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一の段 あやめも知らぬ 御曹司さま(一)
しおりを挟むところが、次の日、納屋の店先に十四郎があらわれた。供もつれずに、と思ったが、そういうものは、この部屋住み同然の若者には、ろくにいないのかもしれない。
「新しいお店を見物に来ただけだ、とのことで、お帰りになりました。」
上方風の建物は松前には珍しくないし、とくに新奇なつくりや店構えでもない。やや珍しいかもしれぬといえば、堺にはよくあるように、広土間には明風の椅子と机があり、商談の客を迎えるようになっている。だが、それに座ろうともしなかったという。おかしなひとだ、と思った。
それが、二日後にもあった。同じように、帰ってしまったという。
三度目になったときは、あやめも何か焦れた。丁稚のひとりにいい含めておく。
「次は必ず引き留めて、ご挨拶をさせなさい。」
「あのお武家に、でございましょうか。」
こちらに来る旅の途中、近江の寺で拾ったも同然に連れてきた孤児の少年は、すでに女主人を女神のように尊敬しているらしい。それに、お武家とはいえしょせんは蝦夷者など、というところがまだある。
江州者らしい聡い子だが、こういうところは今後、直さねばならないとあやめは思った。
「決まっておる。わたくしがご挨拶するのじゃ。」
おとなしく頷いたが、次の日に泣きそうな顔で、奥の部屋の、自慢の南蛮渡来の卓であやめが筆を動かしているところにやってきた。
「また、それには及ばぬ、と。」
「帰ってしまわれたのか。」
はい、背中をくるりと返して、と丁稚は真似をしてみせた。あやめは不審がりながらも、その所作には笑った。
「次は、こうしてやりなさい。」
と、少年の背中を、女主人は綺麗に伸びた人差し指でつついた。
「驚かれるでしょう。」
「はい、さようにいたします。」
「いまのは、たわぶれ(冗談)じゃ。」
あやめは少し慌てた。お武家に下手なことをしたら、その場で斬られてしまうこともありうる。
(ここは堺ではない。)
「トクどん、本気にとってはならぬ。そう……あるじが茶をおたてする、と申しているとお伝えせよ。それでもお来しにならぬなら、おやかたさまに、御用を直接お尋ねしなければなりません、と。」
次に十四郎が現われるまで、不思議に随分間が空いたが、トクと呼ばれる丁稚は、言いつけられた口上をきちんと覚えていた。
どちらが効いたのかわからないが、十四郎は次のときには長い体を曲げて、納屋の広い土間に入ってきた。
「何度もおたずねくださったとのことで、店の者が行き届かず、申し訳もござりませぬ。」
十四郎は恥ずかし気にうつむいたようになったが、もちろんそれは一瞬のことで、
「いや、こちらこそがご無礼を重ねた。ご不審の段、まことに痛み入る。」
十四郎の赤くなった様子に、あやめは先日のことを思い出した。
「よろしければ、お茶を……」
と、店に隣り合う、新しい屋敷にあらためて招き入れた。
(まさか、文句でもいいにきたわけかしら。)
とも思ったが、
「拙者は、形の整った茶室に入るは、初めてでござる。」
屈託なく喜ぶ若者のさまには、女の一言を根に持つような陰湿さは感じられない。
あやめも話を切り出しにくく、つい、時候の挨拶と茶のあとの互いの故地について尋ねるのに終始した。
若い武家は聞き上手で、うっかりと、用件を聞くのも忘れてしまったのに気づいた。十四郎はあやめの蝦夷島への知識の不足を笑いをまじえて正してくれる以外には、上方の話に面白げに相槌をはさむくらいで何もいわず、折り目正しく礼を述べて、帰ってしまった。
(やはり、背中を指でいきなりつっついて、驚かしてやればよかったか。)
よくわからないひとだ、と思い、忙しいあやめはすぐに蠣崎家の部屋住みのことなど忘れた。
ところが、二日もたたぬうちに、今度は店を訪ねてきた。
お通しして、話を聞いてやると、愚図愚図とためらっている。
「御曹司さま?」
忙しいあやめはまた焦れて、この自分よりいくらか若いらしい男に、納屋の御寮人としては珍しく、ついずけずけという。
「御用あって、こちらにいらしてくださったのでございましょう。仰ってくださりませんと、納屋も察しかねまする。他人の耳もご心配ござりませぬから、お早くお申し付けをくださいませぬか?」
「兄たちには、いわれぬか?」
なんだ、兄上たちが怖いのか、とあやめは馬鹿らしくなったが、
「堺の商人は、口の堅いが信条。」
「結構。安堵いたした。」
(本当にほっとした顔におなりだな。)
あやめは可笑しさを抑えられないが、次の言葉には眉をひそめた。
「ならば、申し上げよう。鉄砲を手に入れたい。」
「鉄砲?」
「一丁でよい。堺の納屋殿ならば、扱っておられるはず。」
(それは、扱ってはおるが。)
「まことに申し訳もござりませぬ。納屋は新参者とはいえ、蝦夷地での鉄砲の商いを、お代官様が厳しくお取り締まりのことは存じております。ですので、いま生憎、御曹司さまにご用立てできるものが手元にござらぬので。」
「いま頼めば、いずれ手に入るものか。」
「ご存知のとおり、こと鉄砲となりますると、持ち込みはおろか、その後のただの売り買いにも、お代官様のお許しがござりませんと。」
実態はそれほどの厳密な管理があるわけでも、代官にそれができるわけでもないが、相手は当の蝦夷代官家蠣崎の者である。こういっておくのが無難だ。火縄銃も実は、建てましたばかりの倉に相当の数が黒光りして眠っている。
「承知いたした。もしも鉄砲が入り、その余りが出ましたら、お伝えをいただきたい。」
「そのさいには、」あやめはどうしたものか、この異相の若者には余計なことをいってしまう。「なにゆえ、御曹司さまが鉄砲をご所望かをお尋ねいたしたく存じます。鉄砲ならば、お代官様が、大舘にすでに数多くお持ちではござりませぬか。」
十四郎は黙って考えていたが、やがて人懐こく笑って、
「お売り下さるとなれば、そのとき是非申し上げよう。」
これでしばらくは来ないのだろう、と十四郎の背中を見送りながらあやめは思ったが、そのとおり、ひと月近く、 十四郎はあらわれなかった。
あやめには仕事が多い。いつしか、異相の若者のことなど忘れかけていたし、この間、たまに大舘に話をせよと召されても、おやかたさま―こう呼ぶのに、そろそろあやめも慣れはじめた―とご名代さまの横にはべるなかに、あの不思議な髪色はなかった。
それが、突然また店先にやってきた。
(また、来たではないか。)
あやめは店の奥で気づいて、なにやら慌てた気持ちになったが、予告や約束があったわけでもないので、そんな必要もない。いま、ちょっと頭を使う帳簿をつけている。この相手に挨拶に出る時間は、やや惜しい。
(そうだ、鉄砲は、……やはり、まあよいか。)
それにしても若者は、直接客相手の小売などしないから商品も少なく、やや殺風景な店の土間で、雇人たち相手に話をはじめているようである。唐椅子に腰かけ、周りを取り巻いている者たちに、何か配ってやったらしい。小女たちやトクなどはおろか、コハルまでもその中にいて、笑っている。
「薬食いでございますか。」
「おう、おぬしは上方者か。この地では、こうしたものも食いつけぬといかぬぞ。」
「なんのお肉ですのん?」
「なに?」
十四郎には聴き取れなかったらしい。
「いかなる獣の肉でございましょうか。」
丁稚頭のお国言葉を、コハルがいい直してやる。
「ああ、拙者が捕ったクマじゃ。」
「熊じゃて。」
「嘘でござりましょう。」
「嘘? 何を申す。まことだ。最初から干し肉が歩いておるわけはないぞ。」
一同の笑い声が聞こえると、あやめはのけ者にされたようで小憎らしい気分になぜかなり、店の奥の南蛮机の部屋から動かない。
(気安い御曹司じゃな。蝦夷代官程度の部屋住みというのは、堺のお店雇の牢人などよりも腰の軽いものなのか。)
年嵩の手代のひとりがやってきて、御寮人さまに会いたいと申されています、と告げたとき、跳ね上がるように椅子から立ってしまった。
「お出迎えいたされますか。」
「いまさら、ではあるなあ。お通ししておき。」
書院に待たせた。上座に座らせると、それは礼儀だから十四郎も従ったが、できれば茶を所望、といった。
茶の席の作法は、茶の湯のことばかりで済む。うるさい作法なしに、気を遣われずにしゃべりたいことがあるのだろう。
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