴をあげた。
「わたくしを、……わたくしを、お嫌いでございますか?」
「好きだ。」
十四郎はあやめの肩を抱いた。
「好きだ。あやめ殿がいとおしい。今日、こうなったからではない。いつの頃からか、ずいぶん前から、……この世の誰よりも、いとおしいひとだ。」
「ならば、なんで……?」
「……泣かれるな。」
 あやめの額に、十四郎は唇を寄せた。
「あっ。」
 本当に短い悲鳴をあげて、あやめは立ち上がった。
(また、わたくしは泣いている。このひとの前でぼろぼろと涙をながしている。)
(どうして、泣ける。このひとの前でだけ、泣ける。)
(なぜ、泣いてしまえる?)
(ええい、ままよ。)
「お邪魔をいたしました。納屋の婿は、別に探しまする。」
 いってしまうと、自分の言葉に絶望して、また涙が噴き出る。
 見上げる十四郎の表情が歪んだ。
 足早に立ち去ろうとするあやめを追いかけるように、十四郎は抱きすくめ、唇をあわせた。厭がって逃れようとするあやめの顔に、唇を何度も当てる。口を吸った。あやめは吸いかえしはしないが、しばし、陶然としてそれを受けた。
「……このお方は。」
 口が解放されたとき、泣きながらあやめは、仕方のないお方よ、とはじめて笑った。

 それから笠の下に泣き顔を隠して、どうやって戻ったのか。脚の間に尖った石が入りこんだような違和感が、いつまでも残っている。
 厠にいくと、そのときになって鮮血をみとめた。これは、もうこの世の誰にもいえない秘密だ、と思った。

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