えぞのあやめ

とりみ ししょう

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一の段 あやめも知らぬ   最初の冬

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 これが、天正八年、あやめが蝦夷島に足を踏み入れた年の、秋の終わりのことであった。その秋はあやめにいわせれば急に終わり、早すぎる冬がきた。
「御寮人さま、これは、なんという寒さですのか。」
 温潤な瀬戸内に面した堺から来た店の者たちは、夏の爽やかさを喜んでいたのがついこの間のことであるのに、春先とは比べ物にならぬ蝦夷島の寒さに悲鳴をあげた。
「これほどの寒さは知りませぬ。」
 雪国である北近江出身のトクですら、震えあがっている。
 しかしこの冬は、あやめには楽しい。
 十四郎の顔をよくみる。雪に閉ざされた山道や海岸線を抜け、原生林の山塊を越えて日の本や唐子に行くのは容易ではない。十四郎の巡察の規模は渡党の領域であったこの半島の南部、北に上ってせいぜい上ノ国あたりに限られて小さくなる。だから、しばしば松前に帰って来ては、納屋の店にやってきた。
 あなた方の冬支度はなっていない、とあるとき十四郎は忠告した。
「これで冬が来たら、如何なさるのか。」
「これが、冬ではまだないのでございますか? すでに毒(どっ)寒(かん)(厳寒)ではござりませぬか。」
 あやめは屋敷の濡れ縁に座り、外気にあたって寒さに歯を鳴らしかけている。見苦しくない程度に色々羽織ってはいるのだが、昨晩の雪が残っているほどで、震えそうだ。
「本当の冬はこれから。」
 今井の御家業だとかで、皮革の類をたくさん持ってこられたのは、大変よろしい。それで風を防がぬと、家の中も過ごせますまい。火鉢、火桶は無論のこと、囲炉裏の火は絶やしてはなりませぬ。時おりは寒くとも風を通して、夜通しおつけなさい。塗籠めた(密室性の高い)部屋があるといいが、そこで火を焚く時は、空気がすぐに濁って頭が痛くなるから長居はできない。
「いま、大舘では湯殿を作ろうと考えているらしいが、外で火を焚いて湯を沸かし、蒸風呂をつくるのは、温かいでありましょうな。」
 そうした異国の暖房装置の存在を、十四郎はどこかで聞いたらしかった。
「そこまでせねばなりませぬか。」
「こうした立派なお屋敷こそが、当地の冬には向かぬのです。」
「立派ではございませぬが、とくに茶室が、寒くてなりませぬ。」
「あきらめなされよ。」上り口にせよ窓にせよ、ああ外気が入っては、茶の湯すらお手前のさいちゅうに凍りつきましょう、と十四郎は真剣な表情になる。
「なんと。まことの蝦夷の冬は、それほどに?」
「いや、これは大げさだが。」
「真面目にお尋ねいたしておりますのに。」
 あやめはふくれたような表情をつくる。十四郎は笑った。
「風流の道には反しましょうが、まあ、なるべく外の風を入れぬようにされるしかありますまい。そうした工夫はござろう。」
 十四郎は、考え込んだ表情のあやめをからかう。
「また、あるいは、そうした工夫も“数寄”というものかもしれませぬな、宗匠さま? 蝦夷流のお茶の道を開かれては如何か? 拙者も弟子につこう。」
「では、茶室をご覧くださいまするか。」
 苦笑したあやめは立ち上がり、いま上方で流行り始めている、自慢の雪駄を履いて、離れに歩き出した。とたんに転んだ。
(無様な……!)
 尻もちをついたところの痛みよりも、恥しさに動転した。しかも、土が凍っているのか、手をついてもうまく起き上がれない。
「これは、お怪我はあらぬか。」
 十四郎が片手を差し伸べた。礼をいって、あやめはその手を掴み、起こして貰う。
(あっ。)
 手を握られた瞬間、あやめはとても大事なことに気づいたという思いに、一瞬震えた。
「お痛みか?」
 あやめは口がきけず、ただ首を振るだけだ。力を入れて引いて貰ったときには、内心でもう慌てふためいている。
(ああ、なんてこと。)
 あやめは、生まれてはじめての恋情にはっきりと気づいた。
 手を握られたときに、心臓がとまった。次の瞬間、あやめの心も躰も跳ね上がるほどの喜びに包まれた。
(うれしい。このお方に触れている。)
(御曹子さま、もう離れたくない。)
(この方が、いとおしい。)
 そして、はなれても温かく、そこからふわふわした気分にもなるのだ。
(この手が、あの大きなお手と……)
 ろくに礼もいえず、黙ってまた座敷に上がってしまったあやめに、十四郎は驚いたようだ。
「どこか痛められたか。お店の者を呼んだほうがよろしいか。」
「……ご無礼をいたしました。」
「こちらこそ、痛い思いをさせてしまった。転んだのはさほどでもないようだが、口の中でも切られたか。やはり、 誰かに見て貰ったほうがよい。茶室はまたのときに拝見いたす。これで失礼しよう。」
「おかえりになってしまわれるのでございますか?」
 十四郎は要領を得ない表情で、はあ、とばかりに頷いた。
「おかえりにはならないで。」
「えっ?」
「いえっ。いえ、いえ、いえ、……」あやめは顔を伏せてしまう。「重ねてご無礼を。ならば、どうぞお気をつけて。」
 立ち去りかける十四郎に、あやめは泣きだしそうになっている自分に戸惑いながら、声をかけた。
「また、どうぞお越しくださいますように。お待ち申し上げております。」
(もっともっとお会いしていたい。ここでお別れするのがつらい。)
「参りましょう。」
十四郎は背中を向けた。それなのに、続けて、
「次はきっと、ラッコの毛皮を持って参ります。すぐにお入用になろう。差し上げます。」

 本当に持って来てくれた。つやつやと輝く毛皮の塊を前に置かれて、あやめはなにか、ぼおっとしてしまう。礼を述べるのもしばらく、忘れていた。
(わたくしは待っていた。何日も、いまか今かと、お越しになるのをお待ちしていた。)
(毛皮なんかどうでもええ、なんでもよいから早くお顔を見せて、と願っていた。)
(こんな立派な品を、下さろうというのか。)
(うれしい。わたくしのことを、こんなに思ってくださるおひとじゃった。)
いつものように上座に回された十四郎はにこにことして、こちらではご婦人もこうしたものを羽織るのです、と促した。
 まだ獣の匂いがせぬか嗅いでみたい気がしたが、あやめはいわれるままに肩に毛皮をかけた。裏はなめしてあるので、むしろ最初は触感がひやりとする。
「珍しいものでございますね。よくご存じのように、手前どもの家ももと革を扱っておりましたが、これはまた、みたこともない美しい毛で……。この松前、いえ、蝦夷島ならではでございましょうね。」
そのように貴重なものを、とようやく礼をいいかけたのを、十四郎は遮って、
「いや、古く平安京のころに、もう都でもこうした毛皮をまとっていたとのことでござるな。」
「それは、猟師のたぐいでございましょう?」
しくじった、まずいことをいったかとあやめは慌てた。
「滅相もないことを。」
 十四郎は愉快そうに笑った。
「これは、むかし兄の連歌のご師匠から聞いたが、かの光源氏の物語にも、毛皮の唐衣をまとった姫君がお出でになるとのこと。そのあと、姉の本を覗いてみると、たしかにそうでござった。もちろん、光源氏様の想い人でございまするぞ。」
「それは、」とあやめは一層うれしくなる。長く腕まで覆ってくれる毛皮を抱きしめるように撫でて、「よろしきことにございますね。とすると、このような有り難い毛皮を頂戴くださった、御曹司さまが、光源氏様ということでございましょうか。」
 冗談のつもりで、ついいってしまってから、あやめの顔がみるみる上気する。
「いや、それは……」
 十四郎はというと照れたわけではなく、なにか本当に当惑した表情になり、
「それでは、御寮人殿がお困りになるのではないか。」
 あやめは息を呑んだ。勇気をふりしぼって、宣言するかのようなつもりでこたえる。(あなたが源氏様なら、毛皮の姫のわたくしが、あなたの想い人でございます。うれしい。うれしいばかり。気にせねばならぬことなど、なにもない。)
「そんなことは、わたくし、ござりませぬ。」
「いや、きっとお困りだ。それは、悪い。」
 十四郎はしかし、要領を得ない返事を繰り返し、話をそらしてしまった。
(わたくしが、なにを困って、なにが悪いというのか?)
(そのようなことは、ない、わたくしは御曹司さまの想い人になりたいのに。)
(自分など釣り合わぬ仲だと、まさか遠慮されているのか?)
(でもあなた様こそ、お武家様でございましょう?)
(部屋住みを気にされているのか……?)
(それとも、わたくしの気持ちに気づいて、先回りして避けられたのか?)
(あっ、そうかもしれない。たれか決まった方がいるのかも……)
 あやめはひどく悲しい気持ちに沈んだが、後日、知るべきことを知って、笑いだしたくなった。なにか安堵するうれしさとおかしさのあまり、ひとりきりの部屋で舞うように回ってしまい、赤面した。
(わたくしは御曹司さまのなにも知らないけれども、こんなものをわざわざ下さるし、他の女の方はいないはず。)
(きっと、御曹司さまとて、わたくしをお嫌いではない。)

「御曹司さま。あらためてこの、ラッコの毛皮、でございますか、幾重にも御礼申し上げます。」
 せめてもの御礼に、と酒肴の席を設けて招いたときである。
 「ただ、にくい(ひどい)ではございませんか。まことにお心なき、言われなさりよう。」
陪席している番頭や、酒席の世話ということで出入りしているコハルたちや小女が、女主人の意外な言葉に耳をそばだてた。
「また何のご無礼があったか、この弟めが?」
 この席には、蠣崎家の八男、与三郎までいた。十四郎によれば、どうもお前は腰が軽くていかぬ、納屋殿のような家に招かれた以上、従者のひとりをもつけずにどうするか、と言って叱った末に、今日は儂がお前の従者になってやろう、といってついてきたのだという。
「なに、納屋殿の珍味佳肴の相伴に預かりたかった。」日焼けの目立つ与三郎は好人物らしく、長い顎をそらして笑った。「従者であれば、ほんとうは、このような席にお招きいただくわけにはいかぬが。」
 同腹でもないのに仲の良い兄弟なのだな、とあやめは羨ましく感じたものだ。
「御兄君さまも、お聞きくださいませ。御曹司さまは、毛皮を羽織る姫君は『光る源氏の物語』にも、とお教えくださいまして、納屋は大変喜んだのでございますよ。これでわたくしも、まるで都の姫君かと。」
「だから、いうた。」
十四郎はあやめの笑みをみて安心したのか、わざとのようにやや崩れた口調になる。
「申したではござらぬか。御寮人殿にそれでは悪かろう、と。」
「どのようにお美しく、あでやかな、ものしずかな姫君であろうかと、」
席の者は、そろそろ微笑みだしている。主客の若いふたりで、俄芝居が始まったらしい。
「手前は、喜んで光源氏さまの物語のそのお方、姫君さまを探したのでございますよ。藤壺さまであったか、若紫さまであったか、と。もちろん、手前など無学ものに読めはいたしませんが、連歌のお師匠ですとか、大舘の奥方様にまで、お尋ねしてみました。」
「げえっ。北のお方さまにまでお話を?」
一同は十四郎の大げさな驚き方に笑う。与三郎は笑いながら、若い弟の肩を叩いた。
「お教えくださったのは、北のお方さまにございましたが、」これは嘘である。たまたま奥州から足を伸ばした、蠣崎慶広の連歌の師匠を立ち寄らせて、教えて貰ったのだ。あやめはしかし、少しの酔いも手伝って、一同の笑いに調子に乗っている。「大変お困りの様子でございました。」
「それは義姉上も、お困りのことであろうなあ。」
十四郎は不貞腐れた様子をつくる。小女たちが肩を震わせて顔を伏せた。
「毛皮の唐衣の姫君というのは、末摘花さまではございませぬか。こう、長いお鼻の赤いお姫様でございましたね。」
 長く垂れた鼻をしめす、あやめの手の所作に、コハルと番頭が下を向いて噴き出す。
 十四郎は横を向いて、盃をわざと乱暴にあおってみせた。与三郎がそばであっけにとられた様子だ。
「ご案じめさるな。御寮人殿のお鼻は、赤くも長くもござらぬ。」
 小女たちまでが笑い、爆笑がおこった。
あやめが反射的に自分の鼻に手をやる。一同がまた爆笑した。
「ですから、申したではござらぬか。……いやさ、申してはおらぬ。拙者は最初から何も申しておりませぬ。光源氏の物語のお話をしただけだ。御寮人殿のお額が広いなどと、一言たりとて。」
「わたくしの、額がどうなのでございますか。」
十四郎の芝居にあやめは腹を抱えんばかりに笑い、涙を流した。十四郎も耐えきれずに笑いだす。
「どうも、三河万歳ならば、ここで音曲が欲しいところでございますの。」
 上方を恋しがる気持ちが湧いたのか、一の手代の半助が番頭の弥兵衛に上機嫌で囁いた。いつも難しい顔をしがちな弥兵衛も笑顔で頷く。

 そうした幸せな夕もある冬であった。
 その長いながい北国の冬が、緩慢に終わっていこうとする頃、異変があった。

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