えぞのあやめ

とりみ ししょう

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一の段 あやめも知らぬ   御曹司さま(二)

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 なんの準備もないが、茶室に通してやった。火をおこしながら、
「このあたりにも熊などが出るのでございますか。」
つい訊いてしまう。
「出ますな。」
こともなげにいわれたが、あやめは思わず、低く悲鳴をあげた。十四郎は怯えさせては気の毒だと思ったのか、
「が、近ごろはそれほどでもありますまい。松前も随分と開けてまいりました。たまにのことだ。」
「たまに……。されど、熊をおとりになったと。」
「ああ、あれはフルピラの山でのこと。ここよりもずっと北なれば、ご心配に及ばぬ。」
 十四郎は、いわば巡察の役目をあてがわれているという。元服の前から、松前大舘の蠣崎家の目がおよばぬ蝦夷島のより北のほう(これを「蝦夷地」と呼ぶ)に、蝦夷代官の使いの名目で派遣され、和人の舘もないような土地のアイノの集落に入っていたという。
 和人とアイノとの協定は今のところ、実質的には政治では相互不干渉を貫きつつ交易を平和裏におこなう―松前から近隣のアイノ部族には、運上金の幾分かを分配しさえするというから、立場は決して強くない―というものだが、代々の安東家支配の名目はあり、代官の蠣崎家としても北方の動きは探っておきたい。
 そこで十四郎は、この松前一帯に隣接する、アイノの有力な部族やすぐ北の上ノ国はもちろんのことだが、蝦夷島のより北の広大な部分―蝦夷地にも踏み入るのだという。
「拙者などは、与三郎兄の伴のようなものであったが、近年はようやくひとりの仕事もあてがわれるようになり申した。」
 蝦夷島は、いまは和人とされる渡党らが古くに入りこんだこの南の半島部の、そのさらに奥こそが果てしなく遠く、また広い。そこにも蝦夷の集落がいくつもあるという。
 十四郎はここではアイノとはいわず、蝦夷と呼んだ。おそらく、みたこともないような異人の種族も入り込んでいるのを、知っているからだろう。自分と同じ顔かたちをした蝦夷などもいるにちがいないと思っているのだろうか。
「危のうは、ござりませぬか。」
「ひとの住むところであれば、危なくもあり、そうでもないところもござる。」
(心配をしてやったものを……!)
 あやめは、今日は何か無性にこの若者に肚がたってならない。十四郎は愉快そうに、自分が帰ってきたばかりの、なにやらいう土地の部族の話をしているが、商売に関係がなくもない話なのに、わけもなく業腹のあやめは聞き流してしまう。
 いまは、茶である。

 ようやく湯がたぎり、ふたりは茶の作法に従った。十四郎もまったくの作法しらずでもない。(蠣崎家の人びとは当主以下、武家としての文化的素養に欠けてはいなかった。和歌の素養が不可欠の、連歌なども巻く。)
 ひとしきり作法が済むと、あやめから話をはじめた。
「鉄砲のことでお越しくださったと存じます。おそれながら、ただいまもご用立てできる品がなく……」
「いや、それは構わぬのでござる。」
「はあ。と申されますと?」
 何をわざわざ足を運んだのか、が訝しい。
「本日は、ご無沙汰のお詫びにまず参った。また、土産をお渡しもしたく存ずる。」
「あのような者どもにまで格別のお心遣いをくださり、御礼申し上げます。」
「干し肉は、お口にあえば、食べてくだされ。薬食いは、この土地で、冬を過ごされるには欠かせぬものと存じる。」
「はあ、それはまことにご親切に。」
「それ以外に、名高い宗久殿の御息女にはこんなものを、御笑覧されたく」
と、傍らの布包みから取り出したのは、小さな盃である。
 目の覚めるような白さと、清潔なまでの硬さが、若者の桃色の掌の上にある。
「白磁でございますね。」
「高麗の品に間違いなかろうか。……ならば、銘もなく、揃いでもなく、このようにほんの小さいものだが、お気に召せば、どうかお納めになられよ。」
 さあ、と手に取るようにうながした。
「どこで、このようなものを?」
十四郎は、あやめの知らぬ地名をいい、
「―の村で、貰ったのでござる。蝦夷船の立ち寄るヨイチの湊が、近くにございましてな。」
 西の唐子に展開する貿易の規模の大きさと深みに、あやめは器の美しさ以上に感興をおぼえたが、
「高価なもの。納屋の分に過ぎます。」
青磁、白磁は堺の屋敷にはふんだんにあるもので、何より、このへんな若者に貰う筋あいもない。
「恐悦至極でござりまするが、手前などが頂戴しては勿体のうございます。お気持ちだけ賜りたく存じます。」
どこかでいったことがある言葉だ、とふと思った。
「それは困った。……いや、お気持ちといえば、これは別の者の気持ちでござるので。実はこれは預かりものにて、お納めくださらないといけないようでもある。御寮人さまにお渡しするよう、言付けられたのだ。」
「はい?」
「……と、拙者は解した。エコリアチと名乗ったが、そういう老いたアイノをごぞんじではありませぬか。」
「えこ?」
「エコリアチ。」
「申し訳もございませんが、まだご当地の蝦夷に、……アイノに知己はおりませぬ。」
「そのアイノの老人は昔、船乗りであって、今でも拙者にこれをほいと渡せるほどの財を、和人との商いでなしている。遠くは和人の都にも、それに近い、巨大な濠のある港町サカイにも行ったことがあるそうな。」
「あっ。」
「サカイでは、非常に立派な大店で、小さな可愛らしい子に会った。賢い子で、自分の娘によく似ていた、と申しておりました。心残りは、そのときなんの土産も渡せなかったことだ、と。」
「……!」
「サカイには二度と来られないだろうが、きっといつか蝦夷地で会えるだろうといったそうです。」
(いった。あのひとはたしかにそういった。)
「自分の娘は、サカイから戻ったら、急な病で、はかなくなっていたそうだ。娘への土産は無駄になってしまった、と申した。それ以来、ひとり娘は死んでしまったが、もう一人を遠いサカイに置き残したような気がしてならないのだ、と。」
 アイノは面白い考え方をするものですね、いや、それはあのエコリアチ老人だけのことやもしれませぬが、と十四郎は首をかしげた。
 あやめは、顔が紅潮し、細かく震えだしている。膝に揃えた両手を握った。
「納屋という堺の大店の御寮人殿が、たったおひとりで松前に来られたばかりだ、と話してやりました。かれは息が止まるほどに驚いたが、きっとその娘ごだろう、見るからに聡い子だったので、いずれ蝦夷地にも来るような大きな商いをするだろうと思っていた、女ひとりとは勇敢だ、と喜びました。そしてこれを、わたしに託した。やっと土産を渡すことができそうだ、と。」
 あやめの視界が急にぼやけた。熱いものが頬をつたう。
(おや、自分はなぜ泣いている?)
 堺が懐かしいのか、老人の無償の好意がうれしいのか、娘を喪ったかれの悲劇に同情するのか、なんともわからない感情に責めたてられて、あやめは声を抑え、噴き上がる涙をかくそうとして袂をあげ、それがかなわなくてかがみ、ついに敷物に突っ伏して泣いた。

 十四郎は、急に起こったあやめの歔欷がはげしく、なかなかとまらないのをみて、慌てたようだ。
「御寮人殿。つまり、間違いではございませぬな。……ならば、あの老人も、きっと喜んでおりましょう。いずれ、伝えてやることもできよう。……であるので、そう、お泣きになられませんように。」
「違うのでございます。」
「?」
「違います。あやめは、手前は……」あやめは、自分でもわけのわからないことを口走った。「いつも、こんな泣き面ではございません。」
「え、はあ、左様か。」
「左様でございます。……それに、堺が懐かしうて泣くのではございませぬよ。堺に帰りとうもございませぬ。」
(何をいうておるのだ、わたくしは?)
 しかし、口走ってしまって、わかった。
 あやめは、必ずしも明るくもなかった孤独な子どものころに急に向きあわされ、そこから流れた膨大な―まだ十年にもみたないが、この女性には人生の半分である―時間を意識し、いわばその河を懸命に泳いできた自分に気づかされた。
(つらかった。悲しい思い、苦しい思いばかりだったのではないか。)
(たまに笑うために、泣いてきた……)
 さらに、まだなにごともなしていないのに、自分はひとりでこの北辺の地まで運ばれて来ていると思うと、怯えに近い感情に襲われた。
(お店まで貰えたが、後ろの山から熊が出る町に来てしもうたのだと……?)
 心細さが、やせ我慢ばかりだった童女に戻ってしまったかのようなあやめの心に、錐のように突き刺さっていた。
(それにしても、見も知らぬ男の前で、みっともない。取返しがつかない醜態……。)
 その羞恥も、あとからあとから涙が流れてくる理由のひとつだった。あやめは身悶えした。
 十四郎は、黙って、震える女の丸い背中を見ているのだろうか。
「とんだ、ご無礼を、いたしました。」
 かなりの時間があって、あやめは平伏する格好で詫びた。まだ涙が止まらないので、顔をあげられない。
「御寮人殿、拙者は用が済みましたので、これで失礼をいたそう。お茶をいただき、御礼申し上げる。」
 泣きやまなかった女をどう思ったのか、しかし、声音はあくまでやさしく、十四郎がかがむように立った。天井の低さが気になるようである。
「今日は何か、ご迷惑になったようだ。が、どうかお納めくだされ。」
「まことにかたじけのうございました。」
あやめは、白粉の流れてしまった顔を伏せたまま、すっかり忘れていた礼をいった。
「この御礼は、必ず……」
「してやってくだされ。次は別の村に参る筈なれど、また老人に会うことも近々にござろう。拙者に言付けてくださればよろしかろう。」
「はい、いえ、……違うので。」
「またですか。」
「そのアイノのご老人には、もちろん、必ず……。そして、御曹司さまにもあらためて御礼申し上げますので。また、是非、このわび住まいにお越しくださいますように、屹度お願い申します。」
「泣きやまれた。」十四郎は安心したように笑った。「いや、有り難い。御礼などとは気遣い不要だが、お茶を頂戴しに、またお邪魔をいたすことにしよう。」
「おおきにありがとうございます。左様でございますね、この高麗ものも眺めるだけでは惜しう存じますので、これでお酒をお出しいたしましょうか。」
 それは贅沢で大変待ち遠しい、と十四郎はまた笑んだが、ふと思いついたように、
「鉄砲の」代金の一部に充ててくれればさらに有り難いのだが、と上り口で丸めた背中が笑った。
(それは、忘れていないのか。)
 取り残されたあやめは、まだ肩を震わせていたが、次第に強い感動の痛みは遠ざかり、ほのぼのとした気持ちに身をゆだねられるようになっていた。顔をこすって、ややうろたえたが、まだ座ったままでいる。
(堺や京のお坊様たちのいう、縁、というものがもしあるとすれば、……)
 自分とこの蝦夷島との間にはそれがあったのかもしれない。さほどの信心もないあやめも、そうした感慨に打たれた。
 床におかれたままの白磁の小さな器を掌にのせて、ひとしきり泣いたあとの穏やかな気持ちで眺める。エコリアチという翁との縁はこの形をしていて、美しい。蝦夷島との縁もそうであってくれればよい。いや、そうしよう。

 蠣崎十四郎と馴染むにつれ、その「縁」は、あやめの心の中で、この異相の若者の姿に重ねられていく。

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