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一の段 あやめも知らぬ 予感(一)
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十四郎は、さほど頻繁にやってくるわけではない。ただ、巡察の仕事に出るのだ、という前にはやってきた。
「鉄砲は、まだ入りませぬか。」
と聞く。
「御寮人さま。渡して差しあげればよろしいのではございませぬか。」
掃除のていで部屋に入って来たコハルが、十四郎がから手で辞去したのを店先で見送ったあとのあやめに囁いた。
「鉄砲など、お倉の中にいくらでもありますのに。」
コハルは表向き店の小女の頭にすぎず、せいぜいがあやめの子守などもしていた古株の使用人だと思う者も少なくないが、あやめと番頭の弥兵衛だけは、この大年増のほんとうの役目を知っている。
いや、これら主人たちですら、コハルの仕事の全てをくまなく把握できているわけではない。蝦夷島に来てから、すでにコハルは自分の手下をなにやら組織し、松前のみならず和人の住むこの半島南部あたり一帯に網を張り巡らしているようだったが、あやめは最初、いわれるままに金子を出してやっただけで、それらの者の姿はほとんど見せられたことがない。
一度会わせよ、とそれらを召したことがあるが、不思議なことに、あやめはその中の誰一人の顔も姿も覚えられなかった。
「励めや」と一人ひとりに声をかけたにもかかわらずである。その時は濡れ縁に控えていた人数すら、かれらが消えた途端に、なぜか定かでなくなった。
(あろうことか。ひょっとすると、忍び、とか、草、乱波、いうのはこのような者どもか。)
「御寮人さまの御気配りは恐悦でございましたが、あれらの者をここに召されるのは、……」
と、夜も更けた屋敷のあやめの真新しい寝所で、ただ一人残ったコハルは薄く笑みながらいったものだ。
表情は穏やかだが、子どものころのあやめが、このやさしい使用人に見たことがない顔つきであった。
人外めいた集中力が隠し切れず内面から浮き出ていて、松前納屋の女主人となってからのあやめは、このコハルがじつは少しこわい。
「これを最後になさるがよろしいのです。あとは、このコハルが何かにつけあの者どもを差配申し上げますので、儂にただお命じなさいませ。堺の頃、大旦那様(宗久)はそうなさっていました。」
「父上のご流儀か。」
頷いたときに灯心が勝手にゆらいで消え、コハルの姿はない。
と思うと、陽気な太った使用人に戻ったコハルが襖の向こうから、子どものころにそうだったように。御寮人さまには油の無駄遣いをなされず、書物は明日になされてとくお眠りなさいませ、といった。
そのコハルが蔵の中どころか、店の隅々まで把握しているのはわかっているから、あやめはなにをいわれても驚きはしない。ただ、御禁制だのといわれましても、現に火縄銃を蝦夷どもに売っておやりのときも先にございましたのに、という言葉には反応した。
「よく知っている。」
「ふふっ、コハルにはお見通しでございますよ。」
(珍しい。出過ぎたことをいう。)
叱ってやろうと、帳簿から顔をあげてコハルのほうをみると、そこにいるのは普段のやさしい顔である。
「なにをオミトオシか。」
「鉄砲をお売りになれば、あのお方はもうお店に来られないかもしれない、とご心配なのでしょう。」
思ったこともない。あやめは意外だった。
「なにを、見当違いを申すか。」
(いやまて……?)
「御曹司さまはお前たちと遊ぶのがお好きだからな。心配ない。」
「左様にございます。ご心配は無用と存じまするよ。」
「いや、おぬしらが案ずることはない、ということ。」あやめの頬がやや赤らんだ。「また、珍しいお土産を、お前たちに持って来てくださるでしょう。」
「あのお方は、御寮人さまをお目当てに来られるのでござりますよ。」
「あほうっ。」あやめは童女のように叫んだ。「そのようなことが、ありますか。痴れ言を申すな。……コハル、そんなことでは、難しい仕事をおぬしに任せてよいかどうか、わたくしはそれが心配じゃ。下がれ。」
赤くなった顔をまた、帳簿に伏せる。コハルは下がらない。それを期待していた。まだ何か聞きたい自分がいる。
「御寮人さまのほうも憎からずお思いで、まことにおめでたいことでござります。」
「下がれといいました。」
「この世に、男女が想い想われる気持ちほど、大切なものはないそうでございますよ。御寮人さまももうさほどお若くない。はじめてにしては、遅い。お気持ちを、大事になさいませ。」
「じゃから……いや、お前、そんなことをいいに、わざわざ来たのかえ?」
「ならば、なお申しましょう。あのお方を、この松前納屋に、婿にお迎えなされ。それがよい。」
あやめは唖然としてコハルを見た。
「まあ、そうお口をおあけなさるな。せっかくの可愛らしいお顔が勿体ない。」
「途方もない、……戯言を。」
「なに、途方もなくもないわ。……いえ、ご無礼申し上げておりますが、御寮人さまご幼少のころからお仕えしてきたコハルの言葉を、お耳にお入れくださいませ。」
「あの方は、蝦夷島のお代官の御曹司さまで、お武家じゃ。」
あやめは切り口上になる。だが、コハルは意に介さぬようで、
「大旦那様は、もとはといえば近江源氏佐々木様の御一門と聞きましたぞ。そして、大和を経て、堺の(武野)紹鷗さまの婿に入られたのではありませぬか。さらにつけくわえますに、武野のおうちは革の商いで財をなされたが、もとは若狭源氏武田様にはじまるとされる。蠣崎家は渡党の流れなれど、若狭武田家信広公の血が入り、蠣崎家の始祖に仰いでいらっしゃいます。」まあ、どちらも家系伝説には大いにあやしいところがあるが、とはコハルはさすがにいわず、「このあたりも、同じ若狭源氏の裔どうしの御縁談ではございませぬか。」
(御縁談、か!)
と、あやめはなにか胸がときめくのを感じたが、またコハルに乗せられて阿房か柄にもないと自分を叱り、
「お店には、そのようなうわついた話にかまけている暇はない。番頭、手代衆もいずれ堺に帰りたいものは帰してやらねばならぬから、人手が足りなくなる前に、たとえばトクを仕込んでやり、さらには松前でよき者を探して雇っていかねばならぬ。」
いって、これはしまったと思った。案の定、コハルは笑ってまくしたてる。
「ですから、よき婿をお迎えになさいませと申し上げた。あのお方は蝦夷侍には珍しくお心映え涼やかですし、私どものような卑しき身分の者にもお情けが深い。なにより、松前のじばえの方で、蝦夷島をよくご存じです。ご商売にうってつけでございましょう。」
「それよ。あのお方は、お役目にお忙しい。明日にもまた北の蝦夷地のご巡察のお仕事に出られるとか。商いの道などには」
「その、ご巡察というのですが、……男が女に見栄を張るのはよくあることだし、ひょっとするとあのお方のことだ、まだ子ども子どもしておられて、本当に心から大事と思ってお勤めなのかもしれぬ。それはコハルにもわかりませぬが」
「一生部屋住みの身に与えられた、あぶれ者相応のお仕事だ、と?」
何の権限も与えられず、蝦夷島の北をまわらされているだけだし、十四郎の見聞からくる何かしらの意見など蠣崎家の中で一顧だにされないのは、あやめはもう知っていた。
末のほうの子とはいえ、元服もとうに済ませた十七、八にもなって「御曹司」なのである。捨扶持を頂戴しているどころか、ひょっとすると台所飯を食っている身だ。
そのほかの兄たちは、ほとんどが右衛門大夫だの玄蕃頭だのと官位めいた私称を許され、多くは屋敷を構え、小なりとはいえひとつの舘の主におさまっている者もいる。
何人かいる年若の異腹の弟たちですら、母親の筋目がましなために、家中での身の行く末の見通しはたっている風だ。元服したばかりの弟のことを、十四郎はなにやら私称の官名で呼んだりするが、その者が母方の家から受け継げたのだろう。あまり意味もないものとはいえ、名前で呼び捨てられる身分ではないことはあきらかだ。
十四郎だけは、ただの十四郎であった。どこかの家が絶えそうになったときに末期養子にでも入るしか、一家を構えられそうにないだろう。
「さすがに御寮人さま。それがおわかりならば、……よろしいではありませぬか。」
「お仕事がお好きなのじゃ。蝦夷地をまわられるのを、お代官様のおうちの、たぶん誰よりも大事にお思いであろう。それをとりあげてはなりますまい。」
「松前納屋の婿になられても、似たようなお仕事を、もっと楽しくなされますよ。」
「……あのお方は、お武家のご身分をやすやすとお捨てにはならぬよ。きっとどなたよりも蠣崎のお人でありたいはず。」あやめは、身は部屋住みでしかない十四郎が、どんな身分の者にも気さくなわりに、どうやら武家の誇りが誰よりも強いらしいのに気づいている。
和人とも蝦夷ともつかぬあの姿だから、余計に蠣崎家の武士であると意識したいのではないだろうか。自分と似ている、とあやめは思っている。
(わたくしも、女であるがゆえに軽んじられる。それがために、誰よりも今井の家内の者らしく、商人らしくあろうとしているではないか。)
「それで思い出した。これは申し上げるのが早いかと存じますが、店もいまは静かなようだ。陽の沈む前に、お伝えいたします。」
コハルの顔つきが変わった。あやめの顔の血が引き、こちらも無表情になる。
「申せ。」
「御寮人さまは、いま蠣崎家のことを口にされました。もうお一人、蝦夷地を回られるお仕事についておられる方がいますな。左衛門尉様。」
「え? たれだったかな。」
「八男の与三郎包広様でございますよ。」
あやめは、時々大舘で会う、やさしげな男の顔を思い浮かべる。
「与三郎様は、たしか掃部允であられたかと思うが。左衛門尉は別の方じゃ。」
「なんでもようございます。どうせ皆さま、本当に朝廷(おかみ)の官職をお持ちのはずもない。秋田の安東様あたりが許した、ただの僭称なのですから。」
「あたり、とは……。」
「大事なのは、ご名代さまは与三郎様と合わぬらしいということでございましょう。いまはご兄弟で主従の仲にあっても、間に父君のご当代さまがいらっしゃるから表立ってはおりませぬが、いずれ何かが起こる。」
「なにゆえのご兄弟ご不和か。」
「蝦夷どもの処遇。」
「セナタイか。」
このアイノの部族は、蠣崎家に隣接する勢力である。この半島のおもに西の地域に蟠踞し、その威勢は、和人をときにしのぐ。現に松前が集めた運上金の一部を受けとってきた。蠣崎家にとって目の上の瘤であるのは、名代たる三男も八男も変わりあるまい。
「いや、それどころか、唐子(日本海側)、日ノ本(太平洋側)にいたるまでの蝦夷どもをどう抑えるかを、すでにご名代はお考えとか。そしてご八男も、上ノ国(半島のやや北部)を越え、直接にそこに出向いていらっしゃる。みると聞くでは大違いと申しますが、あのお二人の御気性の違いでは、お考えもそれは異ならずにはいられない。」
「……十四郎様は、与三郎様と一番お親しいな。」
「よくご存じで。そのあたりのこともございますよ。」
コハルは、いつものコハルに戻って、念を押すようにいった。
しかし、しばらくは、何事もなかった。北方から戻った十四郎が店にあらわれると、コハルは店の奥に駆け込んで、すぐに迎えの挨拶をするように御寮人さまを急き立てた。
「お供をお連れです。」
「珍しいの。」
「あいにく、これではお屋敷に引きこんで、よいことはできませぬな。」
「何の話じゃ。」
「すぐに帰ってしまわれますよ。」
「そうはなりますまい。……今日は、外で茶をたてる。以前にお約束したことだ。川の方に参るので、お誘いしよう。」
「御寮人さま。コハルは、有り難き幸せでござります。」
「なにが?」
「早速コハルの言葉をお聞き届けくださいましたな。」
そうでもなく、二人は敷物の上に行儀よく座りながら長い話をして、控えているコハルたちを疲れさせるだけだった。ただ、
(やはり、飽きずお話じゃ。話が続くのは、なによりも男女が合う証。)
と思うと、あのかわいい女主人のために満足する思いだ。
ふと見ると、同じく控えている十四郎の従者は和人のなりをしていたが、たしかに蝦夷のようだ。まだほんの子どもで、十四郎が連れてきたのだろうか。蝦夷地の住人が松前に移り住むのは珍しいことではないが、かなり遠くから来たものらしい。そうしたものが武家の勤めをするのは、いくらこの松前といえども、あまりないことらしかった。
(子どもも、いいところではないか。うちのトクとかわらぬ。)
「おぬしは、ゴリョウニンサマの家の、コハルドノか?」
「左様にございます。」
十四郎は自分の名前まで蝦夷地で口にしてくれていたか、とおもうと、風変わりな異相の御曹司こそは我が女主人の相手にますます相応しく思えて、コハルはうれしい。
「オンゾウシは、ゴリョウニンサマとミョートになるのか。」
「さあ。そうなりましたら、おめでたいことでございますのう。」
さすがにはばかりを知らぬことを蝦夷は口にするものよ、とコハルは自分のことを省みずに思った。
「オメデタイ? とは何か。」
「うれしい、よいことにございますよ。」
「ウレシイ。ウレシイ、か。」アイノの幼い従者は覚束ない言葉を思い出したらしく、首を振った。「うれしくはない。アシリレラは、とてもは、うれしくはない。」
(なんだ、こいつは。)
コハルは相手をあらためて観察し、合点がいった。
(わしも、迂闊な……)
「あなた様は、娘ごでいらっしゃいますな。」
「違う。」
慌てて首を振るが、もう誤魔化せない。少女が泣きそうになったので、コハルは慌てて、
「誰にもいいませぬよ。御曹司さまにも、いわぬ。わたくしが、気づいたとは、いわぬ。」
「……いわぬ、か。頼む。」
主人たちが、こちらを呼んだ。
「ここで聞いたことは口外、……誰にもいいませぬ。ただ、あなた様も、思ったことを、すぐにお口にはなさらぬほうがよい。御曹司さまにもでございますよ。」
「……アリガタシ。」
アシリレラとかいう、アイノの少女が小さく呟いた。
(さて、御寮人さまも、うかうかとはしておられませぬことよ。)
コハルは苦笑いした。まだ子どもにすぎないが、十四郎に憧れているのだ。おそらく、松前が見たいなどと十四郎にねだり、いうことを聞いて貰えたのだろう。蝦夷の首長の筋でもあろうか。だとすれば、十四郎も仕事がら無視はできぬ相手である。
(しょせんは、蝦夷の娘ではないか。)
と思ったが、十四郎のあの姿はどこかの蝦夷の血をひくものに他ならない。コハルは心配にもなってきた。
だが、それはコハルにとっても、うららかな陽の残る、思い出すに温かい気持ちになる日のことであった。
海峡のはるか向こうでは、上方の織田政権の伸長がいよいよ著しい頃である。いずれは上杉、毛利といった地方勢力を駆逐し、北関東をへて奥州に迫るのもそろそろかと思えていた。
「鉄砲は、まだ入りませぬか。」
と聞く。
「御寮人さま。渡して差しあげればよろしいのではございませぬか。」
掃除のていで部屋に入って来たコハルが、十四郎がから手で辞去したのを店先で見送ったあとのあやめに囁いた。
「鉄砲など、お倉の中にいくらでもありますのに。」
コハルは表向き店の小女の頭にすぎず、せいぜいがあやめの子守などもしていた古株の使用人だと思う者も少なくないが、あやめと番頭の弥兵衛だけは、この大年増のほんとうの役目を知っている。
いや、これら主人たちですら、コハルの仕事の全てをくまなく把握できているわけではない。蝦夷島に来てから、すでにコハルは自分の手下をなにやら組織し、松前のみならず和人の住むこの半島南部あたり一帯に網を張り巡らしているようだったが、あやめは最初、いわれるままに金子を出してやっただけで、それらの者の姿はほとんど見せられたことがない。
一度会わせよ、とそれらを召したことがあるが、不思議なことに、あやめはその中の誰一人の顔も姿も覚えられなかった。
「励めや」と一人ひとりに声をかけたにもかかわらずである。その時は濡れ縁に控えていた人数すら、かれらが消えた途端に、なぜか定かでなくなった。
(あろうことか。ひょっとすると、忍び、とか、草、乱波、いうのはこのような者どもか。)
「御寮人さまの御気配りは恐悦でございましたが、あれらの者をここに召されるのは、……」
と、夜も更けた屋敷のあやめの真新しい寝所で、ただ一人残ったコハルは薄く笑みながらいったものだ。
表情は穏やかだが、子どものころのあやめが、このやさしい使用人に見たことがない顔つきであった。
人外めいた集中力が隠し切れず内面から浮き出ていて、松前納屋の女主人となってからのあやめは、このコハルがじつは少しこわい。
「これを最後になさるがよろしいのです。あとは、このコハルが何かにつけあの者どもを差配申し上げますので、儂にただお命じなさいませ。堺の頃、大旦那様(宗久)はそうなさっていました。」
「父上のご流儀か。」
頷いたときに灯心が勝手にゆらいで消え、コハルの姿はない。
と思うと、陽気な太った使用人に戻ったコハルが襖の向こうから、子どものころにそうだったように。御寮人さまには油の無駄遣いをなされず、書物は明日になされてとくお眠りなさいませ、といった。
そのコハルが蔵の中どころか、店の隅々まで把握しているのはわかっているから、あやめはなにをいわれても驚きはしない。ただ、御禁制だのといわれましても、現に火縄銃を蝦夷どもに売っておやりのときも先にございましたのに、という言葉には反応した。
「よく知っている。」
「ふふっ、コハルにはお見通しでございますよ。」
(珍しい。出過ぎたことをいう。)
叱ってやろうと、帳簿から顔をあげてコハルのほうをみると、そこにいるのは普段のやさしい顔である。
「なにをオミトオシか。」
「鉄砲をお売りになれば、あのお方はもうお店に来られないかもしれない、とご心配なのでしょう。」
思ったこともない。あやめは意外だった。
「なにを、見当違いを申すか。」
(いやまて……?)
「御曹司さまはお前たちと遊ぶのがお好きだからな。心配ない。」
「左様にございます。ご心配は無用と存じまするよ。」
「いや、おぬしらが案ずることはない、ということ。」あやめの頬がやや赤らんだ。「また、珍しいお土産を、お前たちに持って来てくださるでしょう。」
「あのお方は、御寮人さまをお目当てに来られるのでござりますよ。」
「あほうっ。」あやめは童女のように叫んだ。「そのようなことが、ありますか。痴れ言を申すな。……コハル、そんなことでは、難しい仕事をおぬしに任せてよいかどうか、わたくしはそれが心配じゃ。下がれ。」
赤くなった顔をまた、帳簿に伏せる。コハルは下がらない。それを期待していた。まだ何か聞きたい自分がいる。
「御寮人さまのほうも憎からずお思いで、まことにおめでたいことでござります。」
「下がれといいました。」
「この世に、男女が想い想われる気持ちほど、大切なものはないそうでございますよ。御寮人さまももうさほどお若くない。はじめてにしては、遅い。お気持ちを、大事になさいませ。」
「じゃから……いや、お前、そんなことをいいに、わざわざ来たのかえ?」
「ならば、なお申しましょう。あのお方を、この松前納屋に、婿にお迎えなされ。それがよい。」
あやめは唖然としてコハルを見た。
「まあ、そうお口をおあけなさるな。せっかくの可愛らしいお顔が勿体ない。」
「途方もない、……戯言を。」
「なに、途方もなくもないわ。……いえ、ご無礼申し上げておりますが、御寮人さまご幼少のころからお仕えしてきたコハルの言葉を、お耳にお入れくださいませ。」
「あの方は、蝦夷島のお代官の御曹司さまで、お武家じゃ。」
あやめは切り口上になる。だが、コハルは意に介さぬようで、
「大旦那様は、もとはといえば近江源氏佐々木様の御一門と聞きましたぞ。そして、大和を経て、堺の(武野)紹鷗さまの婿に入られたのではありませぬか。さらにつけくわえますに、武野のおうちは革の商いで財をなされたが、もとは若狭源氏武田様にはじまるとされる。蠣崎家は渡党の流れなれど、若狭武田家信広公の血が入り、蠣崎家の始祖に仰いでいらっしゃいます。」まあ、どちらも家系伝説には大いにあやしいところがあるが、とはコハルはさすがにいわず、「このあたりも、同じ若狭源氏の裔どうしの御縁談ではございませぬか。」
(御縁談、か!)
と、あやめはなにか胸がときめくのを感じたが、またコハルに乗せられて阿房か柄にもないと自分を叱り、
「お店には、そのようなうわついた話にかまけている暇はない。番頭、手代衆もいずれ堺に帰りたいものは帰してやらねばならぬから、人手が足りなくなる前に、たとえばトクを仕込んでやり、さらには松前でよき者を探して雇っていかねばならぬ。」
いって、これはしまったと思った。案の定、コハルは笑ってまくしたてる。
「ですから、よき婿をお迎えになさいませと申し上げた。あのお方は蝦夷侍には珍しくお心映え涼やかですし、私どものような卑しき身分の者にもお情けが深い。なにより、松前のじばえの方で、蝦夷島をよくご存じです。ご商売にうってつけでございましょう。」
「それよ。あのお方は、お役目にお忙しい。明日にもまた北の蝦夷地のご巡察のお仕事に出られるとか。商いの道などには」
「その、ご巡察というのですが、……男が女に見栄を張るのはよくあることだし、ひょっとするとあのお方のことだ、まだ子ども子どもしておられて、本当に心から大事と思ってお勤めなのかもしれぬ。それはコハルにもわかりませぬが」
「一生部屋住みの身に与えられた、あぶれ者相応のお仕事だ、と?」
何の権限も与えられず、蝦夷島の北をまわらされているだけだし、十四郎の見聞からくる何かしらの意見など蠣崎家の中で一顧だにされないのは、あやめはもう知っていた。
末のほうの子とはいえ、元服もとうに済ませた十七、八にもなって「御曹司」なのである。捨扶持を頂戴しているどころか、ひょっとすると台所飯を食っている身だ。
そのほかの兄たちは、ほとんどが右衛門大夫だの玄蕃頭だのと官位めいた私称を許され、多くは屋敷を構え、小なりとはいえひとつの舘の主におさまっている者もいる。
何人かいる年若の異腹の弟たちですら、母親の筋目がましなために、家中での身の行く末の見通しはたっている風だ。元服したばかりの弟のことを、十四郎はなにやら私称の官名で呼んだりするが、その者が母方の家から受け継げたのだろう。あまり意味もないものとはいえ、名前で呼び捨てられる身分ではないことはあきらかだ。
十四郎だけは、ただの十四郎であった。どこかの家が絶えそうになったときに末期養子にでも入るしか、一家を構えられそうにないだろう。
「さすがに御寮人さま。それがおわかりならば、……よろしいではありませぬか。」
「お仕事がお好きなのじゃ。蝦夷地をまわられるのを、お代官様のおうちの、たぶん誰よりも大事にお思いであろう。それをとりあげてはなりますまい。」
「松前納屋の婿になられても、似たようなお仕事を、もっと楽しくなされますよ。」
「……あのお方は、お武家のご身分をやすやすとお捨てにはならぬよ。きっとどなたよりも蠣崎のお人でありたいはず。」あやめは、身は部屋住みでしかない十四郎が、どんな身分の者にも気さくなわりに、どうやら武家の誇りが誰よりも強いらしいのに気づいている。
和人とも蝦夷ともつかぬあの姿だから、余計に蠣崎家の武士であると意識したいのではないだろうか。自分と似ている、とあやめは思っている。
(わたくしも、女であるがゆえに軽んじられる。それがために、誰よりも今井の家内の者らしく、商人らしくあろうとしているではないか。)
「それで思い出した。これは申し上げるのが早いかと存じますが、店もいまは静かなようだ。陽の沈む前に、お伝えいたします。」
コハルの顔つきが変わった。あやめの顔の血が引き、こちらも無表情になる。
「申せ。」
「御寮人さまは、いま蠣崎家のことを口にされました。もうお一人、蝦夷地を回られるお仕事についておられる方がいますな。左衛門尉様。」
「え? たれだったかな。」
「八男の与三郎包広様でございますよ。」
あやめは、時々大舘で会う、やさしげな男の顔を思い浮かべる。
「与三郎様は、たしか掃部允であられたかと思うが。左衛門尉は別の方じゃ。」
「なんでもようございます。どうせ皆さま、本当に朝廷(おかみ)の官職をお持ちのはずもない。秋田の安東様あたりが許した、ただの僭称なのですから。」
「あたり、とは……。」
「大事なのは、ご名代さまは与三郎様と合わぬらしいということでございましょう。いまはご兄弟で主従の仲にあっても、間に父君のご当代さまがいらっしゃるから表立ってはおりませぬが、いずれ何かが起こる。」
「なにゆえのご兄弟ご不和か。」
「蝦夷どもの処遇。」
「セナタイか。」
このアイノの部族は、蠣崎家に隣接する勢力である。この半島のおもに西の地域に蟠踞し、その威勢は、和人をときにしのぐ。現に松前が集めた運上金の一部を受けとってきた。蠣崎家にとって目の上の瘤であるのは、名代たる三男も八男も変わりあるまい。
「いや、それどころか、唐子(日本海側)、日ノ本(太平洋側)にいたるまでの蝦夷どもをどう抑えるかを、すでにご名代はお考えとか。そしてご八男も、上ノ国(半島のやや北部)を越え、直接にそこに出向いていらっしゃる。みると聞くでは大違いと申しますが、あのお二人の御気性の違いでは、お考えもそれは異ならずにはいられない。」
「……十四郎様は、与三郎様と一番お親しいな。」
「よくご存じで。そのあたりのこともございますよ。」
コハルは、いつものコハルに戻って、念を押すようにいった。
しかし、しばらくは、何事もなかった。北方から戻った十四郎が店にあらわれると、コハルは店の奥に駆け込んで、すぐに迎えの挨拶をするように御寮人さまを急き立てた。
「お供をお連れです。」
「珍しいの。」
「あいにく、これではお屋敷に引きこんで、よいことはできませぬな。」
「何の話じゃ。」
「すぐに帰ってしまわれますよ。」
「そうはなりますまい。……今日は、外で茶をたてる。以前にお約束したことだ。川の方に参るので、お誘いしよう。」
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「なにが?」
「早速コハルの言葉をお聞き届けくださいましたな。」
そうでもなく、二人は敷物の上に行儀よく座りながら長い話をして、控えているコハルたちを疲れさせるだけだった。ただ、
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(子どもも、いいところではないか。うちのトクとかわらぬ。)
「おぬしは、ゴリョウニンサマの家の、コハルドノか?」
「左様にございます。」
十四郎は自分の名前まで蝦夷地で口にしてくれていたか、とおもうと、風変わりな異相の御曹司こそは我が女主人の相手にますます相応しく思えて、コハルはうれしい。
「オンゾウシは、ゴリョウニンサマとミョートになるのか。」
「さあ。そうなりましたら、おめでたいことでございますのう。」
さすがにはばかりを知らぬことを蝦夷は口にするものよ、とコハルは自分のことを省みずに思った。
「オメデタイ? とは何か。」
「うれしい、よいことにございますよ。」
「ウレシイ。ウレシイ、か。」アイノの幼い従者は覚束ない言葉を思い出したらしく、首を振った。「うれしくはない。アシリレラは、とてもは、うれしくはない。」
(なんだ、こいつは。)
コハルは相手をあらためて観察し、合点がいった。
(わしも、迂闊な……)
「あなた様は、娘ごでいらっしゃいますな。」
「違う。」
慌てて首を振るが、もう誤魔化せない。少女が泣きそうになったので、コハルは慌てて、
「誰にもいいませぬよ。御曹司さまにも、いわぬ。わたくしが、気づいたとは、いわぬ。」
「……いわぬ、か。頼む。」
主人たちが、こちらを呼んだ。
「ここで聞いたことは口外、……誰にもいいませぬ。ただ、あなた様も、思ったことを、すぐにお口にはなさらぬほうがよい。御曹司さまにもでございますよ。」
「……アリガタシ。」
アシリレラとかいう、アイノの少女が小さく呟いた。
(さて、御寮人さまも、うかうかとはしておられませぬことよ。)
コハルは苦笑いした。まだ子どもにすぎないが、十四郎に憧れているのだ。おそらく、松前が見たいなどと十四郎にねだり、いうことを聞いて貰えたのだろう。蝦夷の首長の筋でもあろうか。だとすれば、十四郎も仕事がら無視はできぬ相手である。
(しょせんは、蝦夷の娘ではないか。)
と思ったが、十四郎のあの姿はどこかの蝦夷の血をひくものに他ならない。コハルは心配にもなってきた。
だが、それはコハルにとっても、うららかな陽の残る、思い出すに温かい気持ちになる日のことであった。
海峡のはるか向こうでは、上方の織田政権の伸長がいよいよ著しい頃である。いずれは上杉、毛利といった地方勢力を駆逐し、北関東をへて奥州に迫るのもそろそろかと思えていた。
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過去に藩の討っ手役を失敗した為に、左遷の上に禄高半減の処分を受けた過去を持つ臼浦覚平は、〔万里眼〕と呼ばれる目の良さと、立信流免許皆伝の腕前を持つが、その口下手故に「むっつり覚平」と嘲られていた。
そうした鬱屈した感情を抱えながら、幼き娘と二人で暮らす覚平は、ある日大きな事件に巻き込まれてしまうのだが――。
武士としてではなく、父として何としても生きる道を選んだ覚平の覚悟とは!?
ノベルアッププラス 第1回歴史・時代小説大賞 短編部門受賞作
貞宗を佩く白猿
糺ノ杜 胡瓜堂
歴史・時代
曲亭馬琴他 編「兎園小説」第十一集「白猿賊をなす事」より(全五話)
江戸時代後期に催された、世の中の珍談・奇談を収集する会「兎園会」
「南総里見八犬伝」等で有名な曲亭馬琴、著述家の山崎美成らが発起人となって開催された「兎園会」で披露された世の珍談・奇談等を編纂したのが「兎園小説」
あの有名な「けんどん争い」(「けんどん」の語源をめぐる論争)で、馬琴と山崎美成が大喧嘩をして、兎園会自体は自然消滅してしまいましたが、馬琴はその後も、個人的に収集した珍談・奇談を「兎園小説 余録」「兎園小説 拾遺」等々で記録し続けます・・・もう殆ど記録マニアと言っていいでしょう。
そんな「兎園小説」ですが、本集の第十一集に掲載されている「白猿賊をなす事」という短い話を元に短編の伝奇小説風にしてみました。
このお話は、文政八(1825)年、十月二十三日に、海棠庵(関 思亮・書家)宅で開催された兎園会の席上で、「文宝堂」の号で亀屋久右衛門(当時62歳)という飯田町で薬種を扱う商人が披露したものと記録されています。
この人は、天明期を代表する文人・太田南畝の号である「蜀山人」を継いで二代目・蜀山人となったということです。
【あらすじ】
佐竹候の領国、羽州(出羽国)に「山役所」という里があり、そこは大山十郎という人が治めていました。
ある日、大山家に先祖代々伝わる家宝を虫干ししていると、一匹の白猿が現れ家宝の名刀「貞宗」を盗んで逃げてゆきます・・・。
【登場人物】
●大山十郎(23歳)
出羽の国、山役所の若い領主
●猟師・源兵衛(五十代)
領主である大山家に代々出入りしている猟師。若い頃に白猿を目撃したことがある。
●猴神直実(猴神氏)
かつてこの地を治めていた豪族。大山氏により滅ぼされた。
紅蓮に燃ゆる、赤虎の剣
沖田弥子
歴史・時代
何者かに父を殺された波江雪之丞は、仇を捜していた。老爺の目撃証言により、仇は赤髪の大男だと知る。その張本人である剣客・蒼井影虎の屋敷に厄介になることに。雪之丞は仇討ちを狙うが、影虎には到底剣の腕が及ばなかった。ある日、勘定方で父の遺品を受け取ったところ、同僚の堀部から「父から書物を預かっていないか」と尋ねられる。屋敷へ赴くと、庭土を掘り返す男を発見。男は賭場で使用する賽を落としていった。影虎とともに賭場へ向かい、父の死の真相を探る雪之丞だが……。◆昼行灯の剣客が事件を解決!第五回歴史・時代小説大賞にて、奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました。
おしごとおおごとゴロのこと
皐月 翠珠
キャラ文芸
家族を養うため、そして憧れの存在に会うために田舎から上京してきた一匹のクマのぬいぐるみ。
奉公先は華やかな世界に生きる都会のぬいぐるみの家。
夢や希望をみんなに届ける存在の現実、知る覚悟はありますか?
原案:皐月翠珠 てぃる
作:皐月翠珠
イラスト:てぃる
貧乏男爵家の四男に転生したが、奴隷として売られてしまった
竹桜
ファンタジー
林業に従事していた主人公は倒木に押し潰されて死んでしまった。
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貧乏男爵四男に。
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