えぞのあやめ

とりみ ししょう

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一の段 あやめも知らぬ 動揺(二)

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 動きがあった。
 蠣崎家八男、与三郎包広が突如、切腹したのである。
 
 その理由は伏せられた。だが、コハルがそれを調べ上げていた。
「ご八男、与三郎さまは、おやかたさま、というよりも、ご名代様への御謀反の疑いをかけられ、お調べの前におひとりで切腹されました。」
「十四郎さまは?」
 あやめは、いまはそれにしか関心がない。おそらく松前大舘の外の人間で誰よりも早く急報に接し、夜の床に、寝衣のままでコハルと会っている。
「まずは御無事。」
 あやめは内心で息をついた。
「聞くところによると、アイノを使嗾して一揆をおこさせようとしたとのこと。そのアイノのひとりの駆け込み訴えから、御謀反の意図がご露見とのことです。お調べの儀があるとのお告げをご名代から受け取った与三郎さまは、大舘からの使者の前で、何一つ抗弁もなく、あっという間にお腹を召されましたと。」
「御謀反の疑いは、まずは与三郎さまお一人か。十四郎さまにも累は及んでおるのか。」
「ご名代様のお考え次第でござりましょう。」
「馬鹿な。あのお方が、……あのお方がたが、近々に主君たるべき兄君に叛心を抱くような方にみえまするか?」
「鉄砲。」
「うっ。」
「……のことは、あまり漏れておりませぬから、大丈夫でしょう。ですが、そのことが一切漏れなかったとしても、一番お偉い方のお考え次第なので。与三郎さまとご名代様の御意見が違い、そして御曹司さまが与三郎さまに兄弟で一番お親しかったのであれば、それでお武家が謀反の疑いを受けるには十分。お腹を切られるにせよ、お首を打たれるにせよ、十分なのでござりますよ。」
「首……!」
 あやめは戦慄した。
「与三郎包広さまも、よいお方のようでござった。長年、上ノ国よりも北を巡り、アイノの言葉も覚え、蝦夷も我らが民、仲ようこの地でやっていくのだといわれていたそうな。おやかたさま(蠣崎季広)はアイノからも慕われ、『よき人』の名を得たといいますが、そこには蝦夷鎮撫の方便だけではなく、本心からのお考えもございましたのでしょう。八男の与三郎さまがそれを一番引き継いでおられたようだ。そして、……」
「十四郎さまは、与三郎さまのご薫陶をお受けになっていたのだな。……ああ、それは、あのお顔でもあるし。……」
 もしも蝦夷が人がましくしてはならぬのであれば、アイノ以上に異人めいた容貌の持ち主はどうなる。あやめは、十四郎の孤独に思いを馳せたが、コハルの声がそれを遮る。
「ご名代さまは、松前にすべての商いをお集めになろうとされますが、それは単に松前を富ませようというのではない。いずれは蝦夷船の交易を禁じ、アイノの暮らしの上にのしかかって、蠣崎家が交易をすべて手の中に入れる。アイノの村々との間には交易ともいえぬ交易しか残らないようにされようとお考えだ。与三郎さまはこれには反対されていたようで。」
「しかし、反対もなにも、この蝦夷島の南端に押し込められた蠣崎家に、そのようなことができるものなのか。十四郎さまは、そのような空しい、砂上の楼閣のごとき言い争いに巻き込まれたというのか。」
 コハルは、痛ましいような表情にかわった。
「たとえば、……たとえばでございますが、今井のお家の力があれば、そのようなことも、あるいはできましょう。」
 あやめは頭がぐらぐらと回りだすのを感じた。
「わたくしがこの土地に来たから、こんなことになったというのか?」
「そうは申しません。いずれは前右大臣様の天下ご一統のための奥州御仕置がありましょう。そこに蠣崎慶広様がおやかたさまとして蝦夷島にあれば、そのような流れに、またこれもいずれはなったでございましょう。ただ、納屋今井宗久さまは、ただの上方の大尽にあらず。前右大臣家が後ろ盾に控える。」
「であらば……?」
「御寮人さまの松前納屋のお店が今ここにあることで、蠣崎家、とりわけ新三郎慶広様は、天下ご一統の大事業の起こす大波を、いち早くこの北辺の地にかぶられたとも申せましょう。それも主家の安東様などよりも、たっぷりとだ。……あのご名代さまは、目はしが利き、お聡い。」
 あやめは黙って聞いている。十四郎を案じるだけの身には回りくどい話に感じても、コハルのこうした「そもそも」の話を飲み込んでおかねば、とてもお武家の謀反騒ぎなど理解できないから、苛立つ心を抑え込んでいる。
「ご名代さまのお考えの将棋の駒は、御寮人さまがおられる分、知らず進んだのです。“いずれ”が早まった。」
「だから、どうというのじゃ?」
「だからこそ、このように軋轢も大きい。」
(やはり、わたくしのせいではないか?)
 あやめは真っ青になっている。
 コハルが飲み込んだのは、与三郎にせよ、その点では新三郎慶広と変わりがなかったのではないかという言葉であった。兄の意を受けてか、突然、納屋にやってきた十四郎もまたそうであろう。堺の豪商・今井とその背後にある天下政権の力を利用しようと考えていたには違いない。
(御曹司さまとて、最初は鉄砲ではないか。今井の鉄砲を欲していただけではなかったか。あのようなお人柄だからそうとは知れぬが、見よ、最後は御寮人さまをたぶらかしたも同然。まんまと、それなりの数の鉄砲を手に入れるところまでいきかけた。)
 コハルは、あおざめて震えている女主人が痛ましくてならない。
(だが、結局は、鉄砲をかっさらっていかなかった。本当に御寮人さまを巻き添えにしたくないと思ったのか。それとも、なにか考えあって、わざとしくじってみせたのか。たしかに、鉄砲の十丁二十丁をいきなりアイノに持たせても、謀反に勝ち目があろうとは思えぬ。だから、いったんは身を引いてみせたのか。御寮人さまの心のまことをこのように掴みとってしまえば、あとから今井の力は存分に使えると算盤をはじいたのかもしれぬ。いまはたしかに窮地にあるが、それもあらかじめ読んでのことであれば?)
 コハルは決して十四郎を嫌っていなかったが、コハルのような者にとってはそう考えるのが自然であった。
(御曹司さまは愚かなのか? 違うであろう。ならば、……?)
 コハルの身に染みついた考えは、単純明快であった。

 人間は、愚かでなければ、我欲で動く。そこにはひとを騙そうとする悪意が必ず働く。醜い悪意を美しい嘘で塗り固めて、世の中は成り立っている。今井宗久にせよ、織田信長にせよ、その他コハルが知っている数多の武将、あるいはこの地の蠣崎家の連中にせよ、多少賢いものは皆そのように生きているではないか。
 武家や豪商に限らない。この自分も含めて、地下人ですらそのように生きざるを得ない。好んで殺し合いはしないだけだが、現に必要があれば、互いに殺しあう。そうしてきた。
 同業の者の何人かのような血に狂った化け物には、自分はついになれなかった。だがそんな自分ですらも、これまで何百人何千人を欺き騙し、何十人何百人と、自分が生き残るためには殺した。
 コハルは戦国の世に生きる人間であった。
 
 だからこそ、目の前の若い女が、ひとりの男を案じて心底から動揺しきっている様子に、かえって打たれている。
(恋情というのも所詮は執着であり、我欲ではあろうが、……そしてこの場合、もしやすると、ひとの目に見えぬほどに大きすぎる我欲を秘めた化け物に、好んで呑みこまれる愚行にほかならぬのやもしれぬが、……しかし、なんとも美しい。美しいさまじゃ。)
「御寮人さま、ご無礼をいたします。」
 コハルは大きな体を寄せ、あやめが幼女のときにやってやったように、やわらかく抱きしめた。
 あやめは驚いたが、震えは止まり、やや落ち着いた様子になった。
「御曹司さまのお命は、必ずお救いいたします。」
「コハル、すまぬ。……頼みまする。」
「コハルがいたすのではありません。御寮人さまのお力が、必ず御曹司さまをお救いになるでしょう。」
「できるのか、わたくしなどに?」
「ご安心なさいませ。ただ、お覚悟を。」
「もとより、覚悟など。」
「もしも御寮人さまが十四郎様を連れて松前を逃げだすようなことになれば、残されたお店はただでは済まぬことにもなりますぞ。大旦那様、ひいては前右大臣様の御威光あろうとも、それがこの松前に届く頃には、お店は潰されているやもしれませぬ。」
「……コハルは、こわいの? わたくしを、ためすのか。」
「銭やものをとられるのは仕方がない。しかし、番頭さんはじめ、手代の何人かは磔にでもされるかもしれません。トクなども、店に火などつけられれば、あれで立派に焼け死んでみせましょうぞ。」
「コハル。」
 あやめは、コハルのいいたいことがわかっている。納屋の御寮人がここで弱気であってはならないのだろう。コハルの腕をふりほどいて、座り直した。
「くれぐれも、そのようにならぬようにせよ。」
「左様にお命じくださりましたら、それでよろしかったのです。」


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